彼女の前世は猫だったのだと思う。黄金の鈴が似合う整った毛並みの白猫。アラベスク模様のソファーに腰掛ける裕福な老紳士が、彼女を膝に乗せて撫でている。その男は架空の存在なのに、彼に無性に嫉妬した。

 「知ってた? 猫って人間の3000倍オッドアイになりやすいんだって」

 大学生活最後の夏合宿へと向かうバスの中で、千尋が唐突に話しかけてきた。SNSのタイムラインに雑学が流れてきたらしい。つい動揺してしまった。視線を落とした先にiPhoneの画面をスクロールする千尋の指先があった。長い爪には綺麗なラインストーンが並んでいて、思わず見とれた。

 「オッドアイ」という言葉の意味を知ったのは、六歳の夏だった。正式名称を虹彩異色症。左右の瞳の色が違うこと。幼い僕は「そんなの普通じゃないのか?」と思った。僕には、すべての人の目の色が左右で異なって見えていた。母の左目はピンク色。父の右目は赤色。幼稚園の先生の右目は緑色。鏡を見れば、僕の左目は青、右目は黒だった。でも、周りの人にはそうは見えていないのだ。「オッドアイ」が「特別」であることを知るとともに、僕が「普通」でないことを知った。
 僕はいわゆる何万人かに一人の割合で存在する「共感覚者」だった。僕の場合は、人間の持つ魂の色が見えた。どちらか片方の瞳だけが、その人の魂を表したような色に見える力。それゆえ道行く人すべてが僕からはオッドアイに見える。
 僕は、異端であることに敏感だった。子供の世界は排他的だ。たとえば、母がつけた亜漣(アレン)という名前は変だと笑われた。目立たないように顔を隠そうと髪を伸ばせば、余計に目立ってしまった。せめて内面だけでも、僕は「普通」になりたかった。だから、振る舞いには人一倍気を遣った。
 みんなが好きなアニメは僕も好き、みんなが嫌いなものは僕も嫌い。「犬派? 猫派?」なんてありふれた質問にも、本当は猫の方が好きだったけれども、その場の多数派に合わせて犬派と答えた。
 十年以上経った今でも覚えていることがある。ある日の下校中、女子たちが公園のベンチに集まっていた。一匹の白猫が日向ぼっこをしていた。それまであの公園で見かけた野良猫は人間が少し近づいただけで警戒して逃げてしまっていたのに、あの猫は何人かに撫でられても逃げずに気持ちよさそうに丸まっていた。きっと、近所で放し飼いにされていた猫だったのだろう。白猫は首に鈴をつけていた。
 僕も猫に触りたいと思った。父親が猫アレルギーのため猫を飼うことを却下されたことが一層その気持ちを強くしたのかもしれない。しかし、一緒に帰っていた友達の「猫なんてどうでもいいだろ。早く俺の家でゲームしようぜ」の一言に僕は何も言えずその場を後にするしかできなかった。あの猫はまだどこかで元気にしているだろうか。

 そんな僕が、共感覚者であることをひた隠しにして生きるのは、至極当然のことだった。