後宮に入ると馬車は西へ向かう。卑女はそれぞれの区の南端にある長屋で暮らしている。質素な作りで雨が降れば雨漏りがし、冬は隙間風で外と気温が変わらない。それなのに夏は空気の流れが悪く湿気が溜まる。そんな悪環境の中、狭い部屋に数人がともに寝起きをしていた。
馬車を降りると案内役の小柄な宦官が一人いて、紫空を見ると揖礼をする。
「こちらです」
案内されて入った長屋は真ん中に土間が走り、左右に粗末な板で仕切られた部屋が幾つもあった。部屋の幅は紫空が両腕を伸ばしたほど。入口に戸板はなく薄汚れほつれた暖簾がかけてあるだけだった。
小柄な宦官は奥から三番目の暖簾の前で立ち止まり、内側に向かって声を掛けた。すると、暖簾が捲られ白髪が混じった顔色の悪い女が出て来た。病気というより慢性的に栄養状態が良くないようだ。
「こちらの女が、静瑠宮で働いていた衣久です。その前は白柚宮でも働いていたそうです」
「どちらの宮でも働いていたのですか」
それなら都合が良い。
「もしかすると、淑妃の配慮で静瑠宮に務めることになったのかもしれないな。侍女ならともかく卑女ぐらいなら淑妃の権限でできる」
「そうなのですか」
徳妃の動きに対抗したのかも、と蓮華は思う。
女は揖礼を取ると、恐る恐る蓮華と紫空を見る。自分がなぜ呼ばれたかまでは聞かされていないようだ。紫空は蓮華に目線をやる、お前が聞けということだろう。
「西区にでる幽鬼のことを調べております。淑妃様と江期様の仲はどうでしたでしょうか?」
「私のような身分のものが知っていることは僅かですが、大変仲が良く見えました。あのお二人は従姉妹でして、江期様が召し上げられた時も淑妃様は大変喜んでいらっしゃいましたし、淑妃様がご懐妊された時は江期様は毎日のように白柚宮に行って、侍女に戻ったかのようにかいがいしくお世話をされていたようです」
「淑妃様のお腹には赤子がいたのですか」
(初めて聞いたわ。資料には何も書かれていなかった)
紫空を見ると、蓮華同様初めて知ったようだ。
「まだ安定していない時期でしたので公にはしておりませんでした。万が一のことがあってはいけませんので」
この場合の万が一、とは堕胎薬をもられるなど子を害されるおそれがあることをさす。帝の子を殺すのは大罪だが足の引っ張り合いが常なのも後宮だ。
「お世話、というと淑妃様は体調が悪かったのですか?」
「その頃私は江期様に仕えていたので白柚宮の知り合いから聞いた話ですが、悪阻が酷く、医官様からは食欲がなくても水分はしっかり摂るようにと言われていたそうです。粥に滋養強壮のあるものを入れていたとも聞きました」
「江期様が亡くなられてからはどうされましたか?」
「亡くなられたあと私は再び白柚宮に戻されました。淑妃様の食欲は相変わらずで、でも、医官様に言われた通り水分だけはしっかりと摂られていたようです。ただ、侍女や私たちの間にも体調を崩すものがでてきました。それと同時に井戸で幽鬼をみたという者もいて、江期様の呪ではと噂されるようになりました」
その噂の真偽が確かめられる前に淑妃は亡くなった。そのあと白柚宮にだれも住むことなく今日にいたる。
「では幽鬼が出るようになったのは江期様が亡くなられてからですね」
「はい、あのような亡くなり方でしたからきっと無念があったのかと。ただ、淑妃様のご懐妊もありましたので不吉な噂を流さないようにと言われておりました」
幽鬼の正体は江期で間違いない。では、彼女はどうして自分を殺した相手の前ではなく、井戸に現れるのか。
「他になにか変わったことはありませんでしたか?」
「特には……とにかく侍女達までが幽鬼をおそれ、この長屋に湯をかりにくるようになったぐらいでしょうか」
「湯をですか?」
「はい。淑妃様は夕方に湯浴みされますが、侍女達は夜に竈で沸かした湯で身体を拭きます。ところが、竈から井戸が見えるので怖くて。侍女長に相談したところ長屋から湯を運ぶ許可を貰ったそうです」
季節は夏。多少湯が冷めても問題なかっただろう。
蓮華の瞳が鋭く細められる。
(もしかすると……)
「では、最後にひとつ質問を――」
蓮華がした問いに衣久は目を丸くする。
「確かにそんなことがございました。でも、どうしてあなたがそのことを……」