深く息を吸った。
初夏に感じる独特な草木のにおいが風に乗って、私の鼻を通り抜けた。あぁ、この感じ。
思い出す___。
君と過ごした、あの日々を。
***
夕方の公園は、オレンジ色の光に照らされて淡く光っていた。小さくて、あまり綺麗とは言えない噴水も、この一瞬だけは美しいと感じるものだ。
二人掛けの木製ベンチに、私はただ一人座っていた。遠ざかるカラスの鳴き声が、"まだ遊びたい子供と帰宅を急かす母親"なんてフレーズを連想させる。
でも、こんな小さな公園、ましてや遊具なんて一つもない土地に遊びに来る子供なんているわけがなく。
いつも一人で、ここにいた。
私は、黒い革製のケースから、お気に入りのアコスティックギターを取り出すと、琥珀色のボディを優しく撫でた。夕日に照らされたボディが、なめらかに光沢を出す。まるで、掘り出し物から見つけたお宝のような。
「……寒くなってきたな」
そう、ポツリとつぶやいた。誰もいない公園に響くこともなく、ただ吸収するかのように溶ける声。
空を見上げると、すでに薄暗く、小さな雲が紫色に染まってポツンと浮かんでいた。
まだ"今日"という日は終わっていない、と主張するように、私はギターのネックを軽く持ち上げると共に、軽く弦に指を添えた。
音鳴らし、と言っていいのか。6本の弦を、一気に、でも優しく弾く。
ポロロン、と優しげな音色。満足げに頷くと、私はもう一度弦に触れた。
今日は何を弾こう、何を奏でよう。"今日は"というのは、無論、私が毎日ここへ来て、同じようにギターを弾いているからだ。そして、「今日は何を弾こう」と、同じように悩むのである。
そうだ、あれを弾こう。
頭の中で思い浮かべた旋律通りに、弦を弾いていく。なんだったっけ、この曲名。どこかで聞いたことはあった。でも、それはどこで聞いたのか、なんという曲名なのか、など覚えていることはなく。
ただ、記憶の中のメロディを、旋律を。合っているかもわからない曲を弾く、それが日課となっていた。
___指が勝手に動いていく。
弦を弾いて、止めて。再び弾いて、音を自由自在に操る。最初は少し弱めに、そして優しく弾く。音を丸く伸ばすかのように。
そして、中盤にかけてが一番の盛り上がりで、空気を大きく震わせる。
この曲を聴いた時も、"弾いてみたい"と強く思ったのだろう。
今、自分で弾いていても、やはりサビの部分、盛り上がる部分を奏でると心地が良いものだ。
弾き終わる頃には、寒くて仕方なかったはずの体も、いいくらいに温まっていた。
夢中になりすぎたのか、もう空が黒く染まり、小さな星が散りばめられていることにも気づいていなかった。
時刻は十九時。やはり、十一月にもなれば、日が暮れて星が瞬き始めるのも早くなる。
「……楽しかったな」
こんな気持ちになるのは久々だった。あの曲を弾くのが楽しい、そう声に出して星空を仰ぐ。
「ねぇ、もっと弾いてよ」
この声を聞くまでは。
「え……?」
突然、私の斜め後ろくらいから聞こえた声。少し低くて、男の人なんだというのは容易に想像できた。
反射的に振り返ると、公園の入り口にある人影。暗い中、ぼんやりと見える男の人の顔には少し見覚えがあった。
「ギター、弾けるんだね」
「え、あ……」
こちらに向かって歩いてくるその人の顔が街頭の光に照らされて、はっきりと私の目に映った。
息を呑んだ。
まさか、こんなところを見られていたなんて。よりによって、ギターを弾いているところを。
「わかる?俺、二組の」
私のクラスメイトである、町田多緒だったから___。
「う……うん。わかる」
「よかったー、一瞬知られてないのかと思って焦ったよ」
ケラケラとおどけたように笑う彼、町田くんは、クラスの中でも中心人物である。
たとえば、私が植物の葉っぱであるなら、町田くんは鮮やかな花びら。そのくらい、いつも輪の中心にいて、男女問わず人気者だ。
そんな彼が、どうして今私の隣にいるのだろうか。
「名前、空って言うんだよな」
「そうだよ。……日下空、です」
「ははっ、さすがにフルネームで言わなくてもわかるよ。同じクラスなんだし」
町田くんは、ゆっくりと私の隣に腰掛けると、私をまじまじと見た。
さすがにこの狭いベンチに高校生が二人は……とは思ったけれど、今はそんなことを気にする余裕もなく手に汗をかいている。
町田くんの視線が、こちらに向けられていることに気づいたから。
「な、何……?」
いてもたってもいられないくらいのくすぐったさに、とうとう声をあげてしまう。
「あぁ、……そのギター、すっごく綺麗に手入れされてるなって」
町田くんの指が、私の抱えているギターに向いていた。
なんだ、このギターを見ていたのか。
ほっと安心感に包まれると共に、私を見ていると勘違いしていた自分への羞恥心が心拍を早くした。
「チューニングとか、掃除とか。毎日?」
町田くんは、ギターに視線を向けたまま興味を示す。まるで、町田くんもギターが好きだというような物言いに、少し嬉しくなる。
「うん。このギター、おばあちゃんが買ってくれたの」
優しくボディを撫でる。
数年前に亡くなってしまったおばあちゃんが、お誕生日プレゼントに買ってくれたものだから。本当に大切にしようと思ったものだから。
「なんか、すっごくギター好きなんだってのが伝わってきた」
「え?」
「ギター、好きなんだな」
「……うん」
それでも、どこか物欲しそうにギターを見つめてくる彼を見兼ねて、軽くギターを持ち上げた。
「……弾いてみる?」
「え、いいの?」
例えるなら、犬。
"弾いてみる?"そう言った瞬間、彼の頭に垂れ下がっていた耳がピンと立ち上がったような気がした。目に見えない尻尾を振っているようにも見える。
町田くんは、嬉しそうに私からギターを受け取ると、小さく弦を弾いて音を鳴らした。
その手つきが、あまりにも優しいものだから、不覚にも少しドキッとしてしまう。
私にされたわけじゃないのに。
まるで、腫れ物を扱うかのようにギターの弦を撫でる彼の横顔は、教室の中でも見たことがないくらい、優しげな表情をしていた。
町田くんは、私にギターを返すと、ニコニコして私を見つめた。
「教室にいる時は、そんな表情しないのにな」
「……え」
「あ、違う違う。そういう意味じゃないって」
今の私、そんなに酷い顔してるのかな。と思いながら、手で顔を隠すと、町田くんはおかしそうに笑った。何がおかしいのやら。
「ギターを手に持ってる空は、ずっと輝いてるって意味だよ」
癖っ毛気味の茶髪をふわっと揺らして、町田くんは私に笑いかけた。
「……そっか」
町田くんから目を逸らす。そうでないと、彼のキラキラと光る瞳に吸い込まれてしまいそうだったから。
希望、光、夢___……。
そんなものを無数に秘めたような瞳が私を完全に捉えてしまえば。きっと私は落ちてしまうのだろうか。
彼に。
自分の闇に。
「明日も来ていい?」
不意に町田くんがそう口に出したのは、沈黙が一分ほど続いた頃だった。
そうだ、もう真っ暗ではないか。
今まで話したことのない町田くんという存在が、くっきりと私の知り合い辞典名簿に記録されたものだったから、すっかり時間なんて忘れていた。
今までずっと一人で奏でていたこのギターの音色が。美しさが。
共有できるようになるんだ。そう思った瞬間、衝動に任せて頷いていた。
「じゃあ、また。明日」
「うん。……気をつけてね」
また明日、だなんて。そんな小さいようで大きな約束をしたのはいつ振りだろうか。
町田くんは、片手を少し上げて私に背を向けた。
もう片方の手には、小さなレジ袋を下げている。そういえば、この周辺に小さなコンビニがあったっけ。
何かを買い終わって、そこで初めて、人気のない公園にいる私の存在を見つけてくれたのかな。
少し、心の奥底がじんわりと温まった気がした。
***
『世界が明るく見えたんだ。あの日の公園に響いた君の声が僕を照らしたから』