「伊織さま! 何処へ行こうと言うのですか!」

千早を軽々と腕に抱えた伊織は、空(くう)を駆けて内裏を抜けた。ぐんぐんと高度が上がり、都を一望できる高さまで上ってくる。その一角の寝殿造りの建物の屋根の上に、黒と白の模様の大きな獣が居るのが分かった。

「獏が!」

「禍々しい気配をあやつから感じる。もしかしたら呪(まじな)いをかけられているのかもしれん」

まじない……。だとしたら、大人しい気質の彼を苦しめている元凶が居る。

さっき聞いた、苦し気な声が思い出される。彼が望んでやったことではなかったんだ。一度会った時の穏やかな様子が思い出されて、胸がぎゅうっと痛む。

(人の思惑に、利用されたくなかったよね)

千早はそう思うが、獏は怪しく目を光らさせ、千早のことを睨んでいる。だが、聞こえてくるのは千早の気持ちに呼応したかのような慟哭ばかりだ。

≪ツライ、クルシイ、ユメヲクイタクナイ≫

光る目から、涙がこぼれている。自分の意に反して夢を食わなければならなかった彼の辛さを思うと、一刻も早くまじないを解かなければいけない。

しかし獏は屋根の上から飛びあがり、その影と本体が同時に千早と伊織に襲い掛かる。千早たちは二手に分かれて獏の攻撃を避けよとするが、宙を飛べる伊織に反して、夢の外の千早はただの人間であり、無力以外の何物でもない。夜空を覆うほど大きくなった獏の影が襲ってきて、どこにも逃げ場がない、と思った時に、宙に跳んでいた伊織がさっと千早をさらい、寸でのところで影の牙から逃れた。

伊織は、千早たちを追いかけてまさに都を覆いつくさんとする影から逃れ、東寺の塔の水煙(すいえん)の上、宝珠の先端に立つと、影と対峙して自らの髪の毛を一本、手の上に置いた。髪の毛は瞬く間に輝く鳳凰の羽根となり、影に対峙した伊織が朗々と唱えた。

「我、鳳凰の座に就くものなり。悪しき呪(じゅ)を滅し、元のさやに戻れと、宣る!」

宣誓と共に羽根を陰に向けて投げると、羽根が当たった影がパリンと割れ、それが四方八方に散る。呪われていた獏の断末魔が空にこだまし、影の欠片の一片が千早たちに向けて飛んできたが、伊織は素早い身のこなしで着物の袖に千早を匿い、袖を切った欠片を素手で捕らえた。

「あ、ありがとうございます……」

「お前の肌に傷をつけるわけにはいかないからな」

にやっと笑った伊織に、どうしても心臓が走ってしまう。

ううう、男の筈なのに、どうも伊織に庇われてばかりな気がする。こんなことでは駄目なのでは……。

項垂れていると、まじないから解放された獏が千早の体に鼻先を擦りつけた。キュイキュイと鳴く様子は以前会った時のそれで、千早はそれだけで安心してしまう。

「さて、では、全ての元凶を罰しに行くか」

伊織はそう言うと、千早と獏を連れて左大臣家の庭先に降り立った。すると屋敷の中から唸るような叫び声が聞こえた。

「うあああ! 全身がむしばまれるように痛い! なんだこの痛みは! 薬師を呼べ! 祈祷師を呼べ! この痛みを収めるんだ!」

どうやら獏に施していた呪いが左大臣に跳ね返って、急に体調を悪くしたらしい。伊織が促したので、しとねの上で悶えている左大臣の前に、獏と共に歩みでると、左大臣は獏の姿を見て驚愕の目をし、そして伊織の姿を見て、狼狽えた。

「お、主上、これは一体、なにごとですか」

ぜえぜえと全身を襲う痛みに苦しみながら問う左大臣に、伊織は蔑視の目を向けた。

「お前の苦しみはお前が施させた呪詛から帰ったものだ。俺の夢を獏に食わせ、まつりごとを混乱に陥れた罪は重いと知れ」

伊織はそう言うと、手に持っていた影の欠片を指先で弾き、左大臣の額に命中させた。途端に破片が大きくなって左大臣の体を覆い、闇の繭玉の中に閉じ込められた左大臣は、その悪略に対する咎を、もうろうとした夢の中で受け続けることとなった。