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 景旬殿から敬和宮への廊下を渡っていく女御の名は峰華、歳は十七である。
 建国の礎となった重臣を祖とする名門貴族を出自とし、正皇后の決まっていない後宮では序列第一位の妃で、後宮内でも一番格式の高い敬和宮に居室を与えられている。
 しかし、その序列は名ばかりで、新帝は後宮へ足を運ぶことがほとんどなく、皇太子時代に顔合わせとお手つきのあった者数名が暫定的に妃としての身分を与えられているに過ぎなかった。
 そんな峰華はさきほどから胸のときめきを抑えることができずにいた。
 景旬殿で見かけたあの若者のせいだ。
 無骨で粗野な衛士とは思えぬ優美さをたたえた男が彼女の心を射貫いたのだ。
 木漏れ日のようにきらめく髪。
 吸い込まれるような深い瞳の色。
 堂々と自信に満ちあふれた態度なのに、どこか強がっているようなあのお声。
 一目見たその時から体が火照りだし、呼吸が浅く荒くなるほどに動揺してしまった。
 ――もう一度お会いしたいものだわ。
 だが、名ばかりとはいえ妃たる身分ともなると、自らの居館である敬和宮の中ならともかく、他の建物へは大勢のお供を連れていかなければならない。
 それはすでに一つの宮廷行事であり、何の用もなく気軽に遊びに行くわけにはいかないのだ。
 居室でくつろぐときですら高位の女官以下数名が常に脇に控え、外の廊下にはそんな女官たちから伝えられるどんなお役目にも即応できるように侍女たちが並んでいる。
 お忍びで抜け出すことなど、不可能であった。
 ――籠の鳥じゃあるまいし。
 ホント、馬鹿みたい。
 幼い頃から妃候補として養育され、皇太子時代の玄龍付きとして十二歳で後宮入りした峰華は、感情を外に出さず心の中で毒づくことに慣れていた。
 ああ、今すぐお会いしたいのに……。
 皇太子を産むことがかなわぬのなら、禁断の恋に身も心も焼かれてしまいたい。
 もちろん、後宮の女が皇帝以外の男と通じるなど、国家を揺るがす一大事であり、たとえ重臣の家系であろうと、一族みな処刑、過去に遡っての名誉剥奪は免れない。
 しかし、だからこそ、禁断の恋は西域から伝わる香辛料のように刺激的な匂いを漂わせ、峰華の心を余計に燃え上がらせるのだった。
 峰華は気を紛らわせようと、外縁廊下から夕日に映える敬和宮の庭園を眺めていた。
 そんなときですら、女官たちが全員廊下へ付き従ってくるのが煩わしい。
 昨日までとなんら変わらぬ風景のはずなのに、気持ちはまるで落ち着かない。
 風に揺れる枝のざわめきが心を惑わせ、色を失っていく天上の薄闇に希望のはかなさを思い知らされているようで涙をこぼさずにはいられない。
 押さえようとしても切なさが顔をのぞかせ、飲み込もうとしても苦い気持ちがこみ上げてくる。
 自分の胸の内にもこんな感情が隠れていたなんて、今まで知らずに生きていた。
 と、ふと、塀の向こうの承和殿に、幻を見たような気がした。
 ――まさか、あれは……。
 外縁廊下を歩いているのはあの御方では?
 思わず笑みが浮かんだものの、むなしく首を振る。
 わたくしとしたことが、いやですわ、後宮に殿方などいるわけが……。
 だがしかし、思いが強すぎて揺れる灯籠の明かりすらも人影に見えてしまったかと、今一度目をこらしてみれば、松の枝越しに見えたのは間違いなくあの嵐雲という衛士の姿であった。
 ――そんな……。
 まさか、嘘でしょう。
 どうしてあの御方が承和殿に……。
 男は隅の小部屋の戸を開けて中で待つ誰かに笑顔で声をかけているようだった。
 入れ替わりに丸顔の侍女が出てくる。
 ――まさか、密会!?
 わたくしを差し置いて何という破廉恥な。
 どうせなら、わたくしと……。
 たちまち体が震え出す。
 戸が閉まるのを見据えたまま峰華は廊下に控えた女官に命じた。
「あの侍女を呼びなさい」
「ど、どちらでございますか?」と、居並ぶ女官たちがみな一斉に立ち上がる。
「あれよ、承和殿の廊下にいるあの丸顔の女」
 かかとを上げて飛び跳ねるように塀の向こうを指さしてみせるうちにも侍女の姿が廊下の角へと隠れてしまう。
「ああ、もう、見えなくなってしまったではありませんか」
「は、はあ……」
「ぼんやりしてないで早く行くのです。誰か分からなければ、承和殿の侍女を全員ここへ呼んできなさい」
 峰華に叱られた女官たちは侍女を引き連れて一斉に駆け出していく。
 ――まったく。
 これだけの人数がいて何の役にも立たないんだから。
 居室に戻って待っていると、しばらくして丸顔の侍女ばかり十数名が連れてこられた。
 みな何事かと縮こまって平伏している。
「その方どもに、たずねたいことがあります」
「はい、なんでございましょうか」と、一番年長の侍女が平伏したまま応じた。
 峰華は軽く咳払いをしてたずねた。
「さきほど承和殿にいた衛士は何者ですか」
 みなが顔を見合わせる中、一人だけ肩を起こした者がいた。
 春鈴である。
「恐れながら、嵐雲様のことでございましょうか」
 名前は知っていたから大当たりと小躍りしたいところだったが、そのようなはしたないまねはできない。
 峰華は唇を噛んでこらえ、努めて平静を装いながら再度たずねた。
「ああ、おそらくその者かもしれませんね。なにゆえに後宮に男子がいるのですか」
「嵐雲様は病気の妹さんの付き添いとして一緒に滞在することを許可されているのだそうでございます」
 密会ではなかったのか。
 思わず頬が緩みそうになるのを引き締める。
「妹ですか」と、峰華は声を抑えつつ身を乗り出した。「歳は?」
「存じ上げませぬが、まだ十かそこらかと」
「なるほど。下がってよろしい」
 春鈴以下承和殿の侍女が退出するのと入れ替えに、峰華は控えている女官たちに指示を与えた。
「わたくしが実家から持ってきた幼きおりの衣装を持ってきなさい」
 唐突な命令に女官たちは露骨に戸惑いの表情を浮かべていた。
 すでに日は落ちて、燈火をともした室内ですら暗い。
 まして倉庫内は火気厳禁とされている。
 気まぐれ娘の無茶ぶりもいいところだ。
「今から、すべてでございますか」と、女官の声も不満の色を隠しきれない。
「聞こえているなら早くなさい」
「申し訳ございません。ただちに」
 敬和宮はにわかにあわただしくなった。
 夕餉の支度もしなければならず、女官たちは殺気立ち、侍女どもは叱責を恐れてかえって動揺するばかりである。
 一人のんびりと夕食を済ませた峰華の前に、保管されていた衣装が並べられていく。
「こちらはいかがでしょうか」
 年配の女官が桃の花文様をちりばめた上衣と裳を差し出す。
 暗くなった室内ですら昼のように華やぐほどのあでやかさだ。
「ああ、いいわね。これに合う肩掛けはあるのかしら」
「はい、こちらに」と、ふんわりと重ねられたのは若草色の披帛であった。
「あら、懐かしいわね」
 後宮入りして間もない頃、敬和宮でおこなわれた花見のおりに身につけたことを思い出す。
 あの頃は五年後の自分がこのような境遇になるとは思ってもみなかったものだ。
 とっくに皇太子を産んで国の母としてあがめられていたはずなのに。
 運命がそれてゆくのなら、自らたぐり寄せるべきなのだ。
 うふふ、わたくしもあの御方とお花見をしてみたいものですわ。
「では、これを先ほどの衛士の妹御に下げ渡しなさい」
「な、なにゆえにございますか」
 女官たちがみな呆然と峰華を見ている。
「病気見舞いに決まっているでしょう」
 そんな理屈が通るわけもないことは分かっている。
 後宮は皇帝の家庭である。
 妃ともあろう者が末端の一衛士に過ぎない男の家族に衣装を下げ渡すなどありえないことだ。
 だが、峰華は有無を言わせず押し通すつもりでいた。
 いきなり本人と接点を持つのは難しい。
 だから、将を射んと欲すればまず馬からだ。
 妹を喜ばせることができれば、兄としてお礼に来ることも考えられる。
 遠慮して来なければ、それはそれで呼びつける口実にもなる。
 どちらにしろ、会うことがかなうのだ。
 ――おほほ、なかなかの策士ですわ、わたくし。
 峰華は一同に慈愛に満ちた微笑みを振りまいたつもりだったが、燭台の炎に浮かび上がるその表情は妖怪そのもので、居並ぶ女官たちは恐れおののき、顔を上げる者は一人もいないのであった。