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 目を覚ました頃には時計の針は18時を回っていた。昼寝には十分すぎる時間だった。今日はしばらく眠れないだろうな。少しの罪悪感を抱きながら頭を働かせるためにオレはコーンスープを作った。触っているだけでじんわりと熱さが伝わってくるカップを慎重に持ち上げ、湯気の立つカップに息を吹きかけてから恐る恐る一口目を口に入れてみた。予想以上に熱かったスープに驚いたオレは、座っていたソファから軽く飛び上がった。熱いを通り越して痛い感覚がオレの舌の先を襲った。猫の師匠も相変わらず猫舌だ。オレはスープを冷ましながら部屋の照明を少し明るくしてテレビの電源を入れた。すると、感情のこもっていない男のアナウンサーの原稿を読み上げる無機質な声がオレの耳に勝手に入ってきた。映像に映る駅は事件の現場だろう。今日もオレの知らないどこかの街で起こった殺人事件のニュースが報道されていた。ニュースはいつだって胸がきりきりと締め付けられる。顔が下を向いてしまう。この国にはスポーツ以外に明るい話題はないものだろうかとオレは常日頃思ってしまう。そんな事を考えながらさっきよりも少しだけ冷たくなったスープをゆっくり飲んでいると、ドアに設置された鈴がちりんと鳴ってドアが開いた。そこには人間に戻ったニケが帰ってきた。

 「おかえり。可愛い黒猫ちゃん」
 「うるさい。ただいま師匠」
 「今日は優子に会えたか?」
 「ううん、今日はいなかった」
 「そっか」
 「白猫も仙猫さんもいなかった」
 「そっか」
 「小学生たちにもみくちゃにされた」
 「ハハ。そんな日もあるさ」

今日のニケは機嫌も体勢も斜めを向いているようだ。声のトーンもいつもより低い。あからさまに元気がない。優子に会えなかった日は最近いつもこんな調子だ。ふふ、謳歌しているねぇ。師匠は微笑ましいよ。

 「コーンスープあるけど飲むか?」
 「うーん、うん」
 「何だよ、意地悪なんかしないよ」
 「その顔は信用出来ないなぁ」
 「バーカ、オレだぞ? 信じろ」

眉間に皺を寄せ、難しいクイズを解こうとするようなニケの顔を横目に、オレは返事を聞かないままニケがいつも使っているマグカップにコーンスープを注いで差し出した。

 「まぁ騙されたと思って飲めよ。今日の味はいつもより自信ある」
 「じゃあお言葉に甘えて」

ニケはオレの言葉に操られるようにマグカップに手を伸ばした。何の躊躇いもなくそれを口にしたニケは、オレの思惑通り勢いよく飛び跳ねた。飛び跳ねすぎて天井にニケの頭が届きそうだった。オレよりも飛び跳ねていてそれがオレのツボにハマった。

 「ハハハ! 飛び上がるほど美味かったのか」
 「ざっけんな! 熱すぎるわ!」

オレより猫舌のニケには熱すぎる温度で差し出したコーンスープ。よく見れば、沸き立てのお風呂のような湯気が立ち込めている。それに気づかないニケにますます愛らしさを抱く。

 「まだまだお前はお子ちゃまだな」
 「うるさいな。師匠だって猫舌じゃんか」
 「お前ほどじゃねえよ」
 「そういうとこ、ホントムカつく」

不快感を顔で全面に出すニケは、コーンスープを一旦放置しテーブルの上に置かれたチョコに手を伸ばして口に運んだ。

 「師匠、そういや」
 「うん?」
 「僕のやりたいこと、まだ師匠に言ってなかったよね?」
 「あぁ、そういやまだだったな」

オレの勘が正しければ今日それを知ったが。何てタイムリーなタイミングだ。と、心の中で思った。それとオレは、ニケに部屋へ入った事がバレない言葉選びをするように意識した。

 「実は僕ね、物語を書いてるんだ」
 「へぇ! すげえじゃん! どんな物語なんだ?」

オレの勘は正しかった。オレは自分でも認める程わざとらしいオーバーリアクションを取った。目ん玉を大きくしてみたり。両腕を大きく上に上げてみたり。ニケは何かを気にした表情に見えたが、それに触れる事なく続けた。

 「黒猫が主人公の物語。僕にしか書く事の出来ない物語になるかなと思って」

オレもそう思う。それは本心でそう思った。

 「確かにな。へぇ、めっちゃいいじゃん。オレにも見せてくれよ」
 「やだよ。恥ずかしいから。自己満足で書いてるだけだし」
 「そうなのか? コンテストみたいな賞とかに応募したりとかしないのか?」
 「うん。単純に僕が読みたいだけだから」
 「ふーん、オレは良いと思うけどなぁ」
 「え?」

ニケの顔色が明らかに変わってオレを見た。その瞬間にニケの心の声が流れ込んでくるように聞こえてきた気がした。

 「い、いやどうせ作るならオレだったら、そういうのに応募するけどなぁってことだよ」

オレは慌てて誤魔化し鼻の頭を擦った。そんな一言だけでニケの疑惑が晴れるはずもなかった。さっきより険しい顔でニケはオレを見つめている。

 「なんだよ、ニケ」
 「僕の部屋、入った?」
 「入ってねえよ。入るわけないだろ。お前も年頃だしな。エロい本なんか見つけてしまったら複雑だしな」

今度はニケがオレの言葉を聞いて慌てた。ニケは慌てると目が泳ぐ。あと、嘘をつく時も。

 「そ、そんなのあるわけないだろ!」
 「そうなのか? オレがお前ぐらいの歳の時にはそういうの欲しくてたまらなかったけどなー」

話の主導権を強引に勝ち取り、話題をシフトしていく。実際、エロ本は見つからなかったが、ニケが慌てた反応を見るとどこかに置いてある気がしてならない。次にアイツの部屋に入る時には本気で探してみるか、と密かに思えた。

 「聞いてないよ、そんな情報」
 「ハハ! まぁオレも年頃のお前の部屋に足を踏み入れたりしないから安心しろよ」

すまんニケ。「これからは」って言葉を心の中で付け足しておくよ。

 「絶対入らないでよ」
 「おう! 当たり前だ」

上手く言い逃れた自分を褒め、バレそうな事を言った自分を叱った。喋り終えたオレたちは、少し休憩をしようとテレパシーを伝え合うように同じタイミングでコーンスープの入っているカップを手に取った。あまりにも同じタイミングだったからオレは思わず吹き出しそうになった。

 「そういや師匠。話は変わるんだけどさ」
 「ん? 何だ?」

ニケはそれに気づいていない様子で徐に口を開け、すでに冷えているそのカップを両手で丁寧に持ち上げながらオレを見つめている。オレもニケの目をじっと見つめ返した。

 「僕ってさ、いつから猫になってたの?」

ニケの見つめるその目はオレを問い詰めるようなそれではない。ただ、その事実を知りたいと思っている目だ。ニケとは長く一緒に住んでいるが、こんなに素朴な質問をされたのは今が初めてだ。いつかは聞かれる事だとは思っていた。それが今、急に来た。無理もない。猫になる事が出来る人間なんて極めて稀だろう。むしろ、ニケしかいないんじゃないか。まぁ世界は広いだろうからそう決めつけるのもよくない。オレは心の中でごちゃごちゃ考え出す前にニケには事実を伝えようと決めた。

 「ニケ。お前が6歳の頃にな、お前が今日も行っていたあの公園で会う2匹の猫と毎日遊んでたの覚えてないか?」

記憶を思い返すようにニケの目線は上を向いた。

 「え? 全然覚えてない。僕、そんな昔からあの2匹と会ってるの?」
 「それぐらいの頃にな、お前と初めてあの公園に行ってあの猫たちと会った日からお前は毎日のようにあの2匹と遊んでたんだぞ」

猫たちとサイズ感はあまり変わらなかったあの頃の小さなニケ。人間の6歳とは思えないくらい小さな体をしていたニケの遊び相手はいつもあの2匹だった。普段から笑わない子どもだったニケが、あの2匹といる時だけは綺麗すぎて可愛すぎる笑顔になっていた。オレはその顔が見たくて毎日、ニケとその公園に行っていた。

 「マジか……。僕、どうかしてんのかな。本当に何も覚えてないし信じられないんだけど」
 「無理もねえよ。10年ぐらい前の話だしな。その頃かな? この家で黒い猫を見るようになったのは」

目を丸くするニケは、その事実を受け入れられないと顔に書いてあるような素直な表情をしている。オレは当時の記憶を頭の中の引き出しから探り当てるように思い返す。

 「そんで、その黒猫を見ているうちはニケの姿を見つける事が出来なかった。この家にもいないし公園にもいないし、他の場所は見当もつかないオレは突然姿が見えなくなったお前を本気で心配した。ちょっとした騒ぎにもなってたんだぞ? 警察にも捜索願を出そうともしてた」
 「……」

オレの一言一句を聞き逃さないようにじっとオレの目を見つめているニケ。普段からこんなに目が合う事はないオレたちだから何だかとても新鮮な気持ちになった。

 「そしたらな、次に黒猫が寝ていたそこにあるソファを見る頃には、お前が気持ちよさそうに寝ていたんだ。黒猫が寝ていたときと全く同じポーズで寝てた。それでオレは確信した。この黒猫はニケだってな。この話も覚えてないか?」
 「全く覚えてない。師匠はそれだけで僕が黒猫になったと思ったんだ」
 「はは! ずいぶんな開き直りだな! けどそうだよ。ここの生活が嫌になって、どこかへオレの知らない所へ行ってしまったのかとか。それとも、悪い事を考えてる大人がお前を連れて行ってしまったんじゃないかとかな。オレは本気であの時色々考えてたよ。自分史上一番ネガティブな事を考えてた時期かもな!」
 「師匠、僕の事大好きじゃん」
 「うるせーよ」

バカにするようにオレを茶化すニケの笑顔には普段よりも自然なそれをオレに見せていた。つられるようにオレも口角が上がった。

 「そっか。でもなんかあれだね、僕って本当に不思議な生き物だよね。って今師匠の話聞いてて自分で思った。僕の両親、猫と人間のハーフだったりして」

今度は随分と寂しい表情で笑っている。久しぶりにこんなにたくさんのニケの表情を見る事が出来ている気がして、ニケには悪いがオレは嬉しくなってきた。

 「ニケ」
 「ん?」
 「お前はお前だよ。今、お前がこうしてオレの前で生きているのが全てだ。本当の親がどんなやつなんて関係ない。オレはいつだってお前を大切に想っているし、オレはこれから先、どんな事をするお前でも一番近くで見守ってるからな」

ニケには伝えておきたい。オレはこの瞬間、無性にそう思ってニケにそう伝えた。オレの言葉を受け取ったニケは、みるみる顔色が変わって涙を流しそうな表情になっていった。

 「師匠、死なないでね」
 「何でそうなるんだよ!」

漫才をしているかのようなスムーズなツッコミをニケに入れてしまった。ニケは続けて口を開けた。

 「何かそんな風に聞こえたから」
 「アホか! オレは100歳過ぎてもここでオーナーを続けてるわ! 名誉会長になってるわ!」
 「それなら僕の方が先に死んでそうだね」

少し不機嫌な顔のまま愛想の無い言い方でオレに返事をしたニケは、そのままソファに飛び乗って本を開いた。オレに対して背を向けるニケの後ろ姿をとても愛おしく思い、うつ伏せに寝転ぶニケを優しく抱きしめた。ニケの体は驚くようにびくっと反応した。

 「な、なに? 師匠」
 「うん? ちょっとだけこのままでいさせてくれ。オレの電池が切れかかってる」
 「し、しょうがないね。師匠、ほんとに死んじゃダメだからね?」
 「だから死なないって」

寝転びながら抱きつくオレの腕を疲れさせない為に、ニケは少しだけ体を浮かしてくれている。そういうところがこいつは本当に愛おしい。いつもより長い時間抱きしめたくなってなかなか離れないオレの我儘を、ニケは何も言わずに聞いてくれていた。今日は久しぶりに「良い日」だと思った。