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蘭玲の身柄は新人衛士嵐雲として後宮の女官に引き渡され、小鈴とは療養所で再会できた。
「栄養が足りぬゆえ、病も長く居座ったのじゃな」と、瑞紹老師が薬包の束を差し出した。「時間はかかるが回復するであろう。焦らず養生するが良い」
「先生、ありがとうございます」
瑞紹老師は後宮の療養所を束ねる医者である。
当代一の名医に診てもらえるという約束は本当だったようだ。
「ではこちらへ」と、稲妻のように幾重にも折り重なった廊下を侍女に案内されてやってきたのは、後宮の隅にある承和殿という建物の小部屋だった。
北側で日当たりは悪いが、それでも家畜小屋よりは広いし、なによりも柔らかな布団に、かまどの熱を使った床暖房まであって、二人にとっては極楽のようであった。
おまけに食事まで保証されている。
「そんなに豪華な物は出ないけどね」と、丸顔で肌艶の良い侍女が笑う。
それでも薄い粥に比べたらごちそうには違いない。
侍女は妹専属で世話をしてくれるという。
「私は春鈴、あなたは小鈴。私たち姉妹みたいね」
はにかむ妹の頭を撫でながら蘭玲は頭を下げた。
「どうか妹のことをよろしく頼む」
「はい。お兄様のためにも全力でお世話いたします」
蘭玲を見る春鈴の目つきが艶っぽくて気になるが、話し好きで、おとなしい小鈴にはちょうど良い相手のようだった。
茶を一杯味わったところで、蘭玲のもとへ衛士隊長から使いが来た。
「やれやれ、仕事か」
「おね……」と、言いかけた妹の口に指を立てる。
「あ、ええと……、お兄様、行ってらっしゃいませ」
「ああ、ゆっくりと休んでいるんだぞ」
腹の底からわざとらしいほど低い声を絞り出して部屋を出てきたものの、いつ素性が明らかになるかと心配でしょうがない。
承和殿から渡り廊下を通って景旬殿という建物へ行くと、そこの庭は小ぶりな楼門に面していた。
後宮と外部を分ける弘化門だ。
衛士たちは門の周辺に立っているが、一人だけ景旬殿の外縁廊下に立って全体を見回している鎧武者がいた。
「お、新人か」と、声をかけてきたその男は大柄で壁のように横幅も広い。
「はい、呼び出されたので参りました」
「御前試合で良いところを見せたそうだが、ここでは新人だ。調子に乗るんじゃないぞ」
――なんだか面倒くさそうな人だ。
「おい、おまえ、今面倒くさいと思ったな」
「なっ、なんで……」
「べつに異能ではない」と、鎧武者の口元に笑みが浮かぶ。「俺は顔色を読むことに長けているだけだ」
なんだ、それだけか。
「それだけとはなんだ。相手の顔色を読めば次に繰り出してくる技を予想できる。だから俺は一騎打ちでは負け知らずで、こうして衛士長を仰せつかっているのだ」
どうやらこの面倒な男がここの責任者ということらしい。
「なるほどそうですか。新人で至らぬこともあるかと思いますが、よろしくお願いします」
「まあいいだろう。至らぬ時は命を投げ出せ。分かったか」
と、言われても、妹のためにも死ぬわけにはいかない。
だが、そんなことを少しでも思い浮かべれば心を読み取られてしまうのだろう。
蘭玲は余計なことを考えないことに決めた。
「分かりました。命を賭けておつとめいたします」
「よぅし、良い返事だ」
本音と建て前を使い分ければ問題なさそうだった。
衛士長は自分が持っていた三尖両刃刀を蘭玲に差し出した。
「おまえは見込みがあるようだ。気に入ったぞ。これをやろう」
「はあ」
「俺は衛士長の浩然」と、男が勝手に手を握ってきた。「おまえは?」
「はい、嵐雲であります」
じっとりと汗ばんだ男の手が気持ち悪いが、表情を読み取られないように虚無の心でこらえる。
と、そこへ先触れとして二人組の女官がやってきた。
「お妃様のお成りであーる。みなの者ぉーぅ、お控えなされーい」
独特な抑揚に思わず笑いそうになってしまう。
「馬鹿野郎、早く下りろ」と、浩然にそのまま手を引っ張られて、危うく外縁廊下から転げ落ちそうになる。
「何事でございますか」
「俺たち男はお妃様と決して目を合わせてはならないのが後宮の掟だ。それを破れば自分だけでなく一族みな処刑される。だからお妃様がお通りになるときは武器を背中に回して地面にひざまずくのが俺たち衛士の作法だ」
蘭玲は浩然のやり方をまねて湿った土の上にひざまずいた。
頭を下げたまま周囲を見回せば、反対側の楼門にいる兵士までがみな同様にひざまずいていた。
頭の上で衣擦れの音が幾重にも連なって通り過ぎていく。
と、なぜか蘭玲の前で行列が止まった。
「そこの者、面を上げなさい」と、澄んだ声が降りてきた。
目を合わせれば死罪と言われたばかりの蘭玲はどうしたものかと動けずにいた。
「そなたです」と、再び声がする。「構いません、面を上げなさい」
戸惑っている蘭玲のそばにおつきの女官が階段を下りてきてささやく。
「お妃様のご命令です。早く面を上げなさい」
「しかし、その……、死罪では?」
「後宮では身分の高いお方のご命令は絶対です」
「はあ」と、蘭玲は三尖両刃刀を背中に回したまま顔を上げた。
外縁廊下にいるのは、銀糸で鶴の刺繍が施された薄桃色の上衣をまとった女御だった。
体は廊下の先へ向けたまま、切れ長の目だけを投げかけてこちらを見下ろしている。
「その方、見かけない顔ですが、新しい人かしら?」
「はい」
「名は?」
「嵐雲と申します」
「そう」
女御はうなずくと視線を戻した。
と、同時に一同が一斉に動き出す。
何人いるのか分からないほどのお付きの者を従えながらお妃様が去っていき、静かになった景旬殿の庭には衛士たちのため息がこぼれた。
――ああ、やってられないや。
「馬鹿者」と、浩然が立ち上がる。「これが俺たちの仕事だ。誇りを持って任務に当たれ」
「はい、かしこまりました」
「よぅし、良い返事だ」
浩然は蘭玲の尻をはたいて笑いながら去っていった。
――あの野郎。
背中に毛虫を入れられたみたいに気色悪い。
思わず後ろ姿に向かって舌を出したが、衛士長は振り向くことがなかった。
どうやら、顔を見られなければ心を読み取られる心配もないらしい。
案外単純なものかもな。
幸いなことに、衛士としての仕事は難しいものではなかった。
後宮と外部との往来は指定の商人や人夫に限られ、身元のはっきりしない者は排除される。
身元の確認は官僚がおこなうことになっており、衛士はただ怖い表情を崩さずに見張っていれば良いだけだった。
楼門の上を綿雲が流れていく。
――饅頭売りより退屈だな。
蘭玲は早くも後宮のしきたりになじんだようだった。