先生に椅子を勧められ、私はさっきまで座っていた席にもう一度腰掛ける。
先生がその正面に座ると、真一文字に口を引き結んだ。
思わず息を呑むと宮野先生は小さく口を開く。
「ある、男の子がいた」
ポツリと呟かれた言葉は、小さい指導室には大きく響く。
窓にはまだ明るい青い空がうつり、私たちの影を作る。
「そいつは、いろいろ事情があって、親とはそこまで仲良くなかったんだけどな。だけどその代わりに、近所に住んでる父方のおばあさんと仲が良かった」
懐かしそうに宮野先生が言う。
その声は、どこまでも優しさで溢れていた。
「そいつとは家が近くて、おばあさんとよく二人で公園に居たところを帰りに毎日見るのが日課になってた。ベンチに座って、楽しそうに話してたよ。あいつは覚えてないだろうけど、オレは、あいつのことが強烈に頭に残っていてさ。美音……オレの奥さんと一緒に見守りながら、飯を置いてったりしてた。」
そう言った後、「まあ、あいつは知らないだろうけどな」と苦笑いする。
だけど私は、最初からずっと続く過去形の言葉に嫌な予感を感じていた。
「それである日、ばあさんが事故にあったんだよ。………本当に不運が重なった結果だった。車が飛び出してきたのは本当に突然で、そいつが目の前にいるときで、そいつを庇って轢かれた。オレはその場面は見てなかったんだけどな、案の定そいつは混乱して、しばらく公園にこなかった」
そう言ってから一息ついて、宮野先生は悲しげな顔をする。
その顔が、これから話すことの悲壮さを物語っていた。
「しばらくして、一ヶ月くらいたった時かな……。そいつは公園に来たよ。でも、しばらくいつも座っていたベンチを眺めた後、病院の方向に歩いて行った。お見舞いに行ったんだろうな。顔は、見えなかった。…………いや、見ようと思えば見えたんだけどな。オレは、怖くて見れなかったんだ。何度も様子を見に行こうと言う美音に首を振って、オレはそのままただ見守ることに徹していた。」
顔を歪める私を見て、先生は顔を上げる。
「…………青山。お前が辛いなら、もうこの話はしない。無理に聞かなくてもいいんだ。だからもうこの話は」
「聞きます」
やや言葉を被せるように言葉を返す。
聞かないといけないと、直感で思った。
この話を、中途半端な心で聞いちゃダメだ。
その話を聞く責任として、最後まで聞かなければならない。
「青山」
「大丈夫です。続けてください」
私がそう言うと、宮野先生は小さく頷いた。
「それで、そいつが公園に通い続けてから一ヶ月が経った。オレは、ようやく決心をして、そいつの顔を見た。…………言葉を失ったよ。快活な奴、だったんだ。親と仲が良くなくても、いつも元気に馬鹿みたいに笑ってる奴。そんな奴だったのに、ただ何の感情もない瞳で、じっとベンチを見つめてる。言い表せない恐怖が一瞬オレを襲った後、すぐにどうしようもない後悔に襲われた。」
机の上にあったプリントが1枚はらりと机の下に落ちた。
プリントは影の中に入って黒くなる。
「オレが、ちゃんとあいつを見とけばよかったんだ。大人のオレが怖がらずに、美音の言う通りにあいつをちゃんと気遣ってやれれば。でも、オレはできなかった。」
ぐしゃりと顔を歪めた先生は、とても苦しそうだった。
「だから、オレはあいつを助けてやることができないんだ。…………いや、違うな。結局オレは、怖がってるだけなんだ。わかってる、わかってるけど、オレにはあいつを助けてやるなんて立派なことは言えないし、救うっていう行動を起こす権利すらない。」
そういって、先生が真っ直ぐに私を見つめた。
ああ、この人も真っ直ぐだ。
こんな汚くて卑怯な私とは違う。
私はその真っ直ぐすぎる視線に耐えきれなくて、顔を俯かせる。
終わったと思った話に、先生は最後にポツリと言った。
「…………だって、今もまだ、その婆さんは目を覚ましていない」
その言葉に、さっきとは比にならないほどの胸の痛みが私を襲う。
まだ目を覚ましていない?ならその子は、いやその子だけじゃない、先生だって、まだずっと。
ずっと、苦しみ続けているのではないか。
そう思った瞬間、耐えきれない痛みに、最悪な言葉が口から溢れ出た。
「私には、その子を助けることなんてできません。」
私なんかじゃ。絶対に。
そんなことを先生が望んでいるなんて一言も言ってないのに、卑怯な私は一番言ってはいけない言葉を言う。
発した声は思ったよりも弱々しく、すぐに空気に溶けていった。
胸が黒いもので覆われていく。
感じないと思っていた痛みは、さっきの話で引き金となり、一気に私に襲いかかってきた。
先生は胸を押さえる私の顔を覗き込んで、そして…………息を呑んだ。
「こんな話、結局自分勝手だよな。悪かった、青山」
いきなり謝った先生に、私は目を瞬かせる。
その瞬間、ポタリと何かが落ちる音がした。
続いて何回も同じ音がし、なにかわからなくて下を向く。
すると、小さな水たまりが机にあった。
「…………なに、これ」
雨だと思って反射的に上を向く。
案の定雨は降っていないし、降っていたとしてもここは生徒指導室だ。
室内だし、ここに入るわけがない。
だとしたら、これは何なのだろう。
答えが出る前に、私は一人の名前を呼んだ。
「…………伊吹くん」
何故だか、彼に無性に会いたかった。
小さく呟くと、宮野先生が少し驚いたのが視界の端に見えた。
だけど、理由を聞く前に部屋のドアが勢いよくガラリと開く。
「おまえ!」
入ってきたのは、伊吹くんだった。
何故彼がここにいるのだろう。
彼がこの場にすぐに駆けつけてくれたことに、嬉しさと少しの戸惑いを感じる。
伊吹くんが勢いよく私に近づいてきて、手をこっちに向ける。
反射的に打たれると思って目を瞑った。
だけど何も衝撃はこなくて、私は恐る恐る目を開ける。
すると、困惑したような顔の伊吹くんが、私の目元をハンカチで拭いていた。
「…………いぶき、くん」
何をしているのかわからなくて見上げると、伊吹くんはさらにハンカチで目元を拭う。
伊吹くんは、壊れ物を扱うように、ゆっくりと話した。
「…………何でお前、泣いてんの?」
その言葉と湿ったハンカチの感触に、自分は泣いていたんだということを少し遅れて理解する。
そして、その理由がわからずに私はただただ黙りこくった。
そんな私に聞くことを諦めたのか、伊吹くんは少し微妙な顔をして宮野先生に向き合った。
「俺は、ずっとドアの前で話を聞いてた」
その言葉に、私は息を呑む。
真っ先に駆けつけてこられた理由が、今の言葉でわかった。
「でもなんで、」
「ごめん」
ずっと聴いてたの。
出せなかった声が胸に止まる。
そんな私をちらりと一瞥して目を伏せたあと、伊吹くんは宮野先生を見た。
「宮野………先生。」
ものすごく口をゆがめて「先生」という単語を付け足す。
モザイクがなかったら、きっと物凄くいやそうな顔が見れたんだなと思ったら、思わず治らない病気のことについて考えてしまう。
そんな私を一瞥すると、伊吹くんは私の背中をぐいと押した。
「お前は言ったんでとけ。」
「え?」
ハンカチとともにドアの前まで押し出される。
だけど、伊吹くんは宮野先生へと向きを変えた。
「ちょっと、」
「話がある」
そう言った伊吹くんの手が、緊張したように少し震えていて。
それをただ見ていることなんてできなくて、最後の力でバンッ!とドアをこじ開ける。
「ずっと、待ってるから!」
「……あっそ」
私の精一杯の言葉は、彼に届いたかわからないけれど。
だけど、さっきまで震えていた手がもどり、少しだけ見える口元が笑っていたから、きっと大丈夫だと思った。
先生がその正面に座ると、真一文字に口を引き結んだ。
思わず息を呑むと宮野先生は小さく口を開く。
「ある、男の子がいた」
ポツリと呟かれた言葉は、小さい指導室には大きく響く。
窓にはまだ明るい青い空がうつり、私たちの影を作る。
「そいつは、いろいろ事情があって、親とはそこまで仲良くなかったんだけどな。だけどその代わりに、近所に住んでる父方のおばあさんと仲が良かった」
懐かしそうに宮野先生が言う。
その声は、どこまでも優しさで溢れていた。
「そいつとは家が近くて、おばあさんとよく二人で公園に居たところを帰りに毎日見るのが日課になってた。ベンチに座って、楽しそうに話してたよ。あいつは覚えてないだろうけど、オレは、あいつのことが強烈に頭に残っていてさ。美音……オレの奥さんと一緒に見守りながら、飯を置いてったりしてた。」
そう言った後、「まあ、あいつは知らないだろうけどな」と苦笑いする。
だけど私は、最初からずっと続く過去形の言葉に嫌な予感を感じていた。
「それである日、ばあさんが事故にあったんだよ。………本当に不運が重なった結果だった。車が飛び出してきたのは本当に突然で、そいつが目の前にいるときで、そいつを庇って轢かれた。オレはその場面は見てなかったんだけどな、案の定そいつは混乱して、しばらく公園にこなかった」
そう言ってから一息ついて、宮野先生は悲しげな顔をする。
その顔が、これから話すことの悲壮さを物語っていた。
「しばらくして、一ヶ月くらいたった時かな……。そいつは公園に来たよ。でも、しばらくいつも座っていたベンチを眺めた後、病院の方向に歩いて行った。お見舞いに行ったんだろうな。顔は、見えなかった。…………いや、見ようと思えば見えたんだけどな。オレは、怖くて見れなかったんだ。何度も様子を見に行こうと言う美音に首を振って、オレはそのままただ見守ることに徹していた。」
顔を歪める私を見て、先生は顔を上げる。
「…………青山。お前が辛いなら、もうこの話はしない。無理に聞かなくてもいいんだ。だからもうこの話は」
「聞きます」
やや言葉を被せるように言葉を返す。
聞かないといけないと、直感で思った。
この話を、中途半端な心で聞いちゃダメだ。
その話を聞く責任として、最後まで聞かなければならない。
「青山」
「大丈夫です。続けてください」
私がそう言うと、宮野先生は小さく頷いた。
「それで、そいつが公園に通い続けてから一ヶ月が経った。オレは、ようやく決心をして、そいつの顔を見た。…………言葉を失ったよ。快活な奴、だったんだ。親と仲が良くなくても、いつも元気に馬鹿みたいに笑ってる奴。そんな奴だったのに、ただ何の感情もない瞳で、じっとベンチを見つめてる。言い表せない恐怖が一瞬オレを襲った後、すぐにどうしようもない後悔に襲われた。」
机の上にあったプリントが1枚はらりと机の下に落ちた。
プリントは影の中に入って黒くなる。
「オレが、ちゃんとあいつを見とけばよかったんだ。大人のオレが怖がらずに、美音の言う通りにあいつをちゃんと気遣ってやれれば。でも、オレはできなかった。」
ぐしゃりと顔を歪めた先生は、とても苦しそうだった。
「だから、オレはあいつを助けてやることができないんだ。…………いや、違うな。結局オレは、怖がってるだけなんだ。わかってる、わかってるけど、オレにはあいつを助けてやるなんて立派なことは言えないし、救うっていう行動を起こす権利すらない。」
そういって、先生が真っ直ぐに私を見つめた。
ああ、この人も真っ直ぐだ。
こんな汚くて卑怯な私とは違う。
私はその真っ直ぐすぎる視線に耐えきれなくて、顔を俯かせる。
終わったと思った話に、先生は最後にポツリと言った。
「…………だって、今もまだ、その婆さんは目を覚ましていない」
その言葉に、さっきとは比にならないほどの胸の痛みが私を襲う。
まだ目を覚ましていない?ならその子は、いやその子だけじゃない、先生だって、まだずっと。
ずっと、苦しみ続けているのではないか。
そう思った瞬間、耐えきれない痛みに、最悪な言葉が口から溢れ出た。
「私には、その子を助けることなんてできません。」
私なんかじゃ。絶対に。
そんなことを先生が望んでいるなんて一言も言ってないのに、卑怯な私は一番言ってはいけない言葉を言う。
発した声は思ったよりも弱々しく、すぐに空気に溶けていった。
胸が黒いもので覆われていく。
感じないと思っていた痛みは、さっきの話で引き金となり、一気に私に襲いかかってきた。
先生は胸を押さえる私の顔を覗き込んで、そして…………息を呑んだ。
「こんな話、結局自分勝手だよな。悪かった、青山」
いきなり謝った先生に、私は目を瞬かせる。
その瞬間、ポタリと何かが落ちる音がした。
続いて何回も同じ音がし、なにかわからなくて下を向く。
すると、小さな水たまりが机にあった。
「…………なに、これ」
雨だと思って反射的に上を向く。
案の定雨は降っていないし、降っていたとしてもここは生徒指導室だ。
室内だし、ここに入るわけがない。
だとしたら、これは何なのだろう。
答えが出る前に、私は一人の名前を呼んだ。
「…………伊吹くん」
何故だか、彼に無性に会いたかった。
小さく呟くと、宮野先生が少し驚いたのが視界の端に見えた。
だけど、理由を聞く前に部屋のドアが勢いよくガラリと開く。
「おまえ!」
入ってきたのは、伊吹くんだった。
何故彼がここにいるのだろう。
彼がこの場にすぐに駆けつけてくれたことに、嬉しさと少しの戸惑いを感じる。
伊吹くんが勢いよく私に近づいてきて、手をこっちに向ける。
反射的に打たれると思って目を瞑った。
だけど何も衝撃はこなくて、私は恐る恐る目を開ける。
すると、困惑したような顔の伊吹くんが、私の目元をハンカチで拭いていた。
「…………いぶき、くん」
何をしているのかわからなくて見上げると、伊吹くんはさらにハンカチで目元を拭う。
伊吹くんは、壊れ物を扱うように、ゆっくりと話した。
「…………何でお前、泣いてんの?」
その言葉と湿ったハンカチの感触に、自分は泣いていたんだということを少し遅れて理解する。
そして、その理由がわからずに私はただただ黙りこくった。
そんな私に聞くことを諦めたのか、伊吹くんは少し微妙な顔をして宮野先生に向き合った。
「俺は、ずっとドアの前で話を聞いてた」
その言葉に、私は息を呑む。
真っ先に駆けつけてこられた理由が、今の言葉でわかった。
「でもなんで、」
「ごめん」
ずっと聴いてたの。
出せなかった声が胸に止まる。
そんな私をちらりと一瞥して目を伏せたあと、伊吹くんは宮野先生を見た。
「宮野………先生。」
ものすごく口をゆがめて「先生」という単語を付け足す。
モザイクがなかったら、きっと物凄くいやそうな顔が見れたんだなと思ったら、思わず治らない病気のことについて考えてしまう。
そんな私を一瞥すると、伊吹くんは私の背中をぐいと押した。
「お前は言ったんでとけ。」
「え?」
ハンカチとともにドアの前まで押し出される。
だけど、伊吹くんは宮野先生へと向きを変えた。
「ちょっと、」
「話がある」
そう言った伊吹くんの手が、緊張したように少し震えていて。
それをただ見ていることなんてできなくて、最後の力でバンッ!とドアをこじ開ける。
「ずっと、待ってるから!」
「……あっそ」
私の精一杯の言葉は、彼に届いたかわからないけれど。
だけど、さっきまで震えていた手がもどり、少しだけ見える口元が笑っていたから、きっと大丈夫だと思った。