「私ね、今日、クビになっちゃった」
その彼女は、いつも静かにベッドに横たわっている。
美晴は彼女の横で、その一週間に起きたことを話すのが習慣になっていた。
彼女はパッチリと眼を開けている。しかし、相槌を打つことも、うなずくことも、まったくない。
「今日、目の前で患者さんが亡くなったの。ビルから飛び降りてね。私、また、人を救えなかった……」
反応のない相手に話しかけていると、看護師が部屋に入って来た。
「あ、今日も来てたんだ」
看護師は驚いた顔をする。美晴は会釈をした。
看護師の唐沢真希とはすっかり顔なじみだ。真希はサバサバした性格で、美晴とは気が合った。小柄でいつも忙しそうに立ち回っている。
「美晴さんは熱心だね。ご家族は、全然見舞いに来ないのに」
真希は話しながらテキパキと点滴をつける。その左手首には、赤いミサンガが見える。小児病棟に入院している子供が作ってくれたのだと、以前教えてくれた。
「梓さんは、今月いっぱいしかここにはいられないかも」
「そうなんですか? また転院ってことですか?」
「ううん、もうどこの病院も受け入れてくれないと思う。国の方針で、植物状態の患者のために医療費は使えなくなっちゃうから」
「え? そんな方針、初耳ですけど」
「ねえ。今の政府はやりたい放題だから、知らない間に法案を通しちゃうみたい」
「じゃあ、梓さんはどうなるんですか?」
「ご家族は自宅では介護できないから、どこか受け入れてくれる施設を探してるみたいだけど。そんな施設は高額なんだろうし」
美晴は、梓の親から責められた時のことを思い出していた。
「なんて迷惑なことをしてくれたんだ! 植物人間になんてなったら、莫大な治療費がかかるじゃないか!」
「適当に薬を処方してくれていればよかったのに」
梓の両親は、娘が死にかけたことにショックを受けるでもなく、ずっと治療費のことを気にかけていた。
あのときの血走った目。
――お金は人を狂わせるんだ。そんなこと、分かっていたけど……。
美晴は梓の顔をジッと見る。
梓はまだ16歳だ。たまに見せる笑顔があどけなくて、美晴もそんな笑顔を見れた日は嬉しかった。
もっと梓さんの笑顔が増えるように。
自分なりにそんな目標をひそかに立てていた。心を通わせられたと思っていたのに、ささやかな願いはあっけなく崩れ去ってしまった。
「元々、梓さんは厄介者だったって、ご家族は言ってたよ。ひんぱんにリストカットするわ、大量に睡眠薬飲むわで、心が休まる時がなかったって」
「……」
「だから、美晴さんもそんなに自分を責めなくていいんじゃない? 美晴さんが怪しい薬を処方したわけじゃないんだし。こういう患者さんは、どんなに止めても薬は飲むでしょ。自分で選んでこうなってるんだから、美晴さんはまったく悪くない。そんなに思いつめなくていいんじゃないって、私は思うけど」
真希は点滴をセットし終わると、せわしなく病室を出て行った。
「それでも……」
――梓さんは私を頼って来てたんだし。手をきちんと差し伸べてあげられなかったのは、私なんだ……。
「ごめんね。何もできなくて」
美晴が手を握ると、梓はわずかに握り返してきた。
新宿駅に着いた時は、既に5時を回っていた。
美晴は足取りも重く、JRの改札を出て地下鉄に向かう。駅は家路に向かう人、買い物をする人でごった返している。
高木の絶望的なまなざしが、何度も脳裏に蘇る。
――たった一人の患者さんさえ、救えないなんて。私って、なんて無力なんだろう。
目頭が熱くなってきた、その時。
「ご通行中の皆さん、お騒がせしてスミマセン。私、参議院議員の本郷怜人です」
聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「私、本郷怜人は半年前、野党第一党だった民衆党から独立して、真実の党を立ち上げて一人で活動しております」
駅前で街頭演説をしているのだろう。
美晴は政治にはあまり興味がない。
だが、本郷怜人が民衆党を離党するときはネットのニュースに出ていたので、チラッと読んだ覚えがある。
30代の若手政治家で、ルックスがいいので女性から人気がある。テレビやネットの政治討論番組で、怜人が出演しているのをたまに見かける。話し方は歯切れよく、主張している内容も筋が通っているという印象だった。
そのまま家に帰る気になれなかったので、美晴は気晴らしに演説を見物してみようと、エスカレーターを上がった。
1階の西口を出ると、そこには数百人の観衆がいた。観衆の視線の先には、荷台をステージに改造したトラックで、怜人が熱弁をふるっている。
怜人は代々政治家の家系に生まれながら、アメリカで兄とビジネスをしていたという変わり種だ。プレゼンがうまいのは、アメリカ仕込みだろう。
「コロナショックが落ち着いてから、もう10年が経ちました。コロナショックが起きた時から失業する人が劇的に増えても、国はちゃんとした政策をとらなかった。ふるい落とされていった人を見捨てて、救い出そうとしなかった。
この10年間で、毎年4万以上の人が自殺する、異常事態になってます。10年間で40万人ですよ? これね、一つの市区町村が丸ごと消えてなくなるのと同じぐらいです。
それに1年前には消費税が15%になってしまった。今は平成にバブルが崩壊した直後以上に、景気が悪化してるんですよ。それを皆さんは肌で感じてますよね? 10年前は子供の7人に1人が貧困だって言われてたけど、今は3人に1人ですよ。3人に1人。近いうちに2人に1人になるかもしれない。
子供の貧困は、大人の貧困でもあるから、日本の半分近くは貧しいことになる。これ、もう先進国じゃないですよね。みなさん、どう思います?」
怜人の問いかけに、聴衆から一斉に拍手や「そうだ、そうだ」の声が沸き起こる。聴衆の半分ぐらいは若い女性で、「怜人くーん」と黄色い声も飛び交う。
――へえ。アイドル歌手のライブみたいな感じなんだ。
美晴は珍しいものを見る感覚だった。
「ホームレスの数も10年前は5000人だったのが、今は1万5000人。1万5000人ですよ? 今はあらゆるところでホームレスを目にするようになりましたよね。それを自己責任だ、稼ぐ努力をしなかったからだっていう人達もいるけれども、僕はそうじゃないって思ってます。もう社会システムが崩壊してるんです。
一部の富裕層が得をしていて、それ以外の人は損をする社会なんて、おかしくないですか? 自殺者も、半分は若者なんですよ? 若者が死にたくなる国って、おかしくないですか?」
美晴はドキッとした。
若者が死にたくなる国。今日、高木が自らその命を絶ったばかりだ。
「僕はそんな国を変えたくて、本気で変えたくて、民衆党を飛び出しました。なぜなら、国会議員も結局は特権階級で、野党の議員も本気でこの国を変える気がないって気づいたからです。子供達は貧困になっているのに、国会議員の給料はずっと変わらないままなんですよ。
消費税の増税を、僕は何としても止めたかった。だけど、民衆党の議員は口では反対って言っていても、本気で止めようとしなかった。自分たちの立場さえ守れればいいって思ってるんですよ。
だから、僕は党を出ました。本気でこの国を変えるなら、自分で何とかしないといけないって気づいたから。そして、今、僕は全国を回ってこうやって皆さんに話を聞いてもらって、皆さんにも話をしていただいています。お互いに議論しながら、どんな国を目指せばいいのか、どんな政策を取れば解決できるのかを考える。ここをそんな場にしたいと思ってます」
怜人が一息つくと、割れんばかりの拍手が起きる。
ふと、スカートを誰かが引っ張っているのに気づいた。
見下ろすと、緑色の恐竜の着ぐるみを着た男児が、クリっとした目で美晴を見上げている。5、6歳ぐらいだろうか。
美晴にチラシを差し出した。怜人の政策提言や活動が載っているチラシだ。
「ありがとう」
美晴がニコッと微笑むと、男児ははにかんだ表情になり、駆けて行った。
――あんな小さな子が、手伝ってるんだ。支援者の子かな?
見上げると、デパートの連絡通路の上まで、ビッシリと人で埋め尽くされていた。
聞いている人の身なりは、お世辞にもキレイだとは言えない。
みな随分前に買った洋服を着ているようで、すっかり色あせて、生地はヨレヨレになっている。髪はボサボサで、眼の下にクマができ、疲れきった表情で怜人に見入っている。
そんな表情の人は、今までさんざん見てきた。今日まで働いていた会社で。高木もその一人だった。
その彼女は、いつも静かにベッドに横たわっている。
美晴は彼女の横で、その一週間に起きたことを話すのが習慣になっていた。
彼女はパッチリと眼を開けている。しかし、相槌を打つことも、うなずくことも、まったくない。
「今日、目の前で患者さんが亡くなったの。ビルから飛び降りてね。私、また、人を救えなかった……」
反応のない相手に話しかけていると、看護師が部屋に入って来た。
「あ、今日も来てたんだ」
看護師は驚いた顔をする。美晴は会釈をした。
看護師の唐沢真希とはすっかり顔なじみだ。真希はサバサバした性格で、美晴とは気が合った。小柄でいつも忙しそうに立ち回っている。
「美晴さんは熱心だね。ご家族は、全然見舞いに来ないのに」
真希は話しながらテキパキと点滴をつける。その左手首には、赤いミサンガが見える。小児病棟に入院している子供が作ってくれたのだと、以前教えてくれた。
「梓さんは、今月いっぱいしかここにはいられないかも」
「そうなんですか? また転院ってことですか?」
「ううん、もうどこの病院も受け入れてくれないと思う。国の方針で、植物状態の患者のために医療費は使えなくなっちゃうから」
「え? そんな方針、初耳ですけど」
「ねえ。今の政府はやりたい放題だから、知らない間に法案を通しちゃうみたい」
「じゃあ、梓さんはどうなるんですか?」
「ご家族は自宅では介護できないから、どこか受け入れてくれる施設を探してるみたいだけど。そんな施設は高額なんだろうし」
美晴は、梓の親から責められた時のことを思い出していた。
「なんて迷惑なことをしてくれたんだ! 植物人間になんてなったら、莫大な治療費がかかるじゃないか!」
「適当に薬を処方してくれていればよかったのに」
梓の両親は、娘が死にかけたことにショックを受けるでもなく、ずっと治療費のことを気にかけていた。
あのときの血走った目。
――お金は人を狂わせるんだ。そんなこと、分かっていたけど……。
美晴は梓の顔をジッと見る。
梓はまだ16歳だ。たまに見せる笑顔があどけなくて、美晴もそんな笑顔を見れた日は嬉しかった。
もっと梓さんの笑顔が増えるように。
自分なりにそんな目標をひそかに立てていた。心を通わせられたと思っていたのに、ささやかな願いはあっけなく崩れ去ってしまった。
「元々、梓さんは厄介者だったって、ご家族は言ってたよ。ひんぱんにリストカットするわ、大量に睡眠薬飲むわで、心が休まる時がなかったって」
「……」
「だから、美晴さんもそんなに自分を責めなくていいんじゃない? 美晴さんが怪しい薬を処方したわけじゃないんだし。こういう患者さんは、どんなに止めても薬は飲むでしょ。自分で選んでこうなってるんだから、美晴さんはまったく悪くない。そんなに思いつめなくていいんじゃないって、私は思うけど」
真希は点滴をセットし終わると、せわしなく病室を出て行った。
「それでも……」
――梓さんは私を頼って来てたんだし。手をきちんと差し伸べてあげられなかったのは、私なんだ……。
「ごめんね。何もできなくて」
美晴が手を握ると、梓はわずかに握り返してきた。
新宿駅に着いた時は、既に5時を回っていた。
美晴は足取りも重く、JRの改札を出て地下鉄に向かう。駅は家路に向かう人、買い物をする人でごった返している。
高木の絶望的なまなざしが、何度も脳裏に蘇る。
――たった一人の患者さんさえ、救えないなんて。私って、なんて無力なんだろう。
目頭が熱くなってきた、その時。
「ご通行中の皆さん、お騒がせしてスミマセン。私、参議院議員の本郷怜人です」
聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「私、本郷怜人は半年前、野党第一党だった民衆党から独立して、真実の党を立ち上げて一人で活動しております」
駅前で街頭演説をしているのだろう。
美晴は政治にはあまり興味がない。
だが、本郷怜人が民衆党を離党するときはネットのニュースに出ていたので、チラッと読んだ覚えがある。
30代の若手政治家で、ルックスがいいので女性から人気がある。テレビやネットの政治討論番組で、怜人が出演しているのをたまに見かける。話し方は歯切れよく、主張している内容も筋が通っているという印象だった。
そのまま家に帰る気になれなかったので、美晴は気晴らしに演説を見物してみようと、エスカレーターを上がった。
1階の西口を出ると、そこには数百人の観衆がいた。観衆の視線の先には、荷台をステージに改造したトラックで、怜人が熱弁をふるっている。
怜人は代々政治家の家系に生まれながら、アメリカで兄とビジネスをしていたという変わり種だ。プレゼンがうまいのは、アメリカ仕込みだろう。
「コロナショックが落ち着いてから、もう10年が経ちました。コロナショックが起きた時から失業する人が劇的に増えても、国はちゃんとした政策をとらなかった。ふるい落とされていった人を見捨てて、救い出そうとしなかった。
この10年間で、毎年4万以上の人が自殺する、異常事態になってます。10年間で40万人ですよ? これね、一つの市区町村が丸ごと消えてなくなるのと同じぐらいです。
それに1年前には消費税が15%になってしまった。今は平成にバブルが崩壊した直後以上に、景気が悪化してるんですよ。それを皆さんは肌で感じてますよね? 10年前は子供の7人に1人が貧困だって言われてたけど、今は3人に1人ですよ。3人に1人。近いうちに2人に1人になるかもしれない。
子供の貧困は、大人の貧困でもあるから、日本の半分近くは貧しいことになる。これ、もう先進国じゃないですよね。みなさん、どう思います?」
怜人の問いかけに、聴衆から一斉に拍手や「そうだ、そうだ」の声が沸き起こる。聴衆の半分ぐらいは若い女性で、「怜人くーん」と黄色い声も飛び交う。
――へえ。アイドル歌手のライブみたいな感じなんだ。
美晴は珍しいものを見る感覚だった。
「ホームレスの数も10年前は5000人だったのが、今は1万5000人。1万5000人ですよ? 今はあらゆるところでホームレスを目にするようになりましたよね。それを自己責任だ、稼ぐ努力をしなかったからだっていう人達もいるけれども、僕はそうじゃないって思ってます。もう社会システムが崩壊してるんです。
一部の富裕層が得をしていて、それ以外の人は損をする社会なんて、おかしくないですか? 自殺者も、半分は若者なんですよ? 若者が死にたくなる国って、おかしくないですか?」
美晴はドキッとした。
若者が死にたくなる国。今日、高木が自らその命を絶ったばかりだ。
「僕はそんな国を変えたくて、本気で変えたくて、民衆党を飛び出しました。なぜなら、国会議員も結局は特権階級で、野党の議員も本気でこの国を変える気がないって気づいたからです。子供達は貧困になっているのに、国会議員の給料はずっと変わらないままなんですよ。
消費税の増税を、僕は何としても止めたかった。だけど、民衆党の議員は口では反対って言っていても、本気で止めようとしなかった。自分たちの立場さえ守れればいいって思ってるんですよ。
だから、僕は党を出ました。本気でこの国を変えるなら、自分で何とかしないといけないって気づいたから。そして、今、僕は全国を回ってこうやって皆さんに話を聞いてもらって、皆さんにも話をしていただいています。お互いに議論しながら、どんな国を目指せばいいのか、どんな政策を取れば解決できるのかを考える。ここをそんな場にしたいと思ってます」
怜人が一息つくと、割れんばかりの拍手が起きる。
ふと、スカートを誰かが引っ張っているのに気づいた。
見下ろすと、緑色の恐竜の着ぐるみを着た男児が、クリっとした目で美晴を見上げている。5、6歳ぐらいだろうか。
美晴にチラシを差し出した。怜人の政策提言や活動が載っているチラシだ。
「ありがとう」
美晴がニコッと微笑むと、男児ははにかんだ表情になり、駆けて行った。
――あんな小さな子が、手伝ってるんだ。支援者の子かな?
見上げると、デパートの連絡通路の上まで、ビッシリと人で埋め尽くされていた。
聞いている人の身なりは、お世辞にもキレイだとは言えない。
みな随分前に買った洋服を着ているようで、すっかり色あせて、生地はヨレヨレになっている。髪はボサボサで、眼の下にクマができ、疲れきった表情で怜人に見入っている。
そんな表情の人は、今までさんざん見てきた。今日まで働いていた会社で。高木もその一人だった。