次の日。
 宦官が持ってきてくれた朝餉を房室で食べ、昨日と同じうように薄灰色の袍に着替える。
 外廊下を歩いて一度曲がった先に養心殿へと続く扉がある。その前に宇虎が立っていた。

「ご要望の物は今、大家に渡してきました」
「ありがとうございます」

 蓮華の礼を聞くと宇虎な踵を返し養心殿の扉を開けた。どうやら蓮華が来るのを待っていたらしい。そのまま紫空の待つ房室まで案内すると、「では私はこれで」と言って立ち去って行った。

 声をかけ、中からの返事を確認してから蓮華は揖礼(ゆうれい)を取りながら部屋に入った。

「顔を上げこちらに来い」
「はい」

 言われた通りに頭を上げると、昨日座っていた卓ではなく部屋の端にあるに長椅子(カウチ)に紫空は座っており、自身の隣をポンと叩く。

(隣に座れということ?)

 なぜ隣、という疑問はあるが、言われた通りその場所に腰掛ける。長椅子の前にある卓には紙の束。昨晩蓮華が頼んだものだ。

「一通り言われたものは用意した。どれから見る?」
「ではまず、白柚宮の名簿をお願いします」

 蓮華の言葉に、青い紐で閉じられた紙束を紫空は手渡してくる。捲れば、亡くなった淑妃に支えていた者の名が連ねらていた。

「一年前に当時の淑妃様が亡くなってから白柚宮は無人なのですね」
「そうだ。次の妃が決まらぬうちに帝が急逝したからな。はっ、もしかして帝の死も……」
「いえ、それはおそらく関係ないかと思います」
「どうしてそう思う?」
「あの幽鬼は白柚宮の井戸にこだわっていましたから」

 それなら先帝は関係ない。帝が本当に病だったかは分からないけれど少なくとも今回の幽鬼騒ぎには無関係だ。

 蓮華は渡された書に目を通すと、小さく首を傾げた。

「あの、名前を縦線で消した下に『嬪』と書いているのは何でしょうか?」
「あぁ、それは嬪に召し上げたということだ。続けて等級と宮の名前が書いてあるだろう」
「はい正三品と静瑠宮(せいるぐう)と書いています。日付は召し上げられた日ですね」

 書の最後に書かれていたのは、淑妃が亡くなった日付だった。原因不明でほぼ一年前に間違いない。

「召し上げられたのは江期(コウキ)という侍女ですね。彼女の宮――静瑠宮(せいるぐう)の名簿はありますか」
「ああ、これだ」

 渡された束は先程と比べると随分薄い。その事を問えば、従一品と正三品ではそもそも使える侍女の数が違うと言われた。淑妃の侍女が三十人近くいたのに対し、江期は二人。

「十分の一以下ですか。随分と差があるものですね」
「そうだな。江期の場合、侍女から突然召し上げられたこともあるのだろう。通常であればあと二人ほどいてもおかしくない」
「それで宮は手が足りるのでしょうか?」
「他に卑女がいて洗濯や掃除をするので、何とかなるようだ」

 卑女は宮に住まず、担当する区に共同で暮らす建物があるらしい。その為か、もしくは身分の低さからか名簿に名はない。

 蓮華は二人いる侍女の内、後に書かれ画名前を指さす。

「紫空様、これはどういうことなのでしょうか?」

 侍女の名前の下に紅簾宮(コウスグウ)と書いてある。名は消されていない。

「紅簾宮は徳妃の宮の名前だ。どうやら紅簾宮から一人侍女が来たようだな。名前は(セツ)
「淑妃様と徳妃様は仲が良ろしかったのですか?」
「いや、貴妃、賢妃に子がいるのに対し、この二人はいなかった。表だったいざこざはなかったが、どちらが先に身籠るかお互い気が気でなかっただろう」
「それなのにどうして、紅簾宮から侍女が?」

 矛盾している。仲が良いなら兎も角、どうしてそんなことを、と蓮華は腑に落ちない。
 紫空も袍の袖に手を通すようにして腕を組むが、こちらは思い当たる節があるようだ。しかし、どうも歯切れが悪い。

「帝は……新しいものにとかく目が行きがちがでな」
「それは帝に限らず殿方は皆そうなのではないですか?」
「すべての男がそうとは限らないだろう」
「はぁ……」

 自分の父親を思い浮かべて蓮華がのべれば、紫空は少しむっとした表情を浮かべる。

「帝が頻繁に通えばその宮にいる侍女と顔を合わせる機会も増える。ましてや侍女の数が少なければ猶更だ」

「召し上げられる可能性が高いから、わざわざ侍女を移籍させたのですか。そんなことして徳妃様に何の得があるのですか?」

「派閥争いだな。自分の侍女が妃嬪に召し上げられるのは悪いことではない。敵ばかりの後宮で味方ができるのだからな。あとは淑妃側の情報収集も兼ねているのだろう」
「よく江期が受け入れましたね」

 自分なら絶対嫌だと蓮華は思う。敵が身近にいるなんてずっと気を抜くことが出来ないじゃないか。

「先帝の推薦なら断れない」
「先帝はどうしてそんな厄介な推薦をされたのでしょう?」
「徳妃から『侍女が足りないと聞いたので、自分の宮の侍女を貸す』と進言されれば、帝とて無下には断れない。それでなくとも他宮の侍女を召し上げたあとだ、多少の我儘ぐらい聞いて機嫌を取らねばと思うだろう」

 帝とて、従一品の妃嬪の機嫌をそれ以上損ねるわけにはいかない。その後ろにいるのは外邸で力を持つ父親なのだから。

(後宮というのは面倒な場所ね)

 帝は自由に妃賓を選べるが、好き勝手できる訳ではない。妃賓の親は外廷で重役についていることも多いため、政治とのバランスも必要になってくる。

(紫空様もこれから沢山の妃賓を渡り歩くのかな)

 そう思うと、なぜか胸がざわつく。
 自分にしたように耳元で甘い言葉を囁くのだろうか。指を絡ませるように手をつなぎ、きっとそれ以上に……

「どうした、眉間に皺が寄っているぞ」
「えっ」

 はっと気づけば鼻先三寸の場所に整った顔があった。
 蓮華の顔に血が上り、自分でも分かるぐらい赤くなる。

「あ、あの。と当時を知っている人は誰もいないのでしょうか?」
「帝が変わっても宦官と卑女は変わらない」
「では、淑妃様と江期様に仕えていた卑女に話を聞くことはできますでようか?」
「手配しよう」

 そういうと紫空は席を立ち扉を開ける。房室の外に控えていた宇虎に卑女を探すよう頼むと、戻ってきて再び椅子に座った。しかし、その距離が先程より近い。