夏恋はぼくより二つ年下の一年生で、口が聞けないだけでなくいくつかの色が分からない少女だった。赤は分かるが、青や緑、黄色の識別ができないらしい。けれど、そんなハンデを感じさせないくらい、夏恋は明るく無邪気な少女だった。おまけにすごく懐っこい。
ぼくらは休み時間や昼休み、それから放課後の音楽室で人知れず交流を深めていった。
ぼくは彼女に年上っぽいところを見せたくて、かっこよく見られたくて、ただたくさん話をした。授業の話とか、クラスメイトの何気ない話とか、それから、これからの進学の話とか。傍から見たら、好きな子相手にすごくから回っている学生だったと思う。それでも彼女は嬉しそうに僕の話を聞いてくれて、ぼくはその度に、とめどなく彼女を好きになっていくのだった。
そして、出会ってから一ヶ月が経った頃。ぼくは彼女に、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「ねぇ、夏恋はいつから声が出せないの?」
言った瞬間後悔して、ぼくは俯いた。
すると、夏恋はわずかに睫毛を震わせて、チョークを手に取る。深緑色の黒板に書かれたのは、予想外の言葉だった。
『三年前、魔女にお願いごとを叶えてもらった代償なんだ』
「……魔女?」
魔女。普通の人間からしたら、非現実的な言葉だ。なんとなく察する。これはきっと、これ以上聞くなという意思表示なのだと。
気まずい沈黙が落ちた。
「……あ、雨」
ぼくはこの気まずさをどうにかしようと言葉を探して、窓の外を見る。
銀縁に切り取られた外側は、しとしとと今にも止みそうな糸のような雨が降っていた。その雨にぼくは救われたように思えた。チョークが黒板を叩く音がして、ぼくは窓から視線を移した。
『初めて会ったときも、雨だった』と、黒板に書かれている。
「あのときは上がってたよ。陽が出てたじゃん」
思わず彼女の文字に突っ込むと、夏恋はくすくすと吐息混じりに笑った。
『よく覚えてるね』
「そりゃ……や、普通でしょ」
墓穴を掘りはぐって、さっと視線を逸らした。時計の音がやけに大きく感じる。雲が厚いせいか、電車の音がいつもより大きく感じた。
「……帰ろうか。もう下校時間だし」
ぼくの言葉に夏恋は小さく頷くと、教卓に置いていた鞄を手に取った。夏恋はぼくに微笑み、ばいばいと手を振りながら音楽室から先に出ていく。
夏恋が帰ってから少しの間、ぼくは音楽室の窓から、雨のそぼ降るグラウンドを眺めていた。小雨とはいえ濡れるだろうに、運動部が部活を中断する気配はない。何気なく昇降口を見ていると、透明のビニール傘を差した女子学生が一人、駅の方へ向かう姿が見えた。遠くても分かる。夏恋だ、と思いながら、ぼくは彼女の姿が見えなくなるまで目で追った。
「また明日ね」
呟きながらぼくも鞄を手に取り、音楽室を出る。
昇降口に置かれた傘立てにあった赤い傘を掴む。
そのときだった。
脳内にビジョンが弾けた。
灰色の雨空。大きなトラックと、響くクラクション。歩行者用の青信号、透明のビニール傘と、舞う血飛沫……。
ハッとして、赤い傘から手を離す。
ビジョンが消えた今でも、心臓は激しく打っていた。
なんだ、今のは。
いや。なんだ、じゃない。ぼくはこの事象を知っている。これは、ぼくの能力。これから起こるであろう未来。これから起こる悲劇の前兆だ。
「……夏恋」
舌が痺れて、うまく言葉が出てこない。
しかし、次の瞬間。ぼくは弾かれたように、タイルの地面を蹴って走り出した。校門を出て、長い坂を下る。はるか前方に夏恋の姿が見える。
「夏恋っ!」
しかし、雨と脇を通り過ぎる車のせいで、ぼくの声は夏恋には届かない。必死に走った。
走るたび、振動が脳に伝わる。棚が大きく開いて、思い出がぽろぽろと零れていくのを感じながらも、ぼくは必死に走り続ける。
「夏恋っ! 止まれ!」
夏恋の前には大きな交差点の横断歩道。歩行者用の信号は、赤だ。
景色が加速する。
信号が、パッと切り替わった。灰色の街の中に、鮮やかな青が咲く。
信号機から赤が消えたことを確認した夏恋が、足を踏み出す。
「夏恋っ!!」
上がる息の中で必死に叫ぶと、ふと夏恋が立ち止まり、振り返った。きらり、と夏恋の顔半分を、車のライトらしきものが照らす。
ぼくは力の限り地面を蹴り、夏恋を押し倒した。
次の瞬間。
大きなクラクションが夕方の街中に響き、数羽の鴉が空に舞い上がった――。
遠くで雨の音がする。全身が水に浸かっている。これは多分、水だ。海の上に浮いているような感覚ではなく、水溜まりの中に寝そべっているような感覚がした。
『――先輩!』
知らない声がする。明るく弾む、可愛らしい声だ。知らないはずなのに、どうしてか懐かしい。
『響介くん』
今度は悲しそうな声だ。今にも泣きそうで、放っておけない。
この声は、誰……?
ジリリリ、と無機質な目覚ましの音がぼくの耳朶を叩く。重い瞼を開けると、見慣れた天井がぼやけた視界に映った。
ぼくは弾かれたように飛び起きる。
行かなくちゃ。
急いで制服に着替え、玄関に置いてあった赤い傘を手に、家を飛び出した。
青紫色の雨が降る早朝の街を傘も差さずに駆け抜け、電車に飛び込む。学校の最寄り駅で降り、交差点を渡り、長い長い坂を昇る。
学校に着くと、ぼくはまっすぐ三階の音楽室へ向かう。
そして、目の前には半開きの扉。立ち止まり、呼吸を整えながら、ぼくはふと思った。
なんで、音楽室にいるんだっけ。こんなに朝早く、部活もないのに。
首を傾げながらも、ぼくはとりあえず目の前の扉に手をかけた。



