早朝。空は青紫色のグラデーションの中を、赤い傘を手に、ぼくは足早に駅へ向かっていた。ホームで足を止め、少し早まった心臓を落ち着ける。電車のベルが鳴り止んだ頃、ようやくお目覚めの太陽の気配が背中を叩いた。
電車で四駅。約、一時間。目的の駅に着くと、外は雨が降っていた。灰色の街に赤い傘を広げて、ぼくは一歩を踏み出す。
歩きながら、ちらちらと視界を染める赤を見て、ふと思った。
「……この傘、どうしたんだっけ」
よく覚えていないけど、とても大切なものだった気がする。
そういえば、今朝ぼくはどうしてあんなに急いでいたんだっけ。こんなに朝早く学校に行っても、特に用事なんてないはずなのに。
いくら考えても答えは出ない。ふと思い付いた疑問についてぼくは、諦めるしか選択肢を持たないのだ。なぜ諦めるしかないのか。
その理由を、ぼくは知っていた。
生まれ落ちた瞬間に立ち上がろうとするわけを子鹿が知らないように、それでも懸命に足を踏ん張るように、ただ、そういうものなのだと遺伝子に刻まれているのだ。
ぼくは、脳に設置された思い出の棚の鍵がゆるいかわりに、人にはない別の力を持っている。
駅から歩くこと、約二十分。赤信号の向こう側、坂の上に、大きな校門と校舎が見えてきた。まだ閑散とした昇降口に入り、使っていた傘を傘入れに入れる。傘入れには既にひとつ、透明のビニール傘があった。どうやら、先客が一人いるらしい。こんな朝早くから、自習か部活だろうか。ご苦労なことだ。
下駄箱にスニーカーを突っ込み、階段を昇る。教室に入ると、たくさんの木机が整然と並んでいる。ぼくは自分の席に鞄を置いて、中身を机の中に突っ込むと、とりあえずなにをしようかと悩んだ。教卓の真上の壁に掛けられた時計は、六時十五分を指している。授業が始まるまでは、まだまだ時間があった。
本当に、ぼくはなんでこんなに朝早く学校に来たんだろう。
何度目かの疑問を胸に抱く。とはいえ自習などする気も起きなかったので、ぼくは人気のない廊下に出た。頬を優しく撫でられたような感覚に窓の外を見ると、ちょうど雨が止んだらしく、かすかな光が差し込んでいる。
タイミングがいい。屋上でのんびり二度寝でもしてよう、とぼくは階段に足を向けるが、残念ながら屋上へ続く扉には硬い南京錠がかかっていて、外へは出られなかった。
仕方なく三階に降りる。図書室もまだ司書が来ていないためか、鍵がかけられていた。
困った。時間を潰せる場所が見当たらない。そう思ったとき、半開きの扉に気がついた。扉の上のアクリル表札には、『音楽室』とある。
ぼくは導かれるように足を踏み出し、音楽室の扉に手をかけた。
「失礼しまーす……」
その瞬間。夏の朝の澄んだ風が、ふわっとぼくを優しく包んだ。
息が、止まる。
黒光りするグランドピアノ。そのピアノ椅子に、一人の少女が腰を下ろしていた。
窓から吹き込んだ夏風に揺れる、長い黒髪。お人形のような黒々とした瞳と、真昼の空のように青白く澄んだ白目。
雨上がり特有の薄い陽の光が、彼女のシルエットを女神のごとく照らしている。
どきん、と心臓がわけもなく高鳴った。
この瞬間ぼくは、一目惚れというものを初めて経験した。
ピアノの上に無造作に置かれていた誰かが置いていったであろう楽譜が、風に舞ってはらりとぼくの足元に落ちる。
少女と夏風に舞う楽譜。その光景はやけに鮮明に、スローモーションのようにぼくの脳裏に焼き付いた。
「あ……」
もしかしてと思ったけれど、やはり先客がいた。
ぼくは楽譜を拾うと、もう一度彼女を見る。
すると。
「っ……う」
呻くような声を漏らしたあと、少女は僕を呆然と見つめて――なぜか、涙を流していた。
大きな目から溢れ出した丸い雫が、綺麗な卵形の輪郭をなぞり、顎先からぽとりと落ちる。
「えっ!?」
突然の涙に、ぼくは文字通り慌てた。
「え、え、ちょっと、どうしたの? なんで泣いてるの?」
ぼくが駆け寄ると、少女はさらに泣き出した。声は出さず、ただわんわんという表現が正しいと思うくらいに泣き続ける。そして、とうとう両手で顔を覆ってうずくまってしまった。
「あの、な、泣かないで……」
突然泣き出した少女に、ぼくは頭を抱えた。とりあえずハンカチを渡し、彼女が泣き止むのを傍らで待つ。
ひっく、と時折しゃくりあげながらも、ようやく少女の涙が落ち着いてきた頃。
「あの……」
ぼくは、おずおずと口を開いた。
「もしかして、誰かにいじめられてるの……?」
ぶんぶん、と少女は首を横に振る。
違うらしい。まあ、そうだろう。彼女の容姿が目立っているのは間違いないが、虐められる要素は見当たらない。
「じゃあ、なんか嫌なことあったとか?」
しかし、少女はまたも首を横に振った。
これも違うらしい。というか、なぜ喋らないのだろう。疑問を抱いたと同時に、少女が立ち上がった。そのままとことこと黒板の前まで行くと、チョークを手に取り、なにやら書き出す。
『おどろいただけ』
「は……?」
『いきなり来たから』
彼女が黒板に書いた言葉を繋げて、ようやく理解する。
「あぁ……ぼく?」
ぼくが自分を指さすと、少女はこっくりと頷く。
「驚かせてごめん。えっと……もしかして、きみって」
疑問を尋ねてみようと口を開くが、上手く言葉にできず、口を噤む。すると、少女はまた黒板に文字を書き出した。
『耳は聞こえる。喋れないだけ』
「なるほど……」
さらに、少女は手を進める。
『音羽夏恋』
チョークの白い粉を手で払いながら、少女はぼくを振り返る。
「……きみの名前?」
少女は頷く。
「ぼくは、白木響介」
こうしてぼくたちは、雨上がりの陽が差す音楽室で出会った。



