レイナが裕の家に通うようになって2週間が過ぎたころ、ゴミ捨て場に新しい住人がやって来た。
 その男は「自分のことは山田と呼んでほしい」と言った。
 髪とヒゲは無造作に伸び、ヨレヨレになった作業服を着ている。もう何週間もお風呂に入っていないのだとぼやいている。
 荷物は古びたキャリーケース一つだけ。マサじいさんの小屋に招かれ、饒舌に今までの生活を語った。

「ずっと工事現場で働いてきたんだけど、腰を痛めちゃって。そしたら、あっという間にお払い箱。治るまで待ってくれる温情なんてひとかけらも持ち合わせてないんだから、あいつらは。30年も勤めていたのに、切るときはバッサリ。それで、何もかも嫌になっちゃって、あちこちを転々としてたってわけ」
 レイナがお茶を入れてあげると、山田はレイナのつま先から頭のてっぺんまでジロジロ見た。
「へえ、こんなところに、こんな子が住んでるなんてねえ」
 その目つきがやけに鋭くて、レイナは思わず後ずさった。
 ジンが、「てめえ、レイナを変な目でジロジロ見んじゃねえよ」と低い声で言うと、山田は「フン」と鼻で笑いながら目をそらした。

 小屋を建てるまでの間、山田は自分で持ち歩いているテントで暮らすことになった。
「片隅に住まわせてもらうだけで、ありがたいですよ。ここの人たちはいい人だ、本当に。受け入れてくれるだけで、本当にありがたい」
 何度もお礼を言って、山田はテントを張る場所を確保しに行った。
「あいつ、何か怪しいな」
 ジンがつぶやく。
「工事現場で働いてたって割には、手がきれいだし」
「ああ。あいつからは、堕ちきったニオイがしない」
 マサじいさんも言った。
「堕ちきったニオイ?」
 レイナは首を傾げた。
「ここにたどり着く人はみんな、それまであれこれやってもうまくいかなくて、人生に絶望しきってるものなんだ。そういうヤツからは、独特な、堕ちきったニオイってもんがする。直接嗅げるニオイじゃないんだけど、なんかこう、そういう雰囲気って言うか。それがないんだよ。それに、自分の身の上を最初からペラペラ話すヤツなんていない。何の目的か知らんが、気をつけたほうがよさそうだな」
 マサじいさんは言う。
「フウン」

 ゴミ捨て場には、年に2、3人新しい住人がやって来る。
 しかし、住人から盗むのが目的だったり、住人にクスリを売ろうとする輩もいて、安心できない。マサじいさんとジンは新しい住人が来ると常に目を光らせている。
「タクマの家に住まわせたらいいんじゃないの? あそこ、あいてるんでしょ」
 一緒にお茶を飲んでいた住人の一人が言うと、レイナはきゅっと体を固くした。

「おいっ、めったなことを言うなっ」
 ジンが睨みつける。
「あそこには、まだタクマとマヤさんのものが、そのままにしてあるんだから」
「だけど、いつまでもあのままにしておくわけにはいかないのは、確かではあるんだけどなあ」
 マサじいさんはお茶をすすりながら言う。

「それじゃ、あの小屋のものを捨てちゃうの? タクマお兄ちゃんのものも?」
 マサじいさんはレイナの目をじっと見つめた。
「捨てるんじゃなくて、次の住人に使ってもらえばいい。タクマのもので、どうしてもレイナが欲しいものだけ、レイナが取っておけばいい。だけどな、全部は取っておけないんだよ。人一人が持てる荷物なんて、ほんのわずかなんだから」
 たまにマサじいさんは哲学的なことを言う。
 レイナは分かったような分からないような気持ちになった。
 
 レイナは時折、タクマたちが住んでいた小屋をのぞいてみる。
 小屋に足を踏み入れることはできない。入り口から、タクマがいた空間を眺めているだけだ。
 小屋の壁には、タクマが着ていた洋服がかかったままになっている。タクマのベッドも、ベッド脇の本棚も、折り畳み式のテーブルもそのままだ。
 ただ、いないのはタクマだけ。その事実を改めて突きつけられて、レイナは胸が苦しくなる。
 もう、戻ってこない、大切な人。
「お兄ちゃん、私、歌のレッスンをしてるんだよ」
 ポツリとつぶやくと、涙がとめどなくあふれてくる。
 ――本当は、お兄ちゃんと一緒に歌を歌いたかったのに。ずっとずっと、お兄ちゃんのピアノで歌を歌いたかったのに。時間が解決してくれるって大人たちは言うけど、お兄ちゃんを忘れちゃうのなら、解決なんてしてくれなくていい。私は絶対に、お兄ちゃんのことは忘れない。忘れたくなんかない。一日だって、忘れないからね。