『ノース・ドームにへばりついている森はそんなに大きな森じゃなかった。
 だけど、ノマドの集落になんかたどり着けるものなのかどうか、ぼくにはさっぱり分からなかった。
 赤ん坊が途中で起きて泣き出したらどうしようかと思った。
 ミルクなんてもちろん持っていないし、水も持っていないことをそのとき初めて気がついた。
 だけど、ずっと眠っていたな。
 ……幸せそうな顔をして。
 ぼくがたどりつけなかったら、こいつも死んでしまうんだな。
 そう思った。
 ぼくは…… そんな楽しい人生でもなかったけど、別に生きてきたことに悔いはなかった。
 でも、もしここで死んだら、猫のチェシャと、この赤ん坊を死なせてしまうことを悔いて死ぬだろうなと……
 なんだかそんなことをぼんやり考えたよ』

 『森に入ってからどれくらい歩き続けたのか覚えていない。気づいたら、目の前に誰かが立っていた。
 導かれるようにその影について歩いた。
 しばらくして、大きなテントがたくさん立っている場所に出た。
 何が一番嬉しかったって、
 出迎えてくれた人たちのひとりの腕にチェシャの姿を見たときだった。
 なんでこいつがここにいるんだ、なんてことはその時は考えなかったな……。
 あの無愛想ネコはぼくの顔を見てミャアと啼いた。
 だから言ったろ?
 つまんないことくよくよ悩むなって。
 そんなふうに見えたよ』

 『ぼくは長老のエリドに筒に入ったままのおまえを渡したんだ。
 彼は言った。
 「苦労しなくてもいいように、出迎えてやってもよかった。
 しかし、本当にきみがここに来る運命なのかどうかを確かめたかった」
 エルドは長老というにはまだ若々しいがっちりとした体格をしていた。
 年の頃は40歳くらいだろう。
 相手の顔をひたと見つめるあたりは長老というにふさわしい表情だった。
 「じゃあ、この子は確かにノマドの子供として育ててくれますね」
 ぼくは言ったんだ。
 そうしたら、彼は笑って言ったんだよ。
 「共に、この子の父親としてここに留まる気はありませんか?」
 呆れて…… そして涙が出そうになった。
「猫まで連れてきて、最初っからそのつもりだったんでしょう?」
 ぼくは…… もうそのときには覚悟はできていたんだと思うよ。
 ノマドで暮らすことの』

 『ぼくはユサと結婚した。
 今、向こうで眠ってる……。
 夜中なんだ。
 こっそり起きてしゃべってる。
 はは……。見つかったら変な顔をされそうだな……。
 ユサは物静かであんまり話をしないおとなしい人だ。
 しゃべることが得意じゃないらしい。
 だけど、ぼくは彼女が大好きだ。
 彼女がたまにぼくのことを「マーク」と呼ぶ声にはいろんな大切な意味がこめられてるんだよ。
 ぼくにはそれが分かるんだ。
 ぼくが結婚を申込んだとき、ユサは最初にケイナにキスをして、それから「マーク」と言ってぼくにキスをしてくれた。
 彼女は…… 子供ができにくい体質で…… ぼくはそのことが彼女に負担を与えるんじゃないかって心配していたんだけど、その…… ぼくも、なんというか、未婚の父であったわけだし……。
 一緒にケイナを育てるということをこんなに喜んでくれるとは思わなかった。
 ぼくはユサを愛してる。
 ケイナ、おまえのことも愛してる。
 守るべき家族ができたって…… こんなに、こう…… 気持ちが充実するものだって、知らなかった。
 そうだ……。
 ケイナ、おまえの名前の由来を教えておくよ。
 ぼくがここに来たとき、みんながぼくを歓迎して宴を開いてくれたんだ。
 ケイナっていうのはそのときに長老が吹いた笛の名前なんだ。
 ここにいれば、わざわざ言わなくてもいずれは分かってしまうことだけどね。
 ぼくがそれを宣言したとき、ユサは「マーク」ってひとこと言ってたしなめるみたいに笑ったけど、ぼくは絶対これしかないと思ったよ。
 ケイナは『神の笛』という意味があったんだ。
 ケイナ、神様というのはおかしいかもしれないけど、
 ぼくはおまえが今のぼくの幸せをくれたと思ったんだ』

 マレークの姿がふっと揺らいで再び現れた。
 長かった髪を少し切ったらしく、ひとつにまとめた先が短くなっていた。
 さっきよりも少し痩せていたが、ずっと健康そうに見える。
 マレークの口調は物静かで遠慮がちな雰囲気があったが、声は前に比べて張りがあった。
 『ノマド』での生活が彼に大きな幸福をもたらしてくれただろうことが見てとれた。

 『ケイナが2歳になった。
 誕生日が分からなかったから、ぼくがここに来た日をおまえの誕生日に決めた。
 もしかしたら本当はもう少し年齢は上になってるのかもしれないな。
 まあ…… 数カ月くらいの差だろうけど……
 おまえは美しい子供だ。最初は分からなかったけれど、瞳の色は深い藍色で金色の髪は風になびくと小さな音色でも聞こえそうな錯覚に陥った。
 カタコトで話す仕種がかわいくてしようがない。
 ぼくだけじゃない。
 ケイナのそばにいるとみんな幸せな気持ちになれるんだ。
 ケイナ、おまえの成長が楽しみだ。
 大きくなれ、ケイナ。
 ぼくはそれを願ったよ……』

 『ケイナが最近双児のトリとリアと一緒によく遊ぶようになった。
 3つ…… いや、4つ歳が離れているのかな。
 トリは内気でほとんどしゃべらない男の子だ。
 彼らの父親のユードが、トリは悪夢をよく見るんだと言っていた。
 ぼくはまだちょっとよく分からないけれど、母親に予見の力があったからその血を引いてるんだということだった。
 大きくなって自分で悪夢を選別できるようになれば明るくなるんじゃないかって、長老のエリドが言っていた。
 リアはおませな女の子だよ。
 チェシャに負けないくらい敏しょうだ。
 あんなに身軽な女の子は見たことがないな。
 ふたりとも朝起きてから眠るときまでずっとケイナと一緒にいたがるんだ。
 トリはケイナといると安心できるみたいだ。
 リアはまるでケイナのことを自分のお人形か何かと思っているようだよ。
 しょっちゅうケイナの頭をなでまわしてキスしている。
 おませだからおまえと結婚するんだって言い回ってるよ。
 はは…… おまえが4歳年上の奥さんがいいって言ってくれればいいけどね。
 あと10年したら、どうなっているかな。
 ノマドにいて良かったのかもしれない。
 外の世界だったら、どうも女性関係でもめそうな気がする。
 ……ばかだな、ぼくは…
 そんなこと、そのときになってみなけりゃ分からないってのに』

 『ぼくは外にいたときのように地質調査をして、それを木々を植える担当者にデ-タ化して渡している。
 ここに来て分かったけど、ノマドの組織構成は極めて簡単なものだった。
 長老がひとりいる。その下に企業なら秘書とおぼしき者がひとりから2、3人いる。あとはみな横並びにみな同じだ。
 外からわざわざノマドに来る人間はあんまりいないようだけど、全くないというわけでもないらしい。
 エストランド教授のことを聞いてみたけど、それは分からなかった。
 でも、もしどこかのコミュニティにいるのだとしたら、どこかで会えるかもしれないな。
 エリドにどうしてぼくをここに受け入れたのか聞いてみたことがあるよ。
 彼は笑って言うんだ。
 「簡単だよ。心がからっぽだったから」
 心がからっぽ?
 無欲とか無我という意味ならぼくはほど遠い状態だと思ったけど……
 まあそれはどうでもいいかと思うことにした。
 でもノマドは本当に分からない種族だ。
 びっくりしたのは、あの原始的なテントの中にものすごい計器類やコンピューターがぎっしり詰められているのを見たときだな。
 ぼくのいた組織も相当に最先端の機器を導入していたと思うけど、こんなのは見たこともなかった。
 なんでこんなものがあるのかエリドに聞いてみたけど、そのうち分かるとか何とか……。
 おまえがもう少し大きくなる頃にはぼくもノマドのことがいろいろ分かってくるようになるのかもしれない』