夜伽の相手が皇帝陛下となると、指名された即妃は厳重に支度を済ませ皇后をはじめとする四夫人にも報告がいく。しかし皇子ともなれば、そこまで厳格に定められていない。

 そもそもここ数年、現皇帝である瑚秦鳶は天平殿で過ごすのがほとんどだった。皇子を五人も設けた秦鳶は、華楼宮を訪れるときは天平殿で正妃の陶貴妃か、四夫人のそばでいる。

 そういう意味で、今の後宮はぬるま湯に浸かった状態とも言える。

 仮に瑚秦鳶が崩御し、第一皇子が皇帝の座に就いたとき、後宮は本来のあるべき姿を取り戻すのだ。他の皇子を巻き込み、即妃同士の熾烈な争いが大きな黒い渦となってここを飲み込む。そのときを想像し、春咏はため息をつく。

 汪青家が滅んだ理由、兄になにがあったのかを突き止めるまでは、今の皇帝には生きていてもらわないとならない。皮肉なものだ。強く憎む相手の生を強く願うとは。

 夜の帳がすっかり下りて、月が煌々と照らしている。春咏は薄手の夜着を着て、わずかに乱れ呼吸と心音を整えようと躍起になっていた。

 やってきたのは華楼宮のはずれに建てられている昌泰しょうたい殿と呼ばれる御寝所だ。夜伽をする場所であり、この向こうに待つ人物はひとりしかいない。

「春咏さま。どうぞこちらへ」

 女官に促され、春咏は歩を進める。わかっていた段取りとはいえまったく緊張がないと言えば嘘だ。

『おめでとうございます。第二皇子乾廉さまより夜伽に召されました。よってこのたび春咏さまのお支度をお手伝いいたします、香蘭《こうらん》と申します』

 安和院で過ごす春咏に予定通り声がかかり、まったく感情が乗っていない物言いで女官の香蘭が夜伽に向けての説明をしていく。

 位のない即妃の春咏相手だからか、香蘭自身の性格かは測りかねるが、続けて彼女は懇切丁寧とは真逆で必要最低限の準備を淡々と春咏に行っていった。

 その際、着替えや湯浴みなどの手伝いを断ると、あっさり引き下がったので春咏としてはありがたかった。誰に対しても性別を明るみにさせるわけにはいかない。

『それにしても驚きました。三年ほどここにますが、第二皇子の夜伽ために即妃の支度を手伝うなんて初めてです』

 春咏の髪を梳きながらぽつりと香蘭が呟くので、少しだけ追及してみる。

『そうなの?』

『あの頃、聞いた話によると、乾廉さまが何人か通われた即妃は次々と体調を崩したり、不幸に見舞われたそうで……。元々乾廉さまがここにいらっしゃるのは、姜刈さまとは対蹠的に、義務感が漂っていたそうです。……今回はどういう風の吹き回しでしょうか』

 最後は独り言に近かった。だからか、香蘭は自分で結論づける。

『第二皇子としての自覚が増したのでしょうか。陛下の年齢や体調、煌揚さまがあまり表に出られないことなどを気にされているのかもしれませんね』

 その言葉を受け、春咏もふと考える。たまたま自分が加術士であり女性としても成り立ちそうな容姿だからと今回の任務を任されたが、乾廉自身この問題についてずっと悩んでいたはずだ。それは他ならぬ瑚家の繁栄……男児を設けるためで、この問題が解決したら彼は、なにに遠慮もせずここで夜伽の相手を見つけ皇子としての義務を果たすに違いない。

 当たり前の現実に春咏の胸が痛む。何故なのかはっきりさせられず、まるで術にかかったかのような気持ち悪さだ。そこで我に返る。今の自分の指名は乾廉の呪いの真相を探ることだ。

 安和院から昌泰殿に移動する際も、華桜院全体で術や呪いの気配を探ったがあからさまなものはなかった。乾廉自身に呪いなどもかかっていない。今までの加術士たちがかけていたのか、いくつかの加護はあるようだが。

 昌泰殿に辿り着き、春咏は指示に従って部屋に入ると、頭を下げたまま待機する。静かに扉が閉められ、燈籠のほのかな明かりが部屋を照らしている。なにか香を焚いているのか、かすかに甘い匂いがした。

「面を上げろ」

 よく知った声が聞こえ、春咏はそろそろと頭を上げる。乾廉を視界に捉えるが、その表情は険しい。皇子の漢服を今は脱ぎ捨て、薄手の夜着ひとつで椅子に腰掛け春咏を見下ろしている。

「名は?」

 見慣れない姿に一瞬ドキリとしたが、春咏は平静を保ったまま頭を下げた。

「お初にお目にかかります、瑚乾廉第二皇子。大宝家の縁者である春咏と申します」

 形式張ったやりとりを経て、乾廉は立ち上がると春咏を奥へと促した。

「こちらへ」

 本当に閨を共にするわけではないと理解していながら、春咏の鼓動は激しくなっていた。おそるおそる乾廉のあとに続き、金細工の施された大きな衝立の向こう側へと進む。春咏の実家でも見たことないほど大きな寝台に息を呑んだ。

「春咏」

 つい目を奪われていたら、不意に名前を呼ばれ乾廉に抱きしめられる。春咏は反射的に声をあげそうになった。

「不便はないか?」

 しかし耳元で囁かれたのはいつも通りの口調だ。体勢との差に驚くが彼の行動の意味を察し、静かに答える。

「後宮にいるんですよ? 不便がないとでも?」

 比較的軽い口調で返すと、乾廉は笑った。

「そうだな」

 視線が交わり、乾廉は春咏を抱きしめたまま寝台に倒れ込んだ。二人分の体重に軋んだ音がわずかに響き、台にかけられた柔らかい絹の感触を受けながら春咏は乾廉の腕の中で神経を研ぎ澄ませる。

 ややあって彼女はそっと身動ぎして上半身を起こした。

「どうやら行ったみたいですね」

「とはいえ油断はできないな」

 念のため小声で話す。閉められた扉の向こうに、しばらく人の気配を感じていたのだが、それがようやく消えた。無事に床入りを済ませたかの確認か。だから聞かれても問題のないよう会話していたが、こちらに敵意を向けられている感じはしなかった。

「世継ぎを臨まれている立場はおつらいですね」

 春咏がからかい交じりに呟き、寝台から下りようとする。しかしその手を乾廉が素早く取り、彼女を自分の元へ引き戻した。さすがの春咏もこれには面食らう。

「念のために、こうやって会話するのが一番だと思わないか?」

 再び腕の中に閉じ込められ、春咏は少しばかり動揺する。お互い、いつもより薄手の格好をしているので、あまり体形が分かるような接触は控えたい。

 しかし春咏の心中などまるで無視して乾廉は続ける。

「華楼宮で性別を偽って過ごすのは、気も張って疲れるだろう。俺の前では無理する必要はない」

 むしろ今の方がその気を張っている状況にあるのだが。

 そう言い返したくなるのを春咏はぐっと堪えた。まさか本気で伝えるわけにはいかない。すると乾廉がさらりと話題を変える。

「慶雲からいくつか装飾や化粧の品を預かってきている」

 女装がバレないようにするためだろう。実際、そういった類は女である春咏自身も詳しくないし興味もない。後宮で母が化粧師をしていた彼が見繕ったものなら間違いないはずだ。

「使い方などわからなければ女官にしてもらえとの言伝だ」

「はい。慶雲さまにもよろしくお伝えください」

 アドバイスまで的確で、そう言っている慶雲も容易に想像がついた。

「いつの間にかずいぶん仲良くなったみたいだな」

 しかし、乾廉の声はかすかに不機嫌さが滲んでいる。それが春咏には理解できない。理由を尋ねようとしたら、乾廉から今日一日の報告を促され、問われるままに春咏は応えていく。

 天平殿で皇后である陶貴妃に挨拶した際に感じた印象、安和院で他の即妃たちから聞いた乾廉や姜刈の噂話などを忖度なしに告げる。乾廉は時折、口を挟みつつ相槌を打ちながら春咏お話しにじっくり耳を傾けていた。

「李蝶艶さまだけは乾廉さまお呪いに関してきっぱり否定されていましたね」

 春咏から蝶艶の話題を出しておきながら、どこかで乾廉の反応が気になっている自分もいた。あそこで、はっきりと乾廉を信じて堂々と庇った彼女の姿は凛々しく、羨ましかった。

「加術士の娘だからな。聞いての通り、父親が俺の専従加術士だったんだ。病に倒れ任を離れることになったときも李家の加護を、と術を残していったほど熱心だった」

 父親がそこまでして乾廉に仕えていたのなら、父の名誉にかけても彼が呪われているなどといった事実はありえないと言いたいだろう。

 しかし蝶艶のあのときの行動の理由はきっとそれだけではない。色恋沙汰に縁なく生きてきた春咏だが、彼女が乾廉に向ける視線の意味くらいは理解できる。

「乾廉さまが献上した御酒を飲まれたと聞いて、とても喜んでいましたね」

『あの……御酒はお気に召していただけたでしょうか?』

 不安げに尋ねた蝶艶の表情が、乾廉の回答を聞いてぱっと明るくなった。

「それにしても、わざわざいただいたその日のうちに飲むとは、乾廉さまも律儀なお方です」

 さりげなく呟くと、どういうわけか乾廉は目を丸くした。余計な話をし過ぎたかと、春咏は自分の発言を後悔する。

「酒を飲んだことがない俺の加術士が、体を張ってまで毒味してくれたからな。飲まないわけにはいかないだろう」

 謝罪する前に乾廉の口から意外な言葉が紡がれ、虚を衝かれる。

 蝶艶のためかと思っていたら、まさかの切り返しに春咏の頬が一瞬で熱くなった。あの酒の中身は最初から保証されていたので、春咏がしたのは毒味とも言えず、ただ酔いが回っただけだ。

 居た堪れなくなり身を縮めると、乾廉はさりげなく春咏の頭を撫でた。

「俺はいい加術士を持った」

 褒められるのは光栄だが、この扱いはまるで子どもに対するものだ。反射的に彼の手を払いのけそうになったが行動には移さず、抗議意味を込め彼を睨みつける。しかし乾廉は笑顔だった。むしろ春咏の瞳をじっと覗き込むように顔を近づける。

「普段、お前は口元を覆いほとんど顔を隠しているから、こうしてじっくり見られるのはいいな。綺麗な顔をしている」

 薄明りの中、目はすっかり慣れている。それではなくても、お互いの表情がわかるほどにふたりの距離は近い。

「見る必要などありませんよ」

 軽く言い返し顔を背けようとしたが、春咏の頤に手をかけそれを阻んだ。

「そう言うな。自分の専従加術士の顔もよく知らないのでは話にならない」

「そ、そんなことはありません。加術士に必要なのは、術に関する腕と知識で」

 せめてもの抵抗にと春咏は視線は逸らす。思えば、加術士である自分のさらけ出した素顔をこんなにも近くで見られた経験などほぼない。

「あまり見られるのは得意ではありません」

「普段、俺をずっと見ているのに?」

 正直に告げると、やや軽い調子で返される。春咏は眉をひそめた。

「当然です。私はあなたの専従加術士なので」

 主をあらゆる厄災から守り導くのが加術士の使命だ。

「なら、主には素直に従うんだな。自分のものをしっかり見てなにが悪い?」

 さっきから詭弁の繰り返しだ。ここまで従う必要はないと突っぱねることもできるが春咏はさっさと諦める。乾廉との関係性だけではない。春咏自身が乾廉に触れられ、見られること自体がそこまで嫌ではないのだ。

 それからどちらも言葉を発さず、沈黙が部屋を包む。燈籠の中で燃える炎の音さえ聞こえそうなほどの静寂に、春咏は思わず微睡みそうになってしまう。

「もしかすると、俺にかかっている呪いは汪青家からのものかもしれないな」

 沈黙を破った乾廉の呟きは、眠気を吹き飛ばすどころか冷水を浴びせられたかのような衝撃を春咏に与えた。

 動揺を必死に隠し、春咏は乾いた唇を動かす。

「なぜ汪青家の仕業だと? 乾廉さまとなにか?」

「お前も太白の人間なら知っているだろう。汪青家の者たちは瑚家を恨みながら死んでいった」

 乾廉の声には後悔と嫌悪が混ざっている。春咏は必死に頭を動かし、続ける言葉を探した。汪青家について皇族から語られるまたとない機会だ。極力情報が欲しい。

「……ですが、元はと言えば汪青家の人間が皇族たちに仇を為したと」

 本心とは真逆の意見を口にする。太白家の……加術御三家となった者たちならきっとこう答えるはずだ。

「それも、どこまで本当かはわからない。俺は直接あの件には関わっていないが、一族を根絶やしするなど相当だ。ひどい仕打ちをしたと聞いている。今まで皇族は汪青家には散々世話になってきたのに……もっとやり方があったと今でも思うんだ」

 懺悔するような言い方に、春咏の方が胸が苦しくなった。

 皇族なんてみんな自分たち以外の命などどうでもいいと考えていると思っていたのに……。皇族のやり方に疑問を持ち、汪青家に対して思いを馳せてくれていた人がいたんだ。

 春咏は悲痛な面持ちでいる乾廉を慰めるかのように彼の頬に手を伸ばす。

「春咏?」

 彼みたいな人間が皇帝だったら、汪青家はきっとあんなことにならなかった。彼みたいな人間こそ皇帝に相応しいのではないだろうか。

「乾廉さまは悪くありません。ですからどうか、どうかご自身を責めないでください。それに、あなたに呪いなどかかっていませんよ。加術士である私が保証します」

 乾廉に呪いの気配など感じない。それは加術士の誇りにかけて断言できる。乾廉はふっと表情を緩めた。

「この話は今まで誰にもしたことがなかった。侍従たちにも歴代の専従加術士たちにも。皇族が皇帝のやり方に疑問を持ち批判するなど謀反だからな」

 ずっと自身の中に溜めこんでいた淀がわずかに透き、乾廉は触れている春咏の手に自身の手を重ねた。

「なぜだろうな。なぜかお前にはしてもいいと、話したいと思ったんだ」

 この奇特な雰囲気がそうさせたのか、春咏の纏う空気がそうさせたのか。加術士として口元を隠していても、この春咏の真っすぐな目だけはいつも変わらない。

 乾廉は前髪を軽く掻き上げ、ため息をついた。

「本当に……無礼を承知で言うが」

 途端に歯切れ悪そうに乾廉が告げてきたので、春咏は目を丸くする。

「なんでしょうか?」

 素直に応じたが、続きを促しても乾廉はなかなか先を話さない。さっきから乾廉の行動は春咏には読めないものばかりだ。

 もしかすると汪青家いついて自分に話したことを後悔しているのか。

 けっして他言しないと告げようとする前に、乾廉がやっと重い口を動かす。

「頭ではわかっているんだが、お前が女に見えて愛しくてたまらないんだ」

 乾廉の告白に春咏の頭は真っ白になった。どうすればいいのか。なんて答えるべきなのか。彼は理解してくれるかもしれない。自分が汪青家の人間で本当は女だと――。

「しょうがないですよ。そういう術をかけていますので」

 微笑みながら返すと、乾廉は目を丸くした。春咏は乾廉から目を逸らし、早口で捲し立てていく。

「華楼宮で怪しまれないために、周りに私を女だと錯覚させるよう術をかけているんです。ですからご心配なく。今だけの一時的なものです。この問題が解決したら別の即妃の元へ、またお渡りください」

 これが正しい対応だ。女の加術士は厄災をもたらす。昔から伝えられてきた暗黙の了解だ。どんなに能力を示しても正体がばれたら乾廉のそばにはいられない。

 そうなったら……。

 そのとき乾廉に強く抱きしめられ、春咏の思考が止まる。顔を上げると彼の整った顔がすぐそばにあり、額と額を重ねられた。

「術に惑わされているのならしょうがない。今はこうしてお前に触れたいんだ」

 真剣な瞳に捕まり、春咏は息を呑む。どんな術より彼の眼差しには逆らえない。ゆるやかに唇を重ねられ、春咏はその温もりに体を預けた。

 今だけ、今だけだ。私は加術士ではなく彼の即妃としてここにいるのだから。

 さっき正体を告げるのをやめたのは、乾廉のそばにいられなくなると汪青家の事実を突きとめられなくなると思ったからだ。必ず真実を暴き、一族の汚名を雪ぐ。

 そのためにはまだ自分は汪青家の人間で女だとは言えないし知られるわけにはいかない。

 けれど、それ以上に春咏は怖かった。女の加術士など認められない。自分を信じてくれている乾廉を裏切る真似などできない。

 唇が離れ、乾廉は春咏を腕の中に閉じ込めて愛おしそうに頭を撫でる。こんな扱いは初めてだ。こんな気持ちも。

 彼のそばにいられなくなるのは……嫌なんだ。

 汪青家の件がなくても、そう思う。春咏は甘えるように乾廉の背中に腕を回した。

 私が乾廉さまを次の皇帝にしてみせる。なにがあっても守り抜いて、彼を玉座に座らせる。

 そのためにはまず、乾廉にかけられた呪いの真相を明らかにしなくては。自分の使命を再確認し、新たな目標に気を引き締める。

 だからこそ、今だけの夢と言い聞かせ、春咏は乾廉の温もりを感じながら静かに目を閉じた。