「あの、どうして近くに?」
「これから読むのは掖廷令から持ってきた資料だろう? そちらは俺もまだ目を通していないから一緒に読もうと思ってな」
肩と肩がぶつかるような距離。沈香の匂いが鼻孔をくすぐりなんとも落ち着かない。
しかし紫空は動く気配はない。紙の束から今度は黒い紐で閉じられた書を手にし自ら開く。蓮華は隣から覗き込むようにしてそれに視線を落とす。
「こ、この資料によると、江期が亡くなったの春。妃賓に召し上げられてから三か月後のことですね。場所は白柚宮の井戸の付近で、頭から血を流しているのを早朝、井戸水を汲みにきた侍女が見つけたとあります。
井戸の付近に争った形跡があり江期の頭には殴打された形跡と、喉に短剣を刺されたあとがあったと書いてあります」
「凶器は見つかっていないがこぶし大の石の可能性が高いか。そんなものどこにでも転がっている」
血を洗い流し道端に捨てることも、池に沈めることもできる。直接の死因は短剣だが、こちらも見つかってはいない。
また、遺体を発見した侍女がを掖廷令を呼びに行くまでの間に雨が降り出したため、血痕のあとは侍女の記憶によるものと追記もされていた。
「それから侍女の証言では、倒れていた付近で青色の瑠璃のような破片を見つけたらしのですが、掖廷令の調べではそのような類のものは出てきていないそうです」
「破片は血痕と違い雨では流れない。侍女の見間違いの可能性が高いな」
そのあとも紙を捲るも、書によれば大きな進展がなく犯人も分からなかったらしい。
「……結局、江期がどうして白柚宮に居たのかは分からなかったようですね」
誰かが呼び出したのは間違いないが、白柚宮に該当者はいなかったと記されていた。
「この書から分かることはそれぐらいでしょうか」
「では、白柚宮の誰かに殺され、それを恨みに思って幽鬼となったというのが真相か」
「決めるのはまだ早々のように思うのですが。少なくとも卑女の話を聞いてから結論をだしたいです」
手がかりはあったが、まだこれだけでは不十分だ。
「では宇虎が卑女が分かるまだここで待て。少し長椅子の端に寄ってくれないか?」
なぜ? と思うも、やっと離れることができる。蓮華はいそいそと尻をずらした。すると紫空はいきなりゴロリと横になり、頭を蓮華の膝に乗せてくる。
「し、紫空様! あの、これは!」
「昨晩遅かったので寝不足だ。暫くこうしておけ」
「いや、で、でも、これは」
「何か問題が」
「私は男です」
「それは良かった。俺とて妃嬪でない女性にいきなりこのような態度は無礼になるからな。お前が男で良かった」
(あー! もうどうしたらいいの)
さらにあろうことか紫空は身体の向きをかえ、額を蓮華の腹にくっつける。腕は腰に回され動けない。初めての体勢に蓮華は耳まで赤くなる。
「あの、さすがにこれは」
「問題ない」
問題しかないと蓮華は思う。
半ば抱きつかれるようなこの姿勢は、男性と接する機会が少ない蓮華に刺激が多すぎる。羞恥に耐えるようにぎゅっと目を瞑ると、下からクツクツと抑えた笑いが聞こえてきた。
「お前は本当に揶揄いがいがあるな」
「どういうことでしょうか?」
「澄ました顔や媚びる笑みしか浮かべない女よりずっと面白い」
(遊ばれている!!)
まるで蓮華の反応を楽しむかのように、腰に回さらた腕の力がさらに強まる。
「うん? どうした。男同士だというのに顔が真っ赤だぞ?」
下から伸びてきた手が頬に触れる。
(もう限界)
とうとう首まで蓮華が赤くした時、扉の外から宇虎の声がした。
「大家、卑女が見つかりました」
「……そうか、早いな」
紫空がのそりと立ち上がり、蓮華はほっと息を吐いた。胸の鼓動が早すぎてあのままでは心臓が持たなかったのでは、と思う。
先に外に用意した馬車で待つように言われた蓮華の前に現れたのは、昨日と同じ衣に着替えた紫空。今日も一緒に卑女のところまで出向くつもりらしい。
高位宦官であれば皇太子時代の紫空と顔を合わす機会があったかもしれないが、後宮から出れない卑女が後宮に入れない皇太子の顔を見る機会はないから問題ないと言う。
「お忙しいのではありませんか?」
「俺が傍にいたいだけだ。気にするな」
すっと目を細め、柔らかな視線を送られて蓮華は困ってしまう。
「そのような言葉は妃嬪に囁かれるのが宜しいかと」
「こんな言葉妃嬪に言ってみろ、色々面倒が増える。本当、お前が男で良かった」
例え増えてもそれが正しい言葉の使い方。
しかし、紫空に髪をひと撫でされた蓮華は口をあわあわさせるだけで何も言い返せなかった。