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 一年後、街の療養所から木刀を腰に差した役人風の若い男と、その妻らしき女が出てきた。
「じゃあまたね、お姉ちゃん」と、少女が手を振る。「体を冷やさないように気をつけてね」
「ありがとう。しっかり先生のお手伝いに励んでね」
 男と女は手を握り合って昼下がりの都の大路を宮城へ向かって歩いていく。
 威勢の良い物売りに混じって異国の言葉も飛び交う市場には物と人々の笑顔があふれている。
「やーい、ここまでおいで!」
 両手に饅頭を持った小僧が後ろを向きながら路地から駆け出してくる。
「おっと、前を見ろよ」
 と、ぶつかる瞬間、子供の動きが止まった。
 男は妻に笑みを向けた。
「なんだ、時を止めたのか」
「だって、私にぶつかってきたら危ないですもの」
 手を離した妻はふっくらとしてきたおなかをさすりながら一歩退いた。
 次の瞬間、時が動く。
 後ろを向いたままの子供が男とぶつかった。
「おじさん、ごめんね」
「おじさんはないだろ」
 そんな男の抗議など無視して子供たちが駆けていく。
 後に残された男の手には饅頭が一つのっていた。
「あら、いつの間に取り上げたんですか」
「わんぱく小僧どもにちょっとしたお仕置きだ」
 男の指にはまった碧玉の指輪が日差しを受けて輝いている。
「かわいそうですよ」
「そうか?」と、饅頭を口に入れたとたん男は顔をしかめた。「あんまりうまくないな。そなたの作った饅頭の方がうまい」
「そういうことではありませんでしょうに」
 妻は夫の腰のあたりを指さした。
 ベッタリとあんこがくっついている。
「あ、やられた」
「ほぅら、天は常に見ているのですよ」と、妻が微笑む。
「なるほどな」と、男も快活に笑った。「天に代わって世を治める者も常に謙虚でなければいかんか」
「でも、子供たちが両手に饅頭を持って走り回れる世の中は悪いものではありませんね」
 しみじみと実感のこもった妻の言葉に夫がうなずいた。
「そうだな。手が塞がっておれば財布を掏り取ることもできぬだろうし」
「衣食足りて礼節を知る、ですね」
「古人の教えはありがたきものよ」
 夫の肩にもたれながら妻がささやく。
「陛下にはご機嫌麗しゅう」
「まったく、本日も天下太平なりだな」
 二人の姿が街を行き交う人の波に紛れていく。
 都の青空には、蒸し上がったばかりの饅頭みたいな綿雲がぽっかりと浮かんでいた。