先生が板書をする音だけが教室にこだます。
 その音は、おれの意識を授業から遠ざけさせる。

 いつのまにか、昨日の夜のことを考えていた。
 おれの写真を肯定してくれた『岩城さん』。
 そんな彼女に、偶然出会った。

 おれの中の『岩城さん』は真面目な優等生みたいな、そんなイメージがあった。
 ただ、昨日出会った『岩城』はそのイメージを覆した。
 優等生であることは間違いない。
 優等生であるが故に、期待されて、それに押しつぶされて、苦しんでいるんだろう。

 ──誰からも関心されないって、楽だよ。

 彼女が発した言葉。
 あのとき彼女は微笑んでいたけど、悲しさが拭いきれない笑顔だった。

 たぶん、岩城は岩城を大切だと言ってくれる人を求めてる。
 岩城をいちばんに大切にしてくれる人を。

 おれがそうなりたくて反射的に明日も会おうなんて言ってしまったけど、なれないことは分かりきっている。
 おれはもう、大切なんて作らないって決めているんだから。


「おい、七海」

 先生の声に授業に引き戻される。
 黒板には古文が書かれていて、「あらず」という所に線が引かれている。

「『あら』の活用形は?」

「『ず』の上なので未然形、です」

 きちんと正解を述べたはずなのに、クラスメートの視線は冷ややかだ。
 世界から色が消えていく。

 ──七海くん。

 無色になった世界の中に、桃色の雫が一滴落ちた。
 それは波紋を使って、世界を桃色に染めていく。

 岩城の眼が、表情が、声が、頭から離れない。
 岩城が『大切』になっていく。
 ちがう。
 これは、写真部の七海彩人にとっての『大切』だ。

 『岩城』に対する『大切』は、そんなんじゃなくて──。

 その想いに気付いてしまって、絶望しているおれがいる。
 そして、それを必死に否定しようとするおれ。
 突き放されるかもしれない。
 そんな恐怖が頭を支配する。
 この恐怖の根元にある出来事。

 これだけは、岩城に知られたくないな、と思う。