珠洲は学校では標準語を話そうとしていたが、心の中では関西弁を使っている。

 昔、父は時代劇のエキストラをしていたので着付けはバッチリだと言っていたのに帯の結び方が分からないと迷い出して時間をロスしていた。

 珠洲は、パン屋さんのある商店街へと急ごうとしていた。あと五百メートル。

 いつも、この時刻、商店街の向こうにある神社へと繋がる小道は閑散としているのに人が溢れている。浴衣姿の人達が祭りの会場へと向かう様子は、何となく影絵のように幻想的な趣がある。そんな事を思いながら息を弾ませていると下駄が脱げてしまい、膝から崩れるようにして転倒したのだ。

『おい、大丈夫かよ』

 薬局から出てきたのは凛々しい顔の拓馬だった。白の衣と青い袴姿を身につけていた。サッと、珠洲の腕を引っ張って起こしてくれている。

『その格好、どうしたの?』

『母方の叔父が宮司なんだ。従兄は禰宜だ。俺、今夜のお祭りを手伝っているんだ。うちの姉ちゃんも巫女さんとして手伝っているぜ。死ぬほど忙しい姉ちゃんに頼まれて、薬局に買いにきたのさ』

『お姉さん、どこか悪いの?』

『いや、コンタクトの洗浄液が切れただけだ』

 この時、ふと、拓馬が驚いたような表情を浮かべたような気がした。今夜の珠洲は父のてほどきで化粧をしている。薄闇の中、拓馬は、驚いたように浴衣の胸元を見つめている。拓馬の喉元がゴクンと鳴っているのが見て取れた。なぜかしら、拓馬は狼狽している。ただならぬ緊張感のようなものが珠洲にも伝わってくる。少女漫画の一コマのような構図になり珠洲もドキドキしていた。

『武藤、おまえ……。ヤバイぞ。ヤバイよ』

 そのヤバイの意味が褒め言葉なのだと想ったが、由々しき問題だと言いたげに指差している。

『おまえさ、それじゃ死人だよ』

 頭が混乱した。拓馬は、珠洲の腕を引くと、薬局の駐車の脇の建物の隙間に連れ込みながら忙しなく告げた。

『さっさと浴衣の帯を解けよ。直してやるからさ』

 急にそんなふうに言われた珠洲は狼狽して身構える。

『浴衣の襟は右前が基本なんだよ。おまえのは死人の着方になっている。それじゃお化けと一緒だぞ』

 拓馬は正義感が強いけれども女の子へのデリカシーがない。浴衣の腰に手をかけて帯を解いて直そうとする拓馬に悪気は無い。

 けれども、珠洲の心臓がキュッと揺れ動いていた。脈打つような不安と情けなさが押し寄せてパニックになり、思わず叫びながら振り払っていた。

『いやーーーー!』

 拳を振り上げて拓馬を突き飛ばすと、そのまま走り出そうとしたのだ。しかし、浴衣の袖口を古い説製の看板の角に引っ掛けてしまう。

『危ないっ!』

 拓馬が顔色を変えて動き出している。大きくて重たい看板が傾いて珠洲の肩に直撃しそうになっている。寸前のところで、拓馬君がそれを制御したのだが……。

『いってぇーーーーー』

 苦しげに手を押さえたまま顔をしかめている。重たい木枠が腕に当たったらしい。拓馬の右手が膨張して痛ましいことになっている。

『どうしたんだ! 坊主、何があった……』

 薬局にいた薬剤師のおじぃさんが慌てて駆けつけてきた。その人に付き添われたまま拓馬は病院に向かったのだが、遠巻きに見ている誰かが冷やかし気味に囁いた。

『あの坊主はよう、女の子にキスしようとして物陰で迫っていたみたいだぜ。青春だな』

『ガキのくせに、ませた奴だよな』

 噂が広がって拓馬は誤解されてしまったのだ。それは夏祭りの一週間後のことだった。