ドン、という鈍い音と共に、美晴は背中に衝撃を受けた。
とっさのことで体勢を立て直せず、小さな悲鳴を上げて床に倒れこんだ。
「影山先生、大丈夫ですか?」
廊下を歩いていた何人かが駆け寄る。
――何、何が起きたの。
しばらく転がったまま、美晴は自分に何が起きたのかを考えた。
背中に誰かがぶつかったのだろう。きっと、その人は自分が転んで驚いているに違いない。
そう思いながら上半身を起こして振り返ると、そこには険しい表情の男性が立っていた。てっきり、すまなそうな表情をしているのかと思っていた美晴は、瞬時に自分は突き飛ばされたのだと悟った。
「高木さん? どうしたの?」
「なんで、あんなことを社長に言ったんだよ!」
「あんなことって?」
「オレが、メンタルをやられてるって言ったんだろ?」
高木の顔は怒りで真っ赤になり、息も荒くなっている。
美晴は高木が怒るようなことを自分がしたのか、高速で今までのやりとりを思い返してみたが、何も思い浮かばない。
「岩崎さんに、『最近、高木が相談に来たか』って聞かれたから、ハイって答えただけだけど……」
「何でそんな余計なことを言ったんだよ!」
「余計なこと?」
「あんたのせいで、オレ、クビになっちゃったじゃないか!」
「え、え、え、何。どういうこと?」
美晴は頭が混乱して、立ち上がることすらできない。
「メンタルやられてるヤツは、うちにはいらないって。うちは元気で働ける人しかやってけない会社なんだって、社長に、たった今、クビを切られたんだよっ」
「え、何それ。おかしい、おかしい。岩崎さんは、何か誤解してるみたいだから、私から話すから、ちょっと待ってて」
「もう遅いよっ。うちでは、メンタルをやられてるって認定された時点で、もう戦力と見なされないんだよ。だから、相談してることは誰にも言わないでほしいって言ったじゃないかっ」
高木は絶叫する。
「でも、誰が相談に来たかは、岩崎さんに報告することになってて……相談内容は何も言ってないから」
「相談内容なんて、あいつにはどうだっていいんだよ! 先生のところに相談に行った時点でアウトなんだよ!」
「ちょっと待って。意味が分かんない」
「とにかく、あんたのせいでオレはクビになったんだよ! どうしてくれんだよ!」
「どうしてって言われても……」
「まあまあ、高木、落ち着けって。影山先生が驚いてるし」
一人の男が高木と美晴の間に割って入った。高木の同僚の中村だ。
いつの間にか、高木の背後に警備員が3人控えている。高木もそれに気づき、顔が引きつった。
「あの、大丈夫ですよ、私、転んだだけですから。ケガはないし」
美晴が止めたのにもかかわらず、警備員は高木の両腕をつかんだ。
「解雇された人は、会社から一切の情報を持ち出さないために、警備員が連れ出すことになってるんすよ」
中村はこともなげに話しているが、高木は「離せ、離せよ!」と抵抗している。
「そんな、そんなことをしなくても」
美晴が立ち上がると、「影山先生、行きましょう」と女性社員が腕を引っ張った。
人事部の秋川芽以だ。美晴がこの会社に採用された時から、何かとお世話になっている。
美晴は暴れながら連れて行かれる高木の姿を呆然と見送っていた。
「先生は、何も悪くないですよ」
芽以はハンカチを出して、美晴のクリーム色のスーツを拭いてくれる。手に持っていたアイスコーヒーをぶちまけてしまって、ジャケットは茶色に染まっていた。
「うちの会社で、去年は自殺した社員が10人もいたんすよ」
カウンセリングルームに戻ると、中村が教えてくれた。
「それは浜先生から聞いてるけど……」
「死んだのは、浜先生に診てもらってた人ばっかっすよ。ちょっとでもつらいって言った人を、社長に報告してたんです。んで、社長は『そんなメンタルの弱いヤツは使えない』って、すぐにクビを切っちゃって。絶望した社員が次々に死んじゃったってヤツです」
芽以も大きくうなずいた。
「影山先生が来てからは、相談がある人だけここに来ればいいってことになったけど、浜先生の時は、月一の面談は必須だったんすよ。だから、みんな必死で、元気なフリしてて。寝不足だって言っただけの社員がクビを切られたから、戦々恐々としてるっていうか」
「そんなことして、何になるの? クビを切ったら、また雇わなきゃいけないじゃない」
「だって、長く雇ってたら、給料が高くなってくじゃないっすか。ベテランになる前にいなくなってもらったほうが、給料はずっと安いままにしておけるっていうか」
美晴はあまりのことに、言葉を失った。
美晴がこの会社に心理カウンセラーとして配属されてから、半年になる。
配属されてまず社員全員にアンケートを取ったら、全員が「毎日よく眠れている」「健康状態は良好」と書いてきたので、違和感を抱いたのだ。
廊下ですれ違う社員はみな目の下にはクマができ、眼は充血して、頬はこけている。どう見ても、メンタル的にも身体的にもつらそうなのだ。
それなのに、誰もカウンセリングルームのドアを叩こうとしない。美晴は「私が打ち解けづらい雰囲気を出してるのかもしれない」と思っていた。
一カ月前に、部屋の前を行ったり来たりしている男性がいた。それが高木だった。
「どうぞ、中に入って、一緒にお茶でも飲みませんか?」
美晴が誘っても、「いや、そんなつもりじゃ」と逃げてしまった。その翌日に、美晴が会社を出て駅に向かう途中で高木に声をかけられたのだ。
カウンセリングルームにいるところを誰かに見られるのは嫌だと言ったので、カフェで相談に乗ることにした。
最初は他愛のない話をし、打ち解けてから「毎日深夜まで残業で、2、3時間しか眠れない」「この半年、休みを取れてない」「給料を大幅に減らされた」と話してくれるようになった。
実家の暮らしが厳しくて、少ない給料の中から仕送りしなくてはならないのだとも話していた。
「うちの社長、社員のクビを切るのが趣味って公言してるぐらいっすからね。すっげえ機嫌の悪いときに、八つ当たりでクビを切ることもあるし。高木は、成績がいつも悪くて目をつけられてたから、仕方ないんすよ。先生のせいじゃないから、気にする必要ないんじゃないすか」
「そんなこと言われても……」
「オレ、仕事に戻るんで、これで」
中村が出て行き、美晴は急に気が抜けてベッドに座り込んだ。
芽以は言おうかどうしようか、しばらく迷っていたようだが、「中村君が、高木君のことを社長に密告したんだと思います」と切り出した。
「え? どういうこと?」
「中村君、高木君が先生と歩いているところを見たみたいで、『相談に乗ってもらってるんじゃねえの?』って聞いてたんですよ。高木君も最初は否定してたけど、世間話をしてるだけって言っちゃったみたいで。それを聞いて、社長に密告したんだと思います」
「えっ……でも、なんでそんなことを?」
「中村君はここ数か月、営業成績がずっと最下位なんです。だから、高木君を密告することで、自分の評価を上げようとしたんじゃないかなって。うちの会社は、密告で自分のポジション守る人、多いんです」
「でもでも、社員同士の仲はよさそうに見えるんだけど? だって、みんなで飲み会に行くことも多いんでしょ?」
「それは、お互いに腹の探り合いをしてるんですよ。入ったばかりの人は何も分からないから、ペラペラしゃべっちゃうんですよね。『電車の中で爆睡しちゃって、気づいたら終点まで行っちゃったんですよ。だから、今日は高尾から出勤しました』とか。それを聞いたら、カウンセリングしてもらったほうがいいよって勧めて、で、カウンセリングを受けたら即クビになる、みたいな。自分よりも仕事ができる人が入って来たら、そうやって排除して、自分の立場をキープしてる人は多いんです。だから、うちの会社で残っているのは仕事ができない人ばっかで。派遣の人がいるから、かろうじて仕事が回ってるんです」
――何それ。文化大革命の時の中国みたいじゃないの。
そう思ったが、かろうじて口にするのは堪えた。
「――秋川さんはこの会社を嫌にならないの?」
「嫌ですよ。大っ嫌い。でも、他の企業もそんなものだって話を聞いて。どこでも正社員の地位の奪い合いになってるから、足の引っ張り合いがすごいって友達から聞いてるし」
「そうなんだ……でも、秋川さんは」
――人の足を引っ張ることはしないでしょ?
そう聞こうとして、ためらった。
芽以は美晴が何を聞こうとしたのか分かったみたいで、「私はそんなことはしませんよ」と微笑んだ。
「そう。そうよね」
美晴は安堵した。
「足を引っ張らないで済むように、採用の段階で、うちの部署に入れるのはメンタル弱そうな人だけにしてるんです。そうすれば、勝手に自滅してくれるんで。メンタル強そうな人は他の部署に回します」
芽以はどこか得意げに話した。
美晴は言葉が出てこなかった。
とっさのことで体勢を立て直せず、小さな悲鳴を上げて床に倒れこんだ。
「影山先生、大丈夫ですか?」
廊下を歩いていた何人かが駆け寄る。
――何、何が起きたの。
しばらく転がったまま、美晴は自分に何が起きたのかを考えた。
背中に誰かがぶつかったのだろう。きっと、その人は自分が転んで驚いているに違いない。
そう思いながら上半身を起こして振り返ると、そこには険しい表情の男性が立っていた。てっきり、すまなそうな表情をしているのかと思っていた美晴は、瞬時に自分は突き飛ばされたのだと悟った。
「高木さん? どうしたの?」
「なんで、あんなことを社長に言ったんだよ!」
「あんなことって?」
「オレが、メンタルをやられてるって言ったんだろ?」
高木の顔は怒りで真っ赤になり、息も荒くなっている。
美晴は高木が怒るようなことを自分がしたのか、高速で今までのやりとりを思い返してみたが、何も思い浮かばない。
「岩崎さんに、『最近、高木が相談に来たか』って聞かれたから、ハイって答えただけだけど……」
「何でそんな余計なことを言ったんだよ!」
「余計なこと?」
「あんたのせいで、オレ、クビになっちゃったじゃないか!」
「え、え、え、何。どういうこと?」
美晴は頭が混乱して、立ち上がることすらできない。
「メンタルやられてるヤツは、うちにはいらないって。うちは元気で働ける人しかやってけない会社なんだって、社長に、たった今、クビを切られたんだよっ」
「え、何それ。おかしい、おかしい。岩崎さんは、何か誤解してるみたいだから、私から話すから、ちょっと待ってて」
「もう遅いよっ。うちでは、メンタルをやられてるって認定された時点で、もう戦力と見なされないんだよ。だから、相談してることは誰にも言わないでほしいって言ったじゃないかっ」
高木は絶叫する。
「でも、誰が相談に来たかは、岩崎さんに報告することになってて……相談内容は何も言ってないから」
「相談内容なんて、あいつにはどうだっていいんだよ! 先生のところに相談に行った時点でアウトなんだよ!」
「ちょっと待って。意味が分かんない」
「とにかく、あんたのせいでオレはクビになったんだよ! どうしてくれんだよ!」
「どうしてって言われても……」
「まあまあ、高木、落ち着けって。影山先生が驚いてるし」
一人の男が高木と美晴の間に割って入った。高木の同僚の中村だ。
いつの間にか、高木の背後に警備員が3人控えている。高木もそれに気づき、顔が引きつった。
「あの、大丈夫ですよ、私、転んだだけですから。ケガはないし」
美晴が止めたのにもかかわらず、警備員は高木の両腕をつかんだ。
「解雇された人は、会社から一切の情報を持ち出さないために、警備員が連れ出すことになってるんすよ」
中村はこともなげに話しているが、高木は「離せ、離せよ!」と抵抗している。
「そんな、そんなことをしなくても」
美晴が立ち上がると、「影山先生、行きましょう」と女性社員が腕を引っ張った。
人事部の秋川芽以だ。美晴がこの会社に採用された時から、何かとお世話になっている。
美晴は暴れながら連れて行かれる高木の姿を呆然と見送っていた。
「先生は、何も悪くないですよ」
芽以はハンカチを出して、美晴のクリーム色のスーツを拭いてくれる。手に持っていたアイスコーヒーをぶちまけてしまって、ジャケットは茶色に染まっていた。
「うちの会社で、去年は自殺した社員が10人もいたんすよ」
カウンセリングルームに戻ると、中村が教えてくれた。
「それは浜先生から聞いてるけど……」
「死んだのは、浜先生に診てもらってた人ばっかっすよ。ちょっとでもつらいって言った人を、社長に報告してたんです。んで、社長は『そんなメンタルの弱いヤツは使えない』って、すぐにクビを切っちゃって。絶望した社員が次々に死んじゃったってヤツです」
芽以も大きくうなずいた。
「影山先生が来てからは、相談がある人だけここに来ればいいってことになったけど、浜先生の時は、月一の面談は必須だったんすよ。だから、みんな必死で、元気なフリしてて。寝不足だって言っただけの社員がクビを切られたから、戦々恐々としてるっていうか」
「そんなことして、何になるの? クビを切ったら、また雇わなきゃいけないじゃない」
「だって、長く雇ってたら、給料が高くなってくじゃないっすか。ベテランになる前にいなくなってもらったほうが、給料はずっと安いままにしておけるっていうか」
美晴はあまりのことに、言葉を失った。
美晴がこの会社に心理カウンセラーとして配属されてから、半年になる。
配属されてまず社員全員にアンケートを取ったら、全員が「毎日よく眠れている」「健康状態は良好」と書いてきたので、違和感を抱いたのだ。
廊下ですれ違う社員はみな目の下にはクマができ、眼は充血して、頬はこけている。どう見ても、メンタル的にも身体的にもつらそうなのだ。
それなのに、誰もカウンセリングルームのドアを叩こうとしない。美晴は「私が打ち解けづらい雰囲気を出してるのかもしれない」と思っていた。
一カ月前に、部屋の前を行ったり来たりしている男性がいた。それが高木だった。
「どうぞ、中に入って、一緒にお茶でも飲みませんか?」
美晴が誘っても、「いや、そんなつもりじゃ」と逃げてしまった。その翌日に、美晴が会社を出て駅に向かう途中で高木に声をかけられたのだ。
カウンセリングルームにいるところを誰かに見られるのは嫌だと言ったので、カフェで相談に乗ることにした。
最初は他愛のない話をし、打ち解けてから「毎日深夜まで残業で、2、3時間しか眠れない」「この半年、休みを取れてない」「給料を大幅に減らされた」と話してくれるようになった。
実家の暮らしが厳しくて、少ない給料の中から仕送りしなくてはならないのだとも話していた。
「うちの社長、社員のクビを切るのが趣味って公言してるぐらいっすからね。すっげえ機嫌の悪いときに、八つ当たりでクビを切ることもあるし。高木は、成績がいつも悪くて目をつけられてたから、仕方ないんすよ。先生のせいじゃないから、気にする必要ないんじゃないすか」
「そんなこと言われても……」
「オレ、仕事に戻るんで、これで」
中村が出て行き、美晴は急に気が抜けてベッドに座り込んだ。
芽以は言おうかどうしようか、しばらく迷っていたようだが、「中村君が、高木君のことを社長に密告したんだと思います」と切り出した。
「え? どういうこと?」
「中村君、高木君が先生と歩いているところを見たみたいで、『相談に乗ってもらってるんじゃねえの?』って聞いてたんですよ。高木君も最初は否定してたけど、世間話をしてるだけって言っちゃったみたいで。それを聞いて、社長に密告したんだと思います」
「えっ……でも、なんでそんなことを?」
「中村君はここ数か月、営業成績がずっと最下位なんです。だから、高木君を密告することで、自分の評価を上げようとしたんじゃないかなって。うちの会社は、密告で自分のポジション守る人、多いんです」
「でもでも、社員同士の仲はよさそうに見えるんだけど? だって、みんなで飲み会に行くことも多いんでしょ?」
「それは、お互いに腹の探り合いをしてるんですよ。入ったばかりの人は何も分からないから、ペラペラしゃべっちゃうんですよね。『電車の中で爆睡しちゃって、気づいたら終点まで行っちゃったんですよ。だから、今日は高尾から出勤しました』とか。それを聞いたら、カウンセリングしてもらったほうがいいよって勧めて、で、カウンセリングを受けたら即クビになる、みたいな。自分よりも仕事ができる人が入って来たら、そうやって排除して、自分の立場をキープしてる人は多いんです。だから、うちの会社で残っているのは仕事ができない人ばっかで。派遣の人がいるから、かろうじて仕事が回ってるんです」
――何それ。文化大革命の時の中国みたいじゃないの。
そう思ったが、かろうじて口にするのは堪えた。
「――秋川さんはこの会社を嫌にならないの?」
「嫌ですよ。大っ嫌い。でも、他の企業もそんなものだって話を聞いて。どこでも正社員の地位の奪い合いになってるから、足の引っ張り合いがすごいって友達から聞いてるし」
「そうなんだ……でも、秋川さんは」
――人の足を引っ張ることはしないでしょ?
そう聞こうとして、ためらった。
芽以は美晴が何を聞こうとしたのか分かったみたいで、「私はそんなことはしませんよ」と微笑んだ。
「そう。そうよね」
美晴は安堵した。
「足を引っ張らないで済むように、採用の段階で、うちの部署に入れるのはメンタル弱そうな人だけにしてるんです。そうすれば、勝手に自滅してくれるんで。メンタル強そうな人は他の部署に回します」
芽以はどこか得意げに話した。
美晴は言葉が出てこなかった。