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 それから半月もすると小鈴の顔色も少しずつ良くなってきていた。
「子供は回復が早いのう」と、養生所の瑞紹先生も驚いている。
「ありがとうございます」と、蘭玲は兄としてお礼を述べた。「食欲も出てきたようでわたくしも驚いております」
「それはなによりじゃ」
 だが、兄妹で喜んでいると、老師が小鈴の横顔を眺めながら思いがけないことを指摘した。
「そなた、目がよく見えておらぬであろう」
 こくりとうなずく妹の肩に手を置いて蘭玲は瞳をのぞき込んだ。
「そうなのか、小鈴」
「はい、おね……、お兄様。ぼんやりとしていて、近くのものしかはっきりと見えません」
 ――なんということだ。
 物を受け取る時に手が震えていたのは見えなかったからなのか。
 気づいてやれなかったなんて。
 心配をかけまいと、隠していたのだろう。
 蘭玲は申し訳なさに唇を噛んでいた。
「聞けばそなたたち、長いこと暗く狭いところで暮らしておったそうではないか。おそらくそれで視力が落ちたのであろう。目が見えなくなることはないが、不自由であろうな」
 瑞紹老師が薄い板を取り出した。
 よく見ると、針で開けたような穴がたくさんならんでいる。
「これを試してみるといい」
「なんですか、それは?」
「見ての通り、黒く塗った板に小さな穴を開けた物じゃ。だまされたと思ってこの穴をのぞいてみるが良い」
「わあ、お姉ちゃん、魔法みたい!」と、妹が歓声を上げた。「遠くの物もはっきりと見える。向こうの屋根の上に小鳥さんがいるね」
 瑞紹医師が微笑みながら視線を向ける。
 まさにちょうどその小鳥たちが飛び立っていくところだった。
「針穴の光術というてな、西域から伝わった物じゃ。どのような仕組みなのかはわしも分からぬが、見えることは間違いない。ひもで耳にかければ歩くときにも使えるが、見た目が不格好なのが難点じゃな」
 たしかに、何かの罰で目隠しをされているようにも見える。
 だが、妹にとって、これほどありがたい物はないだろう。
 瑞紹老師が兄妹の顔を交互に見ながら急に話を変える。
「体つきももっとふっくらとしてくれば、そろそろ月の物も来る年頃であろうが、そなたが教えてやれば心配あるまいな」
 見つめられた蘭玲が自分の顔を指さした。
「わたくしがでございますか?」
「そなたもあるのであろう?」
 蘭玲ははっと息をのんだ。
 小鈴もうつむいている。
 ――しまった、油断した。
 見えなかった物が見えるようになった驚きと喜びで、小鈴がつい『お姉ちゃん』と叫んだのを止められなかった。
 やはりいつまでもごまかし続けるのは無理だったか。
「ただのう……」と、瑞紹が笑みを浮かべた。「わしは歳のせいか耳が遠いようでな。何かの聞き間違いかもしれんのう」
 老師は何事もなかったかのようにたらいのお湯で手をすすいでいた。
 蘭玲にしてみると、明るみになってほっとしたのも正直なところだった。
 いちいち隠すのが面倒になってきていたのだ。
 そもそも、女の園の後宮に男として存在しなければならない方が矛盾といえる。
 問題は衛士として登用した皇帝にどう申し開きをするかだ。
 だまそうとしていたわけではないが、成り行き上、隠していたのも事実であって、おとがめを受けることになればせっかく治療を受けて回復してきた小鈴がかわいそうだ。
「そなたにも事情はあるだろうから、わしからはこれ以上何も言うことはない」
「今しばらく内緒でお願いします」と、蘭玲は頭を下げた。
「心配するでない。なるようにしかならぬし、なるようになる。病と同じじゃ」
「それでは医者はいらないではありませんか」
「それをよく分かっておるからわしは長いこと医者をやっておる」
 さすが名医と言うべきなのか、蘭玲は曖昧な笑みを浮かべつつ、小鈴を連れて診察室を出た。
 一難去ってまた一難。
 これだけでは終わらなかった。
 春鈴を呼び、小鈴を任せて先に行かせ、控え室で薬ができるのを待っていたところ、首筋を撫でるように隙間風が吹いた。
「もし」と、女の声がする。
 振り向くと、隣室に続く引き戸がほんの少しだけ開いていた。
「何か?」と、蘭玲は腰を上げて隙間の向こうに返答した。
「手を貸していただきたいのですが」
「かまいませんが……」
 戸を開けようとして、手が止まる。
 そういえば、自分は男姿だった。
 相手は女性だ。
 ここは後宮、当然問題になるだろう。
「申し訳ありません。ただいま、誰か人を呼んできます」
「いえ、いけませぬ」
「いや、しかし……」
「あなた様にお願いしたいのでございます。お力をお貸しくださいな」
 見た目が男だから力仕事を頼もうというのだろうか。
 時間を止めて相手を倒すことはできても、それほど力が強いわけではないのだが。
 まあ、重たい物を運ぶ用事なら、あらためて人を呼んできてもいいだろう。
「分かりました。わたくしで良ければお手伝いいたします」
 戸を開けて隣室へ入ると、そこには布団の上に女性が一人、簡素な衵衣をまとった姿で横たわっていた。
 相手は顔を背けていて表情が分からない。
「こちらへいらして」
 声は弱々しく震え、浮かせるようにかすかに手を挙げるだけでも苦しそうな様子だ。
「はあ、何用でございますか」
「どうぞこちらへ」
 蘭玲はかたわらに歩み寄って膝をついた。
「どうか、わたくしの手を握ってくださいな」と、左手だけ投げ出すようにこちらへ向ける。
 脈を診ろと言われても医者じゃないんだけどなと、戸惑いつつも、蘭玲は相手の言うとおり震える手を握ってやった。
「まあ、柔らかくてあたたかいのね」
 相手が右手を重ねて包み込むように撫で回すので思わず蘭玲は手を引っ込めた。
「なっ、何をなさるのですか」
「声を出してはいけません。男と女が二人きりになることは後宮では御法度ですよ」
 いや、まあ、その通りだが。
 呼んだのはそちらではないか。
 と、女が蘭玲を引き寄せるようにして体を起こしたかと思うと、いきなりしがみついてきた。
 思いがけない出来事に動揺して、時を止める余裕もなく蘭玲は押し倒されていた。
 ――いったい何を?
 声を上げそうになるのをこらえて相手の顔をよく見ると、切れ長の目に見覚えがあった。
「あ、あなた様はもしや……、お妃様」
「そう、わたくしは峰華。あなたに心奪われた哀れな女ですわ。どうか心だけでなくすべてを奪ってくださいな」
 いや、奪うも何も押さえつけられてるのはこっちなんですけど。
「わたくしの病を治してくださいな」と、熱い目で女がすがりつく。「息が苦しくて、心の臓は破裂しそうですの。何より心が切なくて」
「いや、あの、私は医者じゃないので。瑞紹先生を呼んできます」
「あんなおじいさんじゃだめ。あなたにしか治せませんわ」
 なんでよ?
「恋の病ですもの」
「それはなるようにしかなりません」
 名医の受け売りで切り抜けようとしても相手には通用しない。
「一度きりでいいのです。一度でいいから身も心も焦がれるような恋をしてみたいのです。お願いですから、わたくしに本当の女の喜びを教えてもらえませんか」
 思わず顔が熱くなる。
 ――そんなの私だって知りませんよ!
 蘭玲はようやく時を止めた。
 ひどく上気して鼻に汗も浮かんでいる女の腕から離れて時を戻す。
 抱きしめようとして空振りした峰華が転げるように床に手をつく。
「あら、いったい……」
 峰華はなおも諦めず、逃げようとする蘭玲の裾に手を伸ばしてくる。
「いけません、お妃様」
「いいえ、わたくしとともに桃源郷の熟れた果実にまみれるような快楽を、いえ、いっそかなわぬ恋なら地獄の果てまでもろともに」
「それはご勘弁を」
 蘭玲は再び時を止めて外縁廊下へ転げ出ると、後ろ手に戸を閉めて時を戻した。
「おや、嵐雲殿、こちらでしたか」と、助手の薬師が小鈴の薬を持ってきてくれる。
「ああ、どうも」と、受け取るやいなや、蘭玲は時を止める余裕もなくあたふたと逃げ出した。
 一人残された峰華は袖を噛んでいた。
「なんと、つれない御方」
 でも……、と、口元にゆがんだ笑みが浮かぶ。
「素敵なあの身のこなし。焦らされるのもまたかぐわしい恋の香辛料ですわ。」
 久しく自分が皇帝に焦らされていることなど忘れたかのように、峰華は次の計略に思いを巡らせるのだった。