夜も更けた頃、扉が叩かれたので開けると案内してくれた宇虎が立っていた。
 着替えとして渡されていた宦官の袍にすでに着替えていた蓮華が、宇虎の後ろについて養心殿に向かうと、そこには質素な襌衣(たんい)に着替えた紫空がいた。

(どうして紫空様まで着替えているの?)

 不思議そうに目を瞬く蓮華に気付いたのか宇虎が説明をしてくれた。

「大家は幽鬼騒ぎが治まるまで後宮に赴かないことになっておりますので、目だたぬよう宦官の衣に着替えられたのです」
「帝が一緒に来られるのですか?」

 どうして、と思う。そのような仕事、家臣に任せればよいではないか、と。
 
「当初は私が同行する予定でしたが、どうしてもご自分で行くと仰られて」

 宇虎は困ったように眉を下げ紫空を見る。しかし当の本人はそんな視線は知らぬとばかりに蓮華に歩み寄る。

「なかなか似合うでないか」

 紫空の指が蓮華の黒髪をスッと撫で一束掴むと目を細める。

「絹糸のような細い髪だな。良く手入れされていて艶やかだ」
「そ、その。距離が近いように思うのですが?」
「そうか?」

 蓮華は一歩下がるも、紫空はそれを許さないとさらに間合いを詰めてくる。そしてあろうこと首筋に顔を近づけた。

「しかも女のように甘い匂いがする」
「!!」

 間近に聞こえる甘い声。耳朶にかかる吐息とその内容に蓮華は赤くなったり青くなったり忙しい。
 紫空は顔を離すとその反応を楽しむように意地悪く目を細める。

「あ、あの。帝……」
「紫空だ。名で呼べ」
「しかし……」
「命令だ」

 蓮華はもう何がなんだかよく分からない。ただ、名で呼べと言われればそうするしかない。

「紫空様。……では、そ、そろそろ西区に行きませんか?」
「そうだな。では行くか」

 真っ赤な顔で焦って言えば、紫空はふっと笑いをこぼし先に立って歩き始めた。

 
 再び馬車に乗せられ、降ろされたのは西区にある大きな殿舎の裏門。
 宮の名は白柚宮(はくゆぐう)、従一品の淑妃様の宮だが今はまだ無人らしい。

「灯りのついていない宮も多いですね」

 周りに幾つかの宮があるはずだが、釣灯籠に灯りは見られない。見渡すかぎり暗闇、果たしてここが煌びやかな後宮かと疑いたくなる。

「さて行くか」

 スッと、ごく自然に手を握られ蓮華の肩はびくりと跳ねる。

「し、紫空様! 手を」

 離してください、と言おうとするもさらに強く握られる。

「持ってきた手提灯は一つ。逸れてはいけないだろう?」
「しかしこのような事。……誰か見られれば誤解されます」 
「心配するな、俺達以外誰もいない」
「なっ!!」
「それに見られたとて、宦官同士の逢引きなどここでは珍しくない」

(逢引き!)

 聞きなれない言葉に蓮華の鼓動が跳ねる。

 耳朶近くで囁かれ顔に血が上るのを感じて、今が暗闇で良かったと心底思った。
 それにしてもこの距離はおかしい。先程から心臓が早鐘のように鳴り続け、これでは幽鬼どころではない。

「紫空様は、その。男が好きだったり、しますか?」

 言葉を選びながら聞くつもりだったが、口から出たのは本質をつくもの。しかし、紫空は不快そうに眉を顰めるでもなくクツクツと笑い始める。

「いや、安心しろ。そのような趣味はない」

 何が安心なのか。それではどうして今自分の手を繋いでいるのか。
 女性が好みなのは、帝の血脈が続くので喜ばしいこととも言えるが、ではこの状況はいったい。
 それならば、と、思い切ってもう一つ聞いてみる。
 今度は答えやすいように遠回しに(オブラートに包んで)

「女性が嫌いとか」
「いや、相手によるが好きだ。特に揶揄いがいがある者が好ましい」
「揶揄う……」

(やっぱり私が女だとバレている?)

 不安が胸をよぎるも、紫空は構うことなく蓮華の手を引き歩き始め、白柚宮の朱塗りの裏門を潜った。

 ひっそりとした静寂の中、乾いた土を踏む二人の足音だけが響いている。紫空が手提灯を頭上まで持ち上げると、屋根の付いた大きな建物が三つ遠くに見えた。

「無人の宮なのに誰が幽鬼を見たのですか?」
「この宮の近くに住む妃賓の侍女だ。侍女頭に頼まれ職房に帯を取りに行った帰り、近道をしようと無人の白柚宮を通り抜けたところ、幽鬼に遭遇したそうだ」

 もう少し行けば井戸があってその辺りに幽鬼はよく出るらしい。

「それで、幽鬼が出没する時間はいつでしょうか?」
「時間は決まっていない。侍女が幽鬼を見たと騒ぐから、一週間ほど宦官に命じ見回りをさせたが、幽鬼が出没する時間に規則性はなかった」

(時間は関係ないか)

 幽鬼とて好き勝手気ままに出没するのは珍しい。
 ある時間、場所、人、何かしら規則性のもとに姿を現す。この場合井戸が関係しそうだな、と蓮華は考えた。

「井戸の付近で何かありませんでしたか?」
「一年数ヶ月前にその井戸で妃嬪が一人亡くなっている」
「妃嬪、ということは淑妃様ですか?」
「いや、他の宮の妃嬪だ。しかし、その前はここで侍女をしたいた。その死から数か月後ーーちょうと今から一年前に今度は淑妃が亡くなっている」

(亡くなった妃賓が二人。どちらが幽鬼となったのだろう)

「以前侍女をしていた、というのはどういう意味ですか?」 
「帝が気に入った侍女を妃賓として召し上げるのは珍しいことではない。いえば、出世だな」

 しかし、妃嬪となったからには自分の宮が与えられたはず。それがどうしてここで亡くなったか。疑問は尽きない。