天霧さんは、雨に愛されている。
愛されているなんて聞こえのいいそれも蓋を開ければ単純なものではなくて、ただ文字通りの事実を現した言葉以外の何者でもないと僕は思っている。
窓の外に広がる梅雨明け特有の雲一つない深い空と、眩しすぎるほどの日差しがガラス越しに僕を貫く。校庭からは部活動の朝練をする声だけが響いていて、それ以外は世界から切り離されたように聞こえない。
「っ……」
あぁ嘘だ、聞こえる。こんなにも晴れた日だというのに、場違いなほどの水の滴る音が。小さく楽しそうにも聞こえる足音と一緒に近づいてくるそれは、僕しかいない二年四組の教室に向かっているようで次第に大きくなっていく。
この水の音も、足音も。それから、ドアにつけられた磨りガラス越しに見える人影と極端に鼠色をした背景も、全部見慣れたものだ。
カツン、とドアのスライドになにかが当たる音と、目の前に現れた空色の瞳を覗かせている文字通り濡れた長い髪。普段となんら変わらないその姿に、思わず僕は頬を緩めた。
「今日も早いのね――おはよう、あおくん」
「今日も派手に雨が降っているね、おはよう天霧さん」
彼女の頭上には、今日も雨が降っている。
***
雨女や雨男、晴れ女や晴れ男と比喩する言葉はどこにでも存在をする。都合の悪い天気を誰かのせいにしたいのは、いつの時代も共通らしく、雪女に至っては妖怪の部類にもなってしまう。
そんな言葉達の中でも彼女、天霧さんの場合は群を抜いてそれが似合っている。
文字通り雨女の天霧さんがいるところには、いつだって雨が降っている――天霧さんの頭上限定で。
「これね、遺伝なの。面白いでしょ?」
物理的雨女こと天霧さんはいつだったか、そんな話をしながらまるで他人事のように笑っていた。
雨が頭上で降る事が遺伝の関係という話もそうそう聞くようなものではなかったが、彼女いわく先祖に関係しているとか。なんでも腕のたつ陰陽師かなにかだったその先祖は、ある日荒神を怒らせてしまったらしい。その際に許しを求めたところ、殺しまではしないが末代まで一生雨に降られる呪いをかけられたと彼女は言っていた。
信じられるかと聞かれればもちろん答えはノーだけど、実際に目の前にいる彼女の頭上にあるのは紛れもなく雨雲と呼ばれるもの。百聞は一見に如かず、これを見せられて信じられませんと言う方が難しいものだった。
滴る雨は彼女の肌を滑り、ぽたりとワックスが少しだけ剥がれた床に吸い込まれていく。吸い込まれるという表現よりはまるで溶けているようで、ぽたり、ぽたりと流れたと思おうと最初からなにもなかったように消えていく。
彼女に触れている間は雨もどうやら消えないようで、彼女の方は少しだけ濡れているようにも見える。なんでも、彼女から離れれば雨は消えるが、彼女に触れているものはそのまま濡れてしまうらしい。
「ね、どう?」
「面白いかどうかは別として、風邪ひくから濡れた部分は拭きな」
天霧さんはわざとなのか天然なのか、よく濡れたままでいる。それが僕には――こう、目に毒な時もあって。つい、見ていて僕の方が恥ずかしくなる事も多い。
ふいと目線を逸らしながら小さめのタオルを取り出して渡すと、天霧さんは嬉しそうにそのタオルで胸元の水滴を取っていた。
思い出してみれば、今でこそ慣れたものだが最初に彼女と出会った時は衝撃的であった。
確かあれは、入学式の最中。
無事に入学式を迎えた喜びからだったのか頭上の雨雲から虹を覗かせていた彼女は、教室に戻ってからもその雨雲で人気者になっていた。その時たまたま隣の席だった僕はそれ以降も彼女と話す機会も多く、こうして二年生になった今も変わらない関係を続けている。
「だから私は、雨女……お母さんもおじいちゃんも、みんな同じなの」
そう話す彼女は静かに笑うと、日直だったようで昨日から黒板に書かれたままだった白い文字を消していく。
個人的には荒神をなぜ怒らせたとか、荒神もどうしてそんな呪いをセレクトしたのかなど気になる事は多いけど、これ以上は触れないでおく。
「……けど、雨ねぇ」
「意外に悪くないよ、雨が降っているのも」
僕からすれば自分の周りだけ雨なんて絶対に嫌だけど、物心ついた時にはすでに今の状態だった彼女は、満更ではないようで。天霧さんは僕の零した言葉を拾い上げると、優しく頬を緩めながら校庭へ目をやった。
「例えば、あれ」
黒板消しを置きながら、彼女は窓の外を指さしている。
なにかと思い目線を向けると、そこにあったのは園芸部の作った小さな花壇だった。花達は華麗にイキイキとした表情を見せ、これでもかと言わんばかりに咲きこぼれている。
「私があの花達を近くで見るだけで、水をやる事ができるでしょ?」
「それってただのめんどくさがり屋じゃん」
ちゃんとジョウロを使ってあげてほしい。
けどもちろん、彼女お得意のジョークであるとわかっている。だって彼女の雨は、彼女から離れれば消えてしまうから。
そんな彼女の言葉に肩を落としながら、今度はさっきよりも悲しそうに微笑む。
「それに、泣いているのも隠す事ができるから」
「っ……」
今のは、ジョークに聞こえなかった。
確かに彼女の言う通りだ、天霧さんはいつだって雨に濡れているからか、泣いている顔がわからない。今こうして微笑んでいる表情だって、もしかしたら泣いているかもしれないし、そう思ってしまうと僕の胸がなにかに掴まれたように息苦しく思えてしまう。
どう返せばいいのか、なんて返せばいいのか。
「天霧、さん……」
「…………ふふ、ふふふ」
「……え?」
そんな事を考えながら目を伏せていると、対する天霧さんは突然こらえきれなくなった様子で、楽しそうに声を出して笑い始める。
なにかと思えば、天霧さんの頭上の雲もこころなし落ち着いて見えた。
「もちろん、今のもジョーク」
「いや、どこが……」
少なくとも、僕にはまったくジョークに聞こえなかった。一方の天霧さんはあっけらかんとした様子でびっくりしたかな、なんて言いながら目を細めている。
「あおくんが思っているよりも、この雨は便利なの」
その雨の使い方がはたして便利と言える部類なのかはわからないが、彼女はそのまま僕の机の方へゆっくりと近づいてくる。揺れる長い髪は日差しに照らされて、宝石のように眩しかった。
「さっきからじっと見ているけど、私になにかついている?」
「え、あ、いや、別に」
彼女はもしかしたら、人をからかうのが上手なのかもしれない。
自分でもどうかと思うくらいあからさまにごまかし、目を逸らす。見透かされているようで恥ずかしいなと考えながらもちらりと彼女へ意識を戻すと、本人はなにを考えているのか寂しげに目を伏せていた。
「けど、確かにね」
その声は、どこか諦めも滲み出ていて。
「この体質、慣れていても悲しい事はあるかもね」
そしてどこまでも、冷たいものだった。
***
「慣れていても、悲しい事……」
朝に比べるとほんの少しだけ薄い雲がかかった空の下で、僕は一人そんな言葉を零していた。
天霧さんが言っていた、慣れていても悲しい事という一言。
あれからしばらくその意味について考えてみたけど見当がつかなくて、まるでなぞかけをされている気分になってしまう。
やっぱり、彼女は人をからかうのが上手だ。頭の中は彼女の事でいっぱいで、なんだか天霧さんの手のひらの上で転がされているような気もする。
そんな曖昧な事を考えながらも、帰り道にある石畳の古い階段を一段一段ゆっくりと降りていく。
本当に、彼女の言葉の真意が僕にはわからない。
「僕、天霧さんの事なにも知らないなぁ……」
あの掴みどころのない天霧さんでも、悲しいと思う事。悶々と見えない正解を探しながら歩いていると、小さな公園に差し掛かったところで僕の肩をポトリとなにかが当たったような、そんな気がした。
「あ、雨だ」
通り雨なのか、小雨が肌に当たる。きっと天霧さんは毎日浴びているだろうそれだけど、僕には少しだけ冷たい。
「早く帰らないと……ん?」
取り出した折り畳み傘をさしている時にふと目に留まった影は、ひどく見覚えのあるものだ。
錆ついたブランコとお世辞にも充実しているとは思えない遊具、それと申し訳なさそうに数個点在するベンチのみ。そんな公園でベンチに傘もささずに座っている影は空の方を見ているようで、濡れた黒い髪が場違いにも綺麗に思えてしまう。
陶器のように澄んだ肌と人形のように吸い込まれそうなほど艶やかな空色の瞳は、間違えるはずもない。
ゆっくりと近づきながら確かめると、その正体はやっぱり僕もよく知っている存在だ。
「えっと、天霧さん……?」
「あれ、あおくん」
文字通り雨に愛された彼女は僕に気づくと、どことなく嬉しそうに目を細めながら今帰りなのね、と言葉を続けてくる。
「うん、委員会の手伝いが長引いたから……天霧さんは?」
「あおくんの事待っていた……なんて言ったら、びっくりする?」
「え、は……!」
「もちろん、今のもジョーク」
「……天霧さん?」
あからさまに不機嫌な顔を作ると、天霧さんはごめんごめん、と本当に悪いと思っているのかわからないような口調で僕に笑ってくる。
「けど本当に、少し空を見ていただけ」
「空?」
目を向けても、そこに広がるのは曇天の空。目を細めても続くのは、どこまでもくすんだ空だけだ。これで空を見ていると言われても真意がわからず、僕は思わず素っ頓狂な声を出した。
彼女にとってはそれすらも面白かったようでなにその声、と笑われてしまったけど。
「だって今日は、空がよく見えたから」
「よく見えるって、どこが……あっ」
今ではないその言葉に、はっと顔を上げる。
曇天が広がる前は、確かに薄い雲の中でも青い世界が広がっていた。もしかしたら、彼女の見ていたという空はそちらの方かもしれない。
普段の彼女の頭上は、どこへ行っても曇天のまま。青い空は彼女の雨雲に存在しないようで、彼女がどれだけ上を見ても青い空が広がる事はほとんどない。そんな仮定の話を考えているとどうやら正解だったようで、ここは遮るものが少ないから、と笑っていた。
天霧さんの言う通り、この公園の近くにはそう大きな建物があるわけではなく遠くまでよく見える。
「ここなら、私の雲以外も綺麗に見えるでしょ?」
「っ……」
あまりにも悲しい言葉に、僕の指先がピクリと跳ねた。
こんな気持ちに天霧さんをさせるなんて、天霧さんの先祖は本当に身勝手だ。こんなにも綺麗な彼女は空が見たいだけなのに、それをあの雲は邪魔をしているから。
そんな思っていても言えない事を浮かべながら悶々としていると、天霧さんはそんな僕を見てどう思ったのか、楽しそうな様子でねぇあおくん、と僕の事を呼ぶ。
「今、私に同情したでしょ?」
「あ、や、そんな事は」
「顔に書いてある」
そんなつもりはなかったけど、知らずのうちに表情に出てしまっていたらしい。
申し訳なかったなと目を伏せていると、彼女はなぜだかわからないけどどこか調子外れな様子で笑っている。
「何度でも言うけど、意外に悪くないから」
悪くないけど、空は見えない。
それは本当に、悪くないと言えるのだろうか。
青く透き通った空も、真綿のように浮かぶ雲も。
全部を当たり前に感じてきた僕には彼女がどう思っているのか想像できなくて、かける言葉が見つからなかった。
「ただ確かにちょっと、ほんのちょっとだけ損はしているとは思うの……だって私はどこまでも青い世界を見る事ができない、視界には絶対に雲が見えてしまうでしょ? それに……」
「それに?」
言葉を詰まらせた様子で、なにやら思わせぶりに僕を見ている。
なにが言いたいのだろうかと首をかしげて待っていると、天霧さんはまた人をからかうような表情を浮かべてそうね、と言葉を続けてきた。
「だって、手を繋いでも相手の事を濡らしちゃうもの」
「……それ、は」
寂しげな言葉と表情はどんな雨音よりも冷たく、チクリと胸になにかが刺さったような気がした。彼女の苦しみが僕にはわかるはずなくて、彼女の気持ちを理解できるわけがない。
それでも彼女の悲しそうな顔は、見たくないと思う自分がいる。
「……じゃあさ、天霧さん、これならどう?」
「なに、ってうわ!」
天霧さんが反応するよりも先に、傘を捨てながら顔をずいと近づけて息がかかる距離で止まる。
気づくと自然と指先を絡めていて、やけに心臓の音がうるさい。肌が触れているからだろうか、彼女の雨は僕の肩にも当たっている。当たった瞬間に、最初からなかったように消えていく。瞬間は思っていた以上に冷たくて、それなのに溶けて消えたような後は温もりすらも感じた。
「あおくん、濡れる」
「濡れないよ、大丈夫」
動揺してそんな事を言う天霧さんに、そっと優しく笑いかける。
「けどこうすれば、お揃いだと思ったから」
冷たい雨は止む事を知らず、天霧さんの髪をゆるく流れていく。天霧さんが慌てて僕を突き放そうとするから拒否の気持ちを込めてじっと目を合わせると、彼女はいつものからかうような様子を見せずに恥ずかしそうに頬を赤くしていた。
あれだけ意地が悪くてジョークばかり言う彼女だけど、それでも天霧さんが優しくて繊細なのは知っているから。
「……天霧さんは嫌かもしれないけど、僕は天霧さんのそういうところも好きだよ」
「っ……」
どう言えば伝わるかなんて考えていない、率直な僕なりの感情。
ありったけの気持ちを込めたそれに天霧さんは目を丸くすると、ゆっくりと頬を緩めてクスクスと笑い出し――
「いや、今のにどうやって笑う要素が」
「どうしてってあおくん……そういうところもって事は、それ告白?」
「――ばっ、いや、そんなつもりは!」
「これもジョークよ」
コロコロと表情を変える彼女に今度は僕の方が恥ずかしさを感じて口をとがらすと、ごめんごめん、とまた冗談めかして返された。なんだよ、カッコつけて損したじゃないか。
「そんなまさか、雲に入られるなんて思ってもいなかったから。びっくりした」
気づいたら天霧さんの向こうにある曇天の空も青さが戻ってきていて、それを見て彼女は目を細めていた。
雲の向こうに見える虹を眺めながら呼吸を整える彼女は、じゃあさ、と今度はイタズラに笑いながら僕に顔を近づける。吐息と吐息が重なり心臓が飛び出しそうなくらい緊張すると、ふわりと雨と石鹸の香りが鼻をくすぐってきて。
「いつか私に、鼠色の世界がない『青い世界』も見せてくれるの?」
そんな、なんでもない言葉。
彼女がどんな気持ちで言ったかを考えるのは難しかったけど、僕は僕なりに返す言葉を選んでいく。
「……うん、もちろん」
「じゃあ、期待しないで待っているね」
今はまだその雨を止ませる事ができないけど、それでも彼女に悲しい思いはしてほしくない。
「けど雨だって、誰かとわけ合えば悪いものじゃないでしょ?」
だから今はこうして、僕なりに精一杯悲しい色以外を見せたい。
それが彼女の求める世界なのか僕にはわからないし、これが正しいかはわからない。けれども彼女が雨の中で見せた表情は、どんな青空よりも綺麗だから。
「うん、そうだね――あおくんの言う通り悪いものじゃないかも」
緩く笑った彼女は、ふとなにかを思ったように顔を上げる。
「けどね、あおくん」
少し、ううん。たっぷりイジワルな表情を浮かべた天霧さんは、あおくん、と確かめるようにもう一度僕の名前を呼んでくる。
「私、もうたくさん幸せな『あお色』は見せてもらってるからね」
「…………へ?」
突然の事でなにを言っているか、僕にはわからない。
けど彼女はそれを言うだけで満足した様子で、それ以上はなにも教えてくれなかった。
ただその表情はどこか幸せそうで、曇天色を気にしていないように青い空へ目を向けていた。
天霧さんは今日も雨に、空に愛されている。
愛されているなんて聞こえのいいそれも蓋を開ければ単純なものではなくて、ただ文字通りの事実を現した言葉以外の何者でもないと僕は思っている。
窓の外に広がる梅雨明け特有の雲一つない深い空と、眩しすぎるほどの日差しがガラス越しに僕を貫く。校庭からは部活動の朝練をする声だけが響いていて、それ以外は世界から切り離されたように聞こえない。
「っ……」
あぁ嘘だ、聞こえる。こんなにも晴れた日だというのに、場違いなほどの水の滴る音が。小さく楽しそうにも聞こえる足音と一緒に近づいてくるそれは、僕しかいない二年四組の教室に向かっているようで次第に大きくなっていく。
この水の音も、足音も。それから、ドアにつけられた磨りガラス越しに見える人影と極端に鼠色をした背景も、全部見慣れたものだ。
カツン、とドアのスライドになにかが当たる音と、目の前に現れた空色の瞳を覗かせている文字通り濡れた長い髪。普段となんら変わらないその姿に、思わず僕は頬を緩めた。
「今日も早いのね――おはよう、あおくん」
「今日も派手に雨が降っているね、おはよう天霧さん」
彼女の頭上には、今日も雨が降っている。
***
雨女や雨男、晴れ女や晴れ男と比喩する言葉はどこにでも存在をする。都合の悪い天気を誰かのせいにしたいのは、いつの時代も共通らしく、雪女に至っては妖怪の部類にもなってしまう。
そんな言葉達の中でも彼女、天霧さんの場合は群を抜いてそれが似合っている。
文字通り雨女の天霧さんがいるところには、いつだって雨が降っている――天霧さんの頭上限定で。
「これね、遺伝なの。面白いでしょ?」
物理的雨女こと天霧さんはいつだったか、そんな話をしながらまるで他人事のように笑っていた。
雨が頭上で降る事が遺伝の関係という話もそうそう聞くようなものではなかったが、彼女いわく先祖に関係しているとか。なんでも腕のたつ陰陽師かなにかだったその先祖は、ある日荒神を怒らせてしまったらしい。その際に許しを求めたところ、殺しまではしないが末代まで一生雨に降られる呪いをかけられたと彼女は言っていた。
信じられるかと聞かれればもちろん答えはノーだけど、実際に目の前にいる彼女の頭上にあるのは紛れもなく雨雲と呼ばれるもの。百聞は一見に如かず、これを見せられて信じられませんと言う方が難しいものだった。
滴る雨は彼女の肌を滑り、ぽたりとワックスが少しだけ剥がれた床に吸い込まれていく。吸い込まれるという表現よりはまるで溶けているようで、ぽたり、ぽたりと流れたと思おうと最初からなにもなかったように消えていく。
彼女に触れている間は雨もどうやら消えないようで、彼女の方は少しだけ濡れているようにも見える。なんでも、彼女から離れれば雨は消えるが、彼女に触れているものはそのまま濡れてしまうらしい。
「ね、どう?」
「面白いかどうかは別として、風邪ひくから濡れた部分は拭きな」
天霧さんはわざとなのか天然なのか、よく濡れたままでいる。それが僕には――こう、目に毒な時もあって。つい、見ていて僕の方が恥ずかしくなる事も多い。
ふいと目線を逸らしながら小さめのタオルを取り出して渡すと、天霧さんは嬉しそうにそのタオルで胸元の水滴を取っていた。
思い出してみれば、今でこそ慣れたものだが最初に彼女と出会った時は衝撃的であった。
確かあれは、入学式の最中。
無事に入学式を迎えた喜びからだったのか頭上の雨雲から虹を覗かせていた彼女は、教室に戻ってからもその雨雲で人気者になっていた。その時たまたま隣の席だった僕はそれ以降も彼女と話す機会も多く、こうして二年生になった今も変わらない関係を続けている。
「だから私は、雨女……お母さんもおじいちゃんも、みんな同じなの」
そう話す彼女は静かに笑うと、日直だったようで昨日から黒板に書かれたままだった白い文字を消していく。
個人的には荒神をなぜ怒らせたとか、荒神もどうしてそんな呪いをセレクトしたのかなど気になる事は多いけど、これ以上は触れないでおく。
「……けど、雨ねぇ」
「意外に悪くないよ、雨が降っているのも」
僕からすれば自分の周りだけ雨なんて絶対に嫌だけど、物心ついた時にはすでに今の状態だった彼女は、満更ではないようで。天霧さんは僕の零した言葉を拾い上げると、優しく頬を緩めながら校庭へ目をやった。
「例えば、あれ」
黒板消しを置きながら、彼女は窓の外を指さしている。
なにかと思い目線を向けると、そこにあったのは園芸部の作った小さな花壇だった。花達は華麗にイキイキとした表情を見せ、これでもかと言わんばかりに咲きこぼれている。
「私があの花達を近くで見るだけで、水をやる事ができるでしょ?」
「それってただのめんどくさがり屋じゃん」
ちゃんとジョウロを使ってあげてほしい。
けどもちろん、彼女お得意のジョークであるとわかっている。だって彼女の雨は、彼女から離れれば消えてしまうから。
そんな彼女の言葉に肩を落としながら、今度はさっきよりも悲しそうに微笑む。
「それに、泣いているのも隠す事ができるから」
「っ……」
今のは、ジョークに聞こえなかった。
確かに彼女の言う通りだ、天霧さんはいつだって雨に濡れているからか、泣いている顔がわからない。今こうして微笑んでいる表情だって、もしかしたら泣いているかもしれないし、そう思ってしまうと僕の胸がなにかに掴まれたように息苦しく思えてしまう。
どう返せばいいのか、なんて返せばいいのか。
「天霧、さん……」
「…………ふふ、ふふふ」
「……え?」
そんな事を考えながら目を伏せていると、対する天霧さんは突然こらえきれなくなった様子で、楽しそうに声を出して笑い始める。
なにかと思えば、天霧さんの頭上の雲もこころなし落ち着いて見えた。
「もちろん、今のもジョーク」
「いや、どこが……」
少なくとも、僕にはまったくジョークに聞こえなかった。一方の天霧さんはあっけらかんとした様子でびっくりしたかな、なんて言いながら目を細めている。
「あおくんが思っているよりも、この雨は便利なの」
その雨の使い方がはたして便利と言える部類なのかはわからないが、彼女はそのまま僕の机の方へゆっくりと近づいてくる。揺れる長い髪は日差しに照らされて、宝石のように眩しかった。
「さっきからじっと見ているけど、私になにかついている?」
「え、あ、いや、別に」
彼女はもしかしたら、人をからかうのが上手なのかもしれない。
自分でもどうかと思うくらいあからさまにごまかし、目を逸らす。見透かされているようで恥ずかしいなと考えながらもちらりと彼女へ意識を戻すと、本人はなにを考えているのか寂しげに目を伏せていた。
「けど、確かにね」
その声は、どこか諦めも滲み出ていて。
「この体質、慣れていても悲しい事はあるかもね」
そしてどこまでも、冷たいものだった。
***
「慣れていても、悲しい事……」
朝に比べるとほんの少しだけ薄い雲がかかった空の下で、僕は一人そんな言葉を零していた。
天霧さんが言っていた、慣れていても悲しい事という一言。
あれからしばらくその意味について考えてみたけど見当がつかなくて、まるでなぞかけをされている気分になってしまう。
やっぱり、彼女は人をからかうのが上手だ。頭の中は彼女の事でいっぱいで、なんだか天霧さんの手のひらの上で転がされているような気もする。
そんな曖昧な事を考えながらも、帰り道にある石畳の古い階段を一段一段ゆっくりと降りていく。
本当に、彼女の言葉の真意が僕にはわからない。
「僕、天霧さんの事なにも知らないなぁ……」
あの掴みどころのない天霧さんでも、悲しいと思う事。悶々と見えない正解を探しながら歩いていると、小さな公園に差し掛かったところで僕の肩をポトリとなにかが当たったような、そんな気がした。
「あ、雨だ」
通り雨なのか、小雨が肌に当たる。きっと天霧さんは毎日浴びているだろうそれだけど、僕には少しだけ冷たい。
「早く帰らないと……ん?」
取り出した折り畳み傘をさしている時にふと目に留まった影は、ひどく見覚えのあるものだ。
錆ついたブランコとお世辞にも充実しているとは思えない遊具、それと申し訳なさそうに数個点在するベンチのみ。そんな公園でベンチに傘もささずに座っている影は空の方を見ているようで、濡れた黒い髪が場違いにも綺麗に思えてしまう。
陶器のように澄んだ肌と人形のように吸い込まれそうなほど艶やかな空色の瞳は、間違えるはずもない。
ゆっくりと近づきながら確かめると、その正体はやっぱり僕もよく知っている存在だ。
「えっと、天霧さん……?」
「あれ、あおくん」
文字通り雨に愛された彼女は僕に気づくと、どことなく嬉しそうに目を細めながら今帰りなのね、と言葉を続けてくる。
「うん、委員会の手伝いが長引いたから……天霧さんは?」
「あおくんの事待っていた……なんて言ったら、びっくりする?」
「え、は……!」
「もちろん、今のもジョーク」
「……天霧さん?」
あからさまに不機嫌な顔を作ると、天霧さんはごめんごめん、と本当に悪いと思っているのかわからないような口調で僕に笑ってくる。
「けど本当に、少し空を見ていただけ」
「空?」
目を向けても、そこに広がるのは曇天の空。目を細めても続くのは、どこまでもくすんだ空だけだ。これで空を見ていると言われても真意がわからず、僕は思わず素っ頓狂な声を出した。
彼女にとってはそれすらも面白かったようでなにその声、と笑われてしまったけど。
「だって今日は、空がよく見えたから」
「よく見えるって、どこが……あっ」
今ではないその言葉に、はっと顔を上げる。
曇天が広がる前は、確かに薄い雲の中でも青い世界が広がっていた。もしかしたら、彼女の見ていたという空はそちらの方かもしれない。
普段の彼女の頭上は、どこへ行っても曇天のまま。青い空は彼女の雨雲に存在しないようで、彼女がどれだけ上を見ても青い空が広がる事はほとんどない。そんな仮定の話を考えているとどうやら正解だったようで、ここは遮るものが少ないから、と笑っていた。
天霧さんの言う通り、この公園の近くにはそう大きな建物があるわけではなく遠くまでよく見える。
「ここなら、私の雲以外も綺麗に見えるでしょ?」
「っ……」
あまりにも悲しい言葉に、僕の指先がピクリと跳ねた。
こんな気持ちに天霧さんをさせるなんて、天霧さんの先祖は本当に身勝手だ。こんなにも綺麗な彼女は空が見たいだけなのに、それをあの雲は邪魔をしているから。
そんな思っていても言えない事を浮かべながら悶々としていると、天霧さんはそんな僕を見てどう思ったのか、楽しそうな様子でねぇあおくん、と僕の事を呼ぶ。
「今、私に同情したでしょ?」
「あ、や、そんな事は」
「顔に書いてある」
そんなつもりはなかったけど、知らずのうちに表情に出てしまっていたらしい。
申し訳なかったなと目を伏せていると、彼女はなぜだかわからないけどどこか調子外れな様子で笑っている。
「何度でも言うけど、意外に悪くないから」
悪くないけど、空は見えない。
それは本当に、悪くないと言えるのだろうか。
青く透き通った空も、真綿のように浮かぶ雲も。
全部を当たり前に感じてきた僕には彼女がどう思っているのか想像できなくて、かける言葉が見つからなかった。
「ただ確かにちょっと、ほんのちょっとだけ損はしているとは思うの……だって私はどこまでも青い世界を見る事ができない、視界には絶対に雲が見えてしまうでしょ? それに……」
「それに?」
言葉を詰まらせた様子で、なにやら思わせぶりに僕を見ている。
なにが言いたいのだろうかと首をかしげて待っていると、天霧さんはまた人をからかうような表情を浮かべてそうね、と言葉を続けてきた。
「だって、手を繋いでも相手の事を濡らしちゃうもの」
「……それ、は」
寂しげな言葉と表情はどんな雨音よりも冷たく、チクリと胸になにかが刺さったような気がした。彼女の苦しみが僕にはわかるはずなくて、彼女の気持ちを理解できるわけがない。
それでも彼女の悲しそうな顔は、見たくないと思う自分がいる。
「……じゃあさ、天霧さん、これならどう?」
「なに、ってうわ!」
天霧さんが反応するよりも先に、傘を捨てながら顔をずいと近づけて息がかかる距離で止まる。
気づくと自然と指先を絡めていて、やけに心臓の音がうるさい。肌が触れているからだろうか、彼女の雨は僕の肩にも当たっている。当たった瞬間に、最初からなかったように消えていく。瞬間は思っていた以上に冷たくて、それなのに溶けて消えたような後は温もりすらも感じた。
「あおくん、濡れる」
「濡れないよ、大丈夫」
動揺してそんな事を言う天霧さんに、そっと優しく笑いかける。
「けどこうすれば、お揃いだと思ったから」
冷たい雨は止む事を知らず、天霧さんの髪をゆるく流れていく。天霧さんが慌てて僕を突き放そうとするから拒否の気持ちを込めてじっと目を合わせると、彼女はいつものからかうような様子を見せずに恥ずかしそうに頬を赤くしていた。
あれだけ意地が悪くてジョークばかり言う彼女だけど、それでも天霧さんが優しくて繊細なのは知っているから。
「……天霧さんは嫌かもしれないけど、僕は天霧さんのそういうところも好きだよ」
「っ……」
どう言えば伝わるかなんて考えていない、率直な僕なりの感情。
ありったけの気持ちを込めたそれに天霧さんは目を丸くすると、ゆっくりと頬を緩めてクスクスと笑い出し――
「いや、今のにどうやって笑う要素が」
「どうしてってあおくん……そういうところもって事は、それ告白?」
「――ばっ、いや、そんなつもりは!」
「これもジョークよ」
コロコロと表情を変える彼女に今度は僕の方が恥ずかしさを感じて口をとがらすと、ごめんごめん、とまた冗談めかして返された。なんだよ、カッコつけて損したじゃないか。
「そんなまさか、雲に入られるなんて思ってもいなかったから。びっくりした」
気づいたら天霧さんの向こうにある曇天の空も青さが戻ってきていて、それを見て彼女は目を細めていた。
雲の向こうに見える虹を眺めながら呼吸を整える彼女は、じゃあさ、と今度はイタズラに笑いながら僕に顔を近づける。吐息と吐息が重なり心臓が飛び出しそうなくらい緊張すると、ふわりと雨と石鹸の香りが鼻をくすぐってきて。
「いつか私に、鼠色の世界がない『青い世界』も見せてくれるの?」
そんな、なんでもない言葉。
彼女がどんな気持ちで言ったかを考えるのは難しかったけど、僕は僕なりに返す言葉を選んでいく。
「……うん、もちろん」
「じゃあ、期待しないで待っているね」
今はまだその雨を止ませる事ができないけど、それでも彼女に悲しい思いはしてほしくない。
「けど雨だって、誰かとわけ合えば悪いものじゃないでしょ?」
だから今はこうして、僕なりに精一杯悲しい色以外を見せたい。
それが彼女の求める世界なのか僕にはわからないし、これが正しいかはわからない。けれども彼女が雨の中で見せた表情は、どんな青空よりも綺麗だから。
「うん、そうだね――あおくんの言う通り悪いものじゃないかも」
緩く笑った彼女は、ふとなにかを思ったように顔を上げる。
「けどね、あおくん」
少し、ううん。たっぷりイジワルな表情を浮かべた天霧さんは、あおくん、と確かめるようにもう一度僕の名前を呼んでくる。
「私、もうたくさん幸せな『あお色』は見せてもらってるからね」
「…………へ?」
突然の事でなにを言っているか、僕にはわからない。
けど彼女はそれを言うだけで満足した様子で、それ以上はなにも教えてくれなかった。
ただその表情はどこか幸せそうで、曇天色を気にしていないように青い空へ目を向けていた。
天霧さんは今日も雨に、空に愛されている。