「落ち着いたか?」
「う、うん……」

 涙を拭いながらカクンと首を縦に振る私に、彰夜は困ったようにため息をついた。

 校庭の隅にある木陰のベンチは、心を落ち着かせるのに丁度いい。

「じゅ、授業に行かなきゃ……」
「いや、いいだろ」

 立ち上がる私の腕を、強い握力の手が掴んだ。驚きで振り返って、振り解こうとするもびくともしない。

「で、でも、出ないと怒られるし……」
「その状態じゃ出られないって。後で理由とか説明すればいいだろ」

 本気で不安な私に対して、彰夜はドライな感じだった。こいつ、授業をなんだと思ってんだろ。

 だけど彼の言う通りでもあって、大人しくベンチに座った。

「お前どうしたんだよ、急に泣いたりして」
「あ、あんたの、せいっ、でしょ!」

 なんて語彙を強めてみたけど、本当は自分の中に原因がある、なんてのは分かりきっていた。再び脳裏に迫り上がる記憶に、瞳が潤んでくる。

「だ、だってっ、あんたのせいっで、思い、出しちゃった、んだから……ひっぐ……」
「悪かったからもう喋んなって」

 呆れたような困惑した表情だが、言葉だけはぶっきらぼうながら優しかった。遠慮も気遣いもない彼の発言だからこそ、余計に安心する。

「なぁ、言いたくなかったらいいけどさ……何かあった?俺、なんか触れたくないもの掘り起こしちゃった?」

 ストレートに訊いてくるなぁ、なんて思いながらも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ、彰夜になら話してもいい、なんて謎の信用が湧いてくる。

「うん、ちょっとね。……昔の、嫌なこと、思い出しちゃったみたいで」
「そっか」

 相変わらず素っ気ない返事。心配してるような素振り見せたくせに。だけど思いとは裏腹に心は軽くなって、私はそのまま話し続ける。

「小学校の頃ね、すごく仲がいい友達がいたんだ。近所の子でさ、よく一緒にいた」
 
 目を閉じれば今でもはっきりと思い出せる。いつもニコニコしてて、明るくて、誰にでも優しかった子。明るい茶色のツインテールがトレードマークだった。可愛らしい声が耳に蘇って、自然と口角が上がる。

「本当にね、仲が良かったんだよ。……3年生の時までは」

 私は俯いた。太陽が雲に隠れ、足元に浮かぶ木の葉の影がどんどん濃くなる。ひやっと、空気が冷たくなるのが分かった。

 影は、私の心にも真っ黒いシミを作る。

「夏の前ぐらいだったかなぁ。ある時ね、そこ子が友達のランドセルの中から物を取り出してるところを見ちゃったの。それで私、その子が物を盗んでるんだと思って言ったんだ。泥棒は良くないよって」

 だけどさ、と言おうとした口の中に、そこら辺の草を混ぜ合わせたみたいな苦味が唐突に広がった。継続する不味さに顔を顰めながらも、なんとか話す。

「そしたらその子ね、思いっきり振り返って、それから走って行ったの。だから図星なんだって思って、教室に戻ってきた子にも言ったんだ。どうしたのって訊かれたら、あの子がこの子のものを盗ったんだよって」

 子供はなんでも人に広めてしまう。それが、嘘か真か判断される前に。だから、誤解も生みやすい。私はその時、それを目の当たりにした。

「友達が漁っていたランドセルの持ち主の子にも同じことを言ったんだ。そしたらその子、青ざめて友達みたいに走って行ったの」

 せっかく教えてあげたのに、その子は私の目の前で顔を真っ青に染め、涙目になった。当時の私にとって、それは不思議で仕方なかった。物を盗られたことで不安になったのかと思ったけど、すぐにそれは違うと気づいて、でもだったらどうして、と首を傾げたのをよく覚えている。

「それでね、しばらくして友達が戻ってきた。みんな私の言葉を信じて、彼女を罵倒した。そしたら友達は大泣きして、そこに先生が駆け付けたの」

 泥棒。人のもの返せ。最低。そう罵られたツインテールの少女は声を上げて泣き出し、現れた先生は彼女の頭を撫でながら罵倒の理由を優しく問いた。すると、みんな口々に、私がそいつが人の物を盗ったって言うから、と私を理由にした。

 先生は私をじっと見つめて、それからみんなを見回した。

「それで、先生から事情が話された。本当は逆だったってことを」
「逆?」

 初めて会話の中で声を発した彰夜に、私はうんと頷く。

「私の友達は、物を盗ったんじゃなくて盗られたほうだったんだって。それで、怪しい子のランドセルを見ていたって言った」
「それだって犯罪行為だろ」

 彼の突っ込みに、私も「そうだよね」と賛成する。いくら怪しいからって、人のものを勝手に除くのは違反だろう。

「それで、自分の物を取り返しただけなのに泥棒扱いするのは酷いってその子が言った。そしたら、みんな私の方を見たの」

 あの冷たい視線は、今でも忘れられない。子供のくせに冷酷で、今の今まで自分たちだって暴言吐いていたくせに、全部私が悪い、みたいな目。

「あいつが泥棒だって言ったんだって、みんなワタシヲヌ指差した。そしたら友達が私を睨みつけてきて、こう言った。最低、あんたなんか友達じゃない、て」

 泣きながらの悲痛な叫びが、耳の奥で聞こえる。鼓膜を震わせた瞬間に感じた、脳みその振動。ぐわんと目の前が歪んで、鼓動が速くなったのを覚えている。

「それからだった。私へのいじめが始まったのは」

 人生を狂わせた出来事。次の日から、私の生活は一変した。誰も近付かなくなり、物は失せ、時に汚される。孤独の時間が作られた。

「私ね、その時はよく思ったことをすぐに口にするタイプだった。相手のこととかなんも考えてなくて、ただ、頭に浮かんだことをそのまま言葉にしてたんだ」

 今思えば、ほんとバカだ。そんな言葉をかけて怒らない相手がいるわけないのに、平気で口にして、人から嫌われる。

「だからかなぁ、陰口とか悪口があちこちから聞こえてきた」

 私が見ているのを分かって友達と囁き合う声が、少しだけ聞こえてくるのが一番嫌だった。堂々と話すか、もしくは私が見てないところで言えばいいのにって何度思ったことか。

 あの子この前私の服を似合わないって言ってきたの。うわ、サイテーだね。あいつが大声で叫ぶから先生に怒られたんだけど。先生にいいところ見せたいんじゃない。

 周囲を見れば、私を嗤う顔、顔、顔……。気がつけば胸が苦しくなって、涙が込み上げてきていた。

「どんなに辛くても、苦しくても、誰かが助けてくれることはなかった。先生でさえ、相談してもあなたが悪いんでしょって言うだけで終わり。冷たくて、話すら聞いてくれなくて。ほんと、最悪の教師だったよ」

 親にも、相談したところで先生と同じ対応をされると思うと心が痛んで中々言い出せなかった。

「いじめはエスカレートしていってさ、死にたいなんて思うこともあった」
「……大変だったんだな」

 彰夜からかけられた一言は、少し暖かく優しい感じがして、苦しさが少し紛れた。

「うん、大変だった」

 自分の言ったことが肯定されるだけで、なんだか嬉しい。

 はぁーっと息を吐いて、それから空を見上げた。澄んだ群青色の綺麗な空が広がっている。

「それから、偶然お父さんが転勤することになって、運良くその学校を離れることができた。それからだった、私が、こんな風になったのは」

 人は怖い。少しでも機嫌を損ねると、すぐに裏切る。他人を貶める。再びそうなることが、とても怖くなっていた。

「それからは、他人の機嫌を損ねないように、本音を抑えて、少しでも喜んでもらえるような振る舞いをして、とにかくいい子でいようって思った。そしたら、前みたいなことは起こらないなんて思って」

 実際、いい子になってみれば結構いいことはあった。時には優遇もされたし、何よりも安堵が大きかった。

「でも、全部が全部、上手く収まるわけじゃなかったんだよね。いい子を演じても、ううん、いい子を演じるからこそ、心の底には怒りや苦しみが溜まっていく。それはいつしか大きな吹き溜まりとなって、止めるのが難しくなっていった」

 ぎゅっと、心臓に近い服の裾を握りしめる。ここは、ここだけは、誤魔化せなかった。本音というのは、何も考えずとも生まれてしまうと、初めて気づけた知った。

「だから、私は誰にも知られない場所で吐き出すようになった。顔も本名も分からない、でも、この思いだけは分かち合える場所に」

 それが、あのオープンチャットだった。見つけた瞬間に救われた思いがして、瞬時に入っていた。心の中の想いをぶちまけるのは、なんとも心地よかった。しかも、自分の意見に賛同してくれる人がいるからまた嬉しい。

「バカだよね、私。自分で決めたことに疲れて、愚痴を振り撒いて、ほんとバカだ」

 深く息を吸い込んで、吐き出して、肺の動きと共に体も連動させる。

「でもさ、これは、自分のためだった。もう二度と、あんなことで傷つけられないようにするための自己防衛。だから、いいんだ、これで」
「……」

 彰夜は、黙ったまま、じっと地面を見つめる。彼に、私の考えは伝わっただろうか。

 視線を送り続けていると、彰夜はふっと軽く息をついてから、私を振り返る。

「お前の話は分かった。今までの経験からこうなったのも理解できる。けど、ほんとにそれでいいのかよ?」
「だから、いいって言ってるじゃ……」
「言いたいこと抑え込んで、他人のためって言って嫌なことわざわざやって、自分の気持ちも知られないままで、お前はいいのか?」
「っ!それはっ……!」

 いい、とは言えなかった。心の何処かで引っ掛かる感覚は、確かにあったから。

 正直、苦しい。言いたいことを溜めて溜めて、ただ飲み込んでいくだけは辛い。でも、小学校の頃の記憶が頭をよぎると、どうしても、他人から嫌われたくないと思ってしまう。

 何が一番いいのかわからなくなって、顔を手で覆う。そんな私に、彰夜は容赦なく言葉を投げかけてくる。

「自分を抑えて他人のためだけに生きるなんて、ロボットみたいなもんだろ。自分の心を自分で殺して、本当にお前のためになるのか?」
「分からない…‥分からないよ、そんなの。でも、こうしなきゃ、また同じ目に遭うかもしれないじゃん……」

 優柔不断な私の耳が、彰夜の呆れたようなため息を捉える。その息遣いの音に、体がびくりと震えた。

 私、また人を不快にさせたんだ。

 けど、彼が次に発した言葉は、想像とは違ったものだった。

「お前さ、そのままでいた方がいいんじゃないの?」
「えっ……?」
「だって、演じると疲れるんだろ?それってさ、物凄く不快じゃね?」
「で、でも、素の私だからあんなことが……」
「それは、あいつらがお前を理解してなかっただけだろ」

 なんで分かんないんだよ、と彰夜は頭を掻いた。

「そもそもさ、たった一言だけで裏切るとか、ようはお前を信用してなかったってことじゃん。自分を信頼してくれない奴に、理解してくれない奴に、無理してまでよく思われる必要は無いんじゃねぇの?」
「……」

 何も言い返せなかった。彰夜の言う通りだと、何故かストンと収まるようにそう思わされた。

 確かに、自分にとっていてもいなくてもいいような相手に対して、わざわざ自分を壊してまで嫌われないようにする必要はないのかもしれない。

 でも、もしその人の力が偉大だったら?みんなに尊敬されるような人だったら?

 その人に嫌われて、私が悪者扱いされれば、きっとみんなも私を悪者扱いするようになる。そう、結局、私は……。

「でも……でも……っ!」

 渇いたはずの涙が、再び溢れ出る。曖昧でどっちつかずな自分が、本当に許せない。

「だってさ」

 彰夜の落ち着いた声に、一瞬嗚咽が止まった。

「だって、本当の友達なら、そんな簡単に裏切らないだろ?」

 指の隙間から垣間見えた彼の表情が、ふっと柔らかくなる。

「自分を理解してくれる人なら、簡単なことで裏切らない。自分の性格とかを考えて、庇ってくれる。それが、本当の友達とかいうもんなんじゃねぇの?」
「本当の、友達、か……」

 彰夜の言うことは、正しかった。

 本当の友達。うん、そうだよね。表面だけの薄っぺらいガラスのような繋がりだったら、めんどくさいだけでいらないかもしれない。そんなもの、だったら最初から作らなければいいだけの話、ってわけか。

「そうかもしれない、ね」

 なんだか心が軽くなった気がした。鉛のように重かった胸の内が、少しだけ、柔らかい羽毛で包まれた気がする。

 自然と笑みが溢れた私の頭を、大きな手がぽんぽんと撫でた。安堵をもたらす温もりが、頭部を伝って全身に広がる。彰夜が前を見据えたまま、私の頭に手を伸ばしていた。

「だからお前も、そのままの自分で接してみろよ。絶対、分かってくれる奴はいるから」
「そうかな?」
「そうだろ」
「もし、誰もこんな私のことを理解してくれなくて、孤立しちゃったら……?」
「その時は……」

 彰夜は真っ直ぐ正面を見つめたまま、しかし声はちゃんと私に向けて言った。

「俺が、理解してやるから」

 ふわりと吹いた風が、彼の前髪をかき上げる。一瞬だけ日光が当たった彰夜の頰は、気のせいか紅に染まっている。さらには耳まで異常に紅い。

 照れている、と気づいた瞬間、何故か私も恥ずかしくなって、紅が伝染した。異常なほどに顔面が火照る。確かに今日の気温はすごく高いけど、多分それのせいじゃない。私の中で炎が生まれた、そんな感じ。

 お互いに、紅葉のような紅色の顔を相手に見られたくなくて、そっぽを向いた。無言の空気が、私たちの間に流れる。唯一、木の葉が風で揺れる音があったのが救いだった。そうじゃなければ、無音の恐ろしい世界と化していたから。

 そよ風に当たり続けると、幾分か熱が奪われる。青空を吹き抜ける風は生ぬるくもちゃんと冷たくて、身を委ねていると、少しだけ、夏の匂い、のようなものを捉えた気がした。

「あー、だからさ、その……」

 静寂を破ったのは、彰夜が先だった。もう、彼の顔色は元通りになっている。

「言ってみろよ、自分の、本心」
「……うん、分かった」

 ポーカーフェイスの効いた表情の彰夜に、私は頷く。

「頑張って、みる」