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 夕暮れ前。
 大門の前で、萌黄色の男児の袍を着た蓮華を待っていたのは二十歳半の男。頼りないと思ったのだろうか、僅かに眉を顰めるもすぐに柔和な笑みを浮かべる。

「お待ちしておりました。帝に支えている甘宇辰(かんゆうしん)です。早速ですが大家(ターチャ)の元へご案内致します」
「陽蓮……奏と申します。父の代わりに参りました」

 弟の名を名乗り蓮華は頭を下げる。
 宇辰は門番と一言、二言、言葉を交わすと、用意していた馬車に乗った。どうやらここから帝のいる場所まで距離があるようだ。

 大門を潜って馬車は石畳の道を進む。窓の外を見れば朱赤の殿舎がちらほら。

「ここは外邸、政務を行う場所です。大家がいるのはこの一番奥の養心殿になります」

 祓い屋に敬語を使うなど律儀な男だな、と蓮華は思う。そっも横顔を覗きこめば精悍な顔をしているが不思議と威圧感は感じない。

(帝の名前は紫空様だったはず)

 口にすることはない名前だが一応思い出しておく。

 馬車はほぼ真っ直ぐに進み、その道の突き当たりにある大きな殿舎の前で停まった。綺麗に朱が塗られている。いかにも、なその殿舎の佇まいに蓮華に緊張が走った。何せ男だと帝を騙すのだからバレては命がない。

 案内された先には金の持ち手がついた両開きの扉。
 宇虎は「戻りました」と声をかけると、扉を開け中に入っていく。

「大家、陽蓮奏を連れてきました」

 蓮華は揖礼(ゆうれい)を取りながら部屋に入り、紫空の爪先が見える位置で立ち止まると、膝を折る。

「陽蓮奏と申します。後宮に出る幽鬼を祓えとの命を受け参りました」
「良くきた。顔を上げろ」

 聞こえた低い声は意外にも柔らかい。もっと威圧感のある野太い声を想像していたか。言われた通り顔を上げたところで、蓮華はパチリと瞬きをする。

 そこにいたのは香り立つような美丈夫。濡れたような艶のある黒髪を半分だけ結い上げ残りはサラリと肩に垂らしている。スッとした鼻筋と切れ長の瞳は憂いと色香が漂うも、薄い唇で作る笑みだけが少し冷たさを感じた。

 年頃の女性(にょしょう)なら頬を赤らめ見とれるのだろうが、蓮華は正体がバレないかと顔を引き締める。今や衰退の一途を辿る陽家など、帝の吐息で吹き飛んでしまう。

「幽鬼が出る西区には、日付が変わる頃に案内するゆえそれまでに準備をしておけ。部屋と食事は用意した」
「ありがとうございます。あの、西区、というのは?」

 果たして質問は許されるのだろうかと聞けば、代わりに宇虎が答えてくれた。

 それによると、後宮は東西南北四つの区間に分かれていて、それぞれの区画に十人ほどの妃嬪が暮らすらしい。先代の時はその三倍ほどが暮らしていたので空き家ならぬ空き宮も多く、それが不気味で幽鬼の噂に拍車をかけている。

「正一品の皇后様の席はまだ空いたままです。従一品の貴妃様、徳妃様、淑妃様、賢妃様の輿入れは一番最後。まだ入台はしておりませんが数日以内に来られるかと。次に正二品、従二品の妃の称号を持つ方が十名。最後に正三品、従三品の嬪の称号を持つ方が三十名ほど、今はまだこれだけしか決まっておりません」

 さらに妃嬪達のことも教えてくれた。

(これだけ)

 花盛りの美女四十人も揃えてこれだけと称するのはいかがなものかと蓮華は思う。祓い屋の跡継ぎを作るため、と複数の妾の間を行き来する父と姿が被る。そのことに正妻である蓮華の母は心労が絶えず、五年前に他界した。

(幸せなのかなぁ)

 目の前のいる美丈夫を巡って起きる人間模様は、間違いなく蓮華の知っているものを越えるだろう。

「どうした?」

 黙り込んだ蓮華に紫空が聞く。

「いえ、後宮には沢山の女性がいらっしゃるのだなと思いまして」
「羨ましいか?」
「いえ、一人の寵愛を争うなど私には無理です」

 紫空が僅かに眉間に皺を寄せたので、蓮華は失礼なことを口走ったと慌てて手で口を抑える。しかし、紫空は怒るでもなくじっと蓮華を見る。

(何?)

 祓う前に不敬罪で首が飛ぶのは避けたい。しかし、紫空はふっと視線を緩めた。口が少し意地悪く弧を描く。

「随分、女目線で話すのだな」

(しまった!!)

 先程の発言はどう考えても妃嬪の立場から。ここはどうにか誤魔化さなくては。

「あ、あの。私には年頃の姉がおりますので、ついその目線で答えてしまいました」
「そうか。ちなみに姉の名と歳は?」
「蓮華と申しまして十七歳になります」

 そうか、と紫空は数回頷いた後、さも面白そうに唇の端を上げた。
 何やら腹黒いものを感じ、蓮華は頬を引き攣らせる。

「後宮をその姿で歩かれるのは困る。あそこに入ってよい男は俺と性を切り取られた宦官だけ。着替えを用意しよう」
「は、はい。畏まりました」

 紫空はそれだけ言うと房室(ぼうしつ)を出て行く。それを見届けて蓮華は嘆息をつく。陽家など紫空の機嫌一つで吹き飛ぶほどの存在。とりあえず首の皮一枚で繋がったようだ。

 案内された部屋は養心殿の裏にある建物。宿直の官吏達が利用する建物らしく、小さいながら寝台もある。窓辺には卓があり本が数冊置き去りにされている。

「まだ三刻(六時間)もある」

 大門が閉まる前に来る必要があったから仕方ないとはいえ、時間を持て余す。とりあえず幞頭を外し髪を解くと寝台の上に身を投げ出した。そして緊張が解けた蓮華はそのまま目を閉じた。