「────ごちそうさまでした」



そしていつも通り母が帰ってくる時間にご飯を作って、いつも早く帰ってくる────正確には、凪が生まれてから早く帰ってくる父と合流し、4人でご飯を食べる。

大丈夫、ちゃんと私は「いい子」をやれている。

一足先に食べ終わった凪が積み木で遊んでいる。
でもすぐに飽きたのか、今度は本を読み始めた。

その間に私は食器を洗い、家事を終わらせる。
…‥‥‥たまには、お母さんたちと喋ってみてもいいだろうか。


「お母さん、お父さん、」
「えほん!えほん!」


私が話しかけようとすると、一人で遊ぶのに飽きたのか凪が絵本をバンバンと叩く。
誰かに読んで欲しいという意味を察したのか、母と父が同時に立ち上がった。

だが、凪の元へ向かう前に、私の方をちらりと一瞥する。
そんなことで嬉しくなる自分が少し馬鹿らしく、悲しかった。


「咲良、何か言いかけたか?」
「あ、いや、」
「ごめんな、でもちょっと凪のところ行ってくるな」
「あの、」
「でも、咲良はいい子だもの、大丈夫よね」


両親を引き留めようとした手がぴたりと止まる。
そうだ、私は「いい子」なんだから、大人しくしてないと。


────私、いい子にしてるよ、凪よりもいい子だよ。
────どうしたら、私のこともみてくれるの。


収まりきらない言葉が次々と溢れてくる。
でも、それを言葉にする勇気がなくて、ただその場にうずくまって吐き気と頭痛に耐えるだけだった。






◇◇◇






今日も伊吹くんは教室にいない。

いつも授業をさぼっているので、今日もきっとどこかでのんびりしているのだろう。
眠気に耐えながら三時間目まで乗り切り、四時間目の道徳が始まる。

テーマは『一日をどう生きるか』。
担任の宮野先生が黒板にみんなの意見を書いていく。
「楽しもうとして生きる」「後悔をしないように生きる」。
楽しむことなんて、もうとっくの昔に諦めている。後悔なんて、毎日同じことを思いながら苦しんでいる。
どうしてみんなは、希望をもつことが苦しいとわかっていながら抱き続けるんだろう。

そんなことをぼんやりと考えながら、私は空を真っ二つにする飛行機雲を見つめた。


(何にも考えなくたって、どうせ同じ一日が過ぎるだけなのに)


途切れることのなかった飛行機雲が、遠くの空に消えていくのが見えた。
あ、消えた。そう思った瞬間、私の頭はぐらりと揺れて、視界が真っ暗になる。


「…………ま。あーおーやーまー。青山!」
「ひゃい!」


耳元で大声で叫ばれ、私は反射で返事する。
それがなんとも間抜けな声で、周りからくすくすと笑いが起こる。どうやら私はあの後寝てしまったらしい。学級委員長なのに、これじゃあみんなに示しがつかない。

そんなことを考えながらも、私は自分の心臓の嫌な音を感じていた。

大丈夫。これは、嫌な笑いじゃない。
でも、────怖い。
また溢れ出てきそうになった黒いものを、笑顔を浮かべることで抑える。
モザイクがかかって見えないけれど、きっとみんな笑っている。
だって、


『咲良ちゃんって、何でみんなと同じにできないの?』
『青山さん、いい子にできるよね?』


二年前に言われた言葉を思い出し、ひゅっとのどが鳴った。

大丈夫、私は大丈夫。だって私は「いい子」なんだから。私が「いい子」にさえしてればきっとみんなは笑ってくれる。
そう言い聞かせながら何度か軽く深呼吸して、気を落ち着かせる。

ようやく落ち着いたと思った時には、四時間目の授業は終わっていて、私は密かに安堵の息を漏らした。


「さーくらっ。お昼一緒に食べよー」


後ろの席から肩を叩かれ、私は振り返る。
すると、私の友達である星崎朱莉と矢野遥が立っていた。
朱莉は名前通り明るい性格で、クラスのムードメーカー。いつも高い位置で結んだ髪の毛を揺らしていて、体育委員の委員長だ。

遥は朱莉と違ってほんわか系で、見ているだけで癒される。笑顔がなんとも可愛くて、男子からの隠れファンも多い。図書委員に所属していて、「図書館の天使」とひそかに呼ばれているのを私は知っていた。

その二人と私が、いつもクラスでいるグループだ。
授業の合間や昼休みにいるのだってその二人だし、よく帰りに遊びにも行く。
二人は高校生になって、初めてできた大切な友達だ。

……でも、二人にも準モザイク症候群のことはいっていない。
担任にだって伝えていないし、入学するときも何も書かなかった。書いたらきっと先生はみんなに伝えるだろうし、それによって二年前の二の舞になると思った。

母たちはせめて先生にだけはとか言っていたけど、凪のお迎えの時間が来ると、あっさり帰ってその話は忘れてしまったようだった。結局のところ、両親の私に対する関心はそんなものだ。

嫌なことまで思い出してしまい、軽く頭を振る。そして同時に、まだ二人の期待があるのを自分でも感じていた。
ここまでされているのに、まだ私は二人に対して未練があるらしい。
そんな子を考えてく苦笑したところで、不思議そうに朱莉と遥に顔をのぞかれる。

そこで二人の誘いに頷こうとしたところで、ふと男の子の姿が思い浮かんだ。
今日も行ってみようかと悩み、外をチラリと見て晴れているのを確認する。


「ごめん。ちょっと今日は用事あるんだ。」


手を合わせて二人に謝ると、遥はキョトンとして私を見た。
対称に、朱莉は私の顔を見てからかうような声を出す。


「どうしたの、咲良ちゃん。最近忙しいよね。先生からの用事?」
「ちょっと、遥。なーに聞いてんのよ。彼氏に決まってるでしょ」
「違います」


朱莉の言葉を即座に否定する。
彼氏でも何でもなく、むしろ私は『嫌い』と言われたのだ。

「とりあえず行ってくる」と私がいうと、手を振って送り出してくれた二人に手を振り返しながらも、私は校舎裏へと歩みを進めていた。









◇◇◇◇◇









「あれ、いない」


授業にいなかったから、絶対にここだと思ったのだが。
周りを見渡しても誰もいない気配に、やはりいつもここにいるわけではないようだと肩を落とす。
肩を落としてから、なぜ私はこんなに落ち込んでいるのだろうと首を傾げた。

結局、しばらく探しても見つからなかったので、お弁当を持って回れ右をする。
あの二人は、もう食べ終わっているだろうか。
そう考えて二、三歩進んだ後、最初に会った時のことを思い出した。


(まさか…………上にいる、とかないよね)


一度目を瞑り、覚悟を決めて上を見る。
…………そのまさかだった。
伊吹くんは立派な桜の木の枝に寝そべり、微動だにしていない。

「死んでないよね?」

縁起でもないことを誰にともなく呟き、とりあえず胸が上下しているのを見て安堵した。
持ってきたお弁当を抱えて、私はキョロキョロと食べる場所を探す。

木の根っこに座りやすいところがあり、そこにすとんと腰を下ろした。
いつも自分で作っている変わり映えのない弁当を食べながら、伊吹くんの観察をしてみる。

(髪、きれいだな)

噂通り色素が薄い茶色の髪は、陽の光を浴びるごとにキラキラと輝いている。
そんな風に見つめながら、どうせ起きないしと一人で話す。

「今日、道徳があったんだけど」

伊吹くんからの反応はない。
まだ寝ているのかなと思いつつ、そのまま喋り続けた。


「『一日をどう生きるか』だって。………そんなこと考えなくても、勝手に同じ毎日が来るのに」


最後に自分の意見を小さな声で言うと、伊吹くんがピクリと反応した。


「………その同じ毎日が、こない人がいるんだよ」


小さく聞こえた伊吹くんの声に、私はびっくりして立ち上がる。
伊吹くんの思ったより低い声にもびっくりしたが、まさか昨日の今日で喋ってくれると思わなかった。


「伊吹くん!?」
「うるせえな。つか、最初にくんなっつったろ。何で毎回くるんだよ」
「だって私、伊吹くんと仲良くなりたいから。」
「何だそれ」


宮野先生の言葉を思い出しながら会話を続ける。あの担任のアドバイスは、意外と的確だったかもしれない。
思わず顔を綻ばせる私に伊吹くんは怪訝そうな顔をした。


「…………お前、マジで何」
「なんでしょう」


伊吹くんといる時は、吐き気がしないどころか黒いものがなくなったように胸がスッと軽くなる。
教室にいるときは、友達と話していてもどこか息苦しさを感じていたからこそ、この時間は私にとって唯一息苦しさを感じない時であり、気が抜ける貴重な空間だった。

でも、そんなことは目の前の男の子は知る由もないんだろう。
口を緩ませながら弁当を開き、箸を手に取る。

そこで、彼の手には弁当も購買のパンもないことに気づいた。


「あれ、伊吹くん。ご飯は?」
「いらねえ。別に昼はなくてもいいし。」


さらりとそんなことを言ってのけた伊吹くんに顔をしかめる。伊吹くんは、どんなにモデル体型だろうが、足が細かろうが、れっきとした男子高校生なのだ。
きちんと栄養を取らないと、病気になってしまうかもしれない。まあ、準モザイク症候群にはならないだろうけど。

睨むように伊吹くんを見ていると、彼がじっと私のお弁当を見つめていることに気づく。
私はひょいとお弁当箱を持ち上げた。


「これ、食べる?」
「いらねえ」


即座に否定された言葉に苦笑し、お弁当箱を戻す。
すると、不意に伊吹くんが喋りかけてきた。


「お前さあ」
「え?」


伊吹くんが初めて私に話しかけてきた。最初に名乗ったはずが苗字すら呼んでくれないらしい。
そんなどうでもいいことに気を取られている私に、語気を強めた伊吹くんがもう一度いった。


「お前。最初の変な顔、なに」
「変な顔?」
「なんか、名前勝手に名乗ってきた時の」


思い出していたことをそのまま話題にされ、私は目を瞬く。

名前を名乗った時。確か、いつもと同じように笑っていたはずだ。変な顔はしていないはずだけれど。
笑顔で対応すると、みんな好印象を抱いてくれるから。そして、少しだけ息をするのが楽になり、自分はここにいてもいいという証明になる気がした。

余計なことを考えて首を振る。

今この時間だけは、息苦しさも何も感じないのだ。わざわざ嫌なことは考える必要はない。
何も言わない私に痺れを切らしたのか、伊吹くんが言葉を重ねた。


「いつもあんな変な顔してんの?教室でも変な顔してんじゃん。今は、してないけど。」


そもそもあんた、教室にいないでしょう。
そんな突っ込みを言うべきかということと、変な顔の定義について考える。

すると、いつの間に寝ていたのか、隣から穏やかな寝息が聞こえてきた。
自分から話題を振るだけ振って、すぐに寝るとはなんとマイペースな。

そう考えながらも笑みがこぼれるのが自分でもわかり、そんな自分に苦笑する。
上を見ると、暖かな木漏れ日からはみ出た光を浴びた、色素の薄い髪が輝いていた。
だが、男の子にしてはやはり体はほっそりしている。

食べようと思っていたお弁当の蓋を閉じ、私はメモ帳を取り出す。


『よかったら食べてください。手はつけていません』


そろそろ昼放課の終了を告げる予鈴のチャイムが鳴る。
私は教室へと歩き出した。