「なるほど」
玲燕は頷く。
「酒が盛られたのは黄様と陛下のふたりでしたね。毒入りの酒が注がれた、もうひとつの銀杯はどれですか」
「目の前にあるではないか」
天佑は玲燕の前に置かれた銀杯を指さす。玲燕はそれを見て、首を横に振った。
「いいえ、違うと思います。これとは別に、もうひとつあると思うのですが」
「いや。これしかない」
「これしか?」
玲燕は眉根を寄せる。
天佑の指さした銀杯は、美しい輝きを保っていた。けれど、もしも砒霜を入れた酒を満たしたなら、銀は錆びるはずなのだ。
「それは、すぐに黄殿が気付いて銀杯を叩き落としたせいで、中の酒が全て零れてしまったせいではないか?」
「中の酒が全て零れてしまったせい……」
そうだろうか。玲燕は少し考え、首を横に振る。
たとえ零れたにしても、全ての酒が銀杯から綺麗に拭い去られるわけではない。必ず、どこかに錆が出るはずだ。
「やはり、違うと思います」
「すり替えられたということか?」
天佑は腕を組む。
「ここは普段、ごく限られた関係者しか入れない」
「そうですか……」
玲燕は入り口にかかっていた鍵を見る。鉄製のしっかりした物で、そう簡単には壊れそうにない。
(その、ごく限られた関係者がすり替えたってこと?)
一体誰が、なんのために?
謎を解くはずが新たな謎に直面し、玲燕は戸惑う。
「ここの鍵を借りた者を調べていただいてもいいでしょうか?」
「もちろんだ。すぐに作成する」
天佑は頷く。
玲燕はもう一度、ふたつの酒杯を見た。
何か重大な事実を見逃しているような気がしてならなかった。
倉庫を出ると、天佑に「そろそろ午後の茶菓が届く時間だが、執務室に寄っていくか?」と聞かれた。
「茶菓? 是非!」
後宮で出される茶菓も美味しいが、皇城で高位官吏達に出される茶菓もとても美味しいのだ。
目を輝かせる玲燕を見て、天佑は頬を緩める。
「玲燕は、最初に比べて表情豊かになったな」
「……そうですか?」
「全く笑わなかった」
「…………」
そうだろうか。そうだったかもしれない。
天佑に出会ったあの頃は、頼れる人もなく、信じているものを周りからまがい物だと言われ、お金もなく、色々な物に諦めの気持ちを持っていたから。
「笑顔が出るようになってよかったよ」
「……それはどうも」
気に掛けてくれていたのだろうか。
胸がむずがゆいような、不思議な感覚がする。
「あ、そういえば」
なんだか気恥ずかしく感じ、玲燕は話題を変える。
「天佑様は光琳学士院にいらしたのですね。先ほど、書庫で昔の人事配置表を見ました。どんな研究を?」
玲燕は天佑の横顔を窺う。
(あれ?)
一瞬強ばったように見えたのは気のせいだろうか。
「忘れた」
「忘れた? 全部?」
「体調を崩してから、記憶が曖昧なんだ」
「体調を……」
確か以前一緒に礼部を訪れた際、天佑は旧友である李雲流から体調を気遣われていた。彼がシンパ下のと同じ体調不良だろうか?
「それは……、今は大丈夫ですか?」
「ああ。だが、毎日が忙しすぎる」
「それはそうでしょうね……」
ひとつの役職であっても目が回る忙しさのはずなのに、ひとり二役しているのだから忙しいのは当たり前だ。
「では、しっかりと休憩しないと。茶菓を食べましょう!」
「そうだな」
ぐっと胸元で力こぶを作った玲燕を見て、天佑が笑う。
その表情が少し寂しげに陰ったことには、とうとう気がつかなかった。
◆ 第六章 後宮の闇を解く
器の中にお湯が注がれる。丸い茶葉がゆっくりと広がり、中から飛び出した可愛らしい花がまるで咲いているように見えた。
「うわあ、すごい! 可愛いわ」
蓮妃が興奮気味に器の中を見つめ、すんと鼻から息を吸い込む。
「それに、とてもいい香り」
「お気に召していただけて嬉しく思います。実家から取り寄せたものなのです。おふたりをご招待した甲斐があります」
今日の茶話会の主宰である蘭妃はにっこりと微笑んだ。
(皇都にはいろんなお茶があるのね)
玲燕もまた、初めて見るその飲み物を興味深げに見つめる。工芸茶というらしいが、田舎である東明では飲んだことはおろか、存在すら知られていなかったように思う。
「今日は、暖かいですね」
玲燕は外を眺める。
まだまだ冷え込む日が多いが、着実に春は近づいてきている。
「もうすぐ梅が咲くかしら?」
蓮妃も外を見る。
「実家にいる頃は梅の季節になると、いつも両親と梅園を見に行ったの。たくさんの梅の花が咲いていてとても綺麗なのよ」
「梅の木なら、梅妃様のいらっしゃる梅林殿にたくさんあるはずだけど──」
蘭妃はそう答えながら、顔をしかめる。
(相変わらず、蘭妃様と梅妃様は仲が悪いのね)
玲燕は苦笑する。
そういえば、作業人が梅妃の逆鱗に触れて井戸の輪軸の工事を請け負う業者が黄家の関連の業者に総入れ替えになった際も、蘭妃のいる香蘭殿だけは元の業者でよいと断ったと聞いた。
「去年、桃妃様にそれを伝えたら、『梅の花ではありませんが、わたくしの殿舎では桃の花が見頃なので見に来てください』ってご招待してくださったの。桃の花も、すごく綺麗だった」
蓮妃はそこまで言って、表情を暗くする。
「桃妃様はお元気かしら? あの事件のあとから、お姿をお見かけしていないわ」
「時折、内侍省の者達や女官達が出入りしているのを見かけますから、きっとお元気ですよ」
蘭妃は落ち込む蓮妃を励ますように、声をかける。
(なんかこのおふたり、姉妹みたいね)
十二歳の蓮妃に対し、蘭妃は十七歳のはず。歳の差も、ちょうど姉妹のように見える原因だろう。
「わたくしもそう思うんだけど、雪が桃林殿に医官らしき人が出入りしているのを見たって」
「医官?」
玲燕は蓮妃の話に興味を持つ。
「ええ。かなり遠目だったから確証はないみたいなのだけど、以前医官として後宮に来た方に似た人が殿舎から出てくるのをみたらしいの」
「他人の空似ということは?」
「あり得るわ」
蓮妃は肩を竦める。
(医官……。以前も体調を崩されたみたいだけれど、まだ体調が優れないのかしら……)
天佑に聞いても、桃妃については心配しなくていいと言うだけなので様子がよくわからないのだ。
桃佳殿に外から見える大きな動きはないので、きっと大病ではないと思うが──。
「蘭妃様。本日約束していた商人がいらしております」
部屋の隅に控えていた女官が蘭妃に耳打ちするのが聞こえた。
「えっ、もう? 思ったより早いわね」
蘭妃が慌てたような様子を見せる。きっと、元々していた約束より商人が早く到着してしまったのだろう。
「蘭妃様、私はそろそろお暇します」
玲燕は蘭妃が気をつかわないように、自分から暇(いとま)を申し出た。すると、蓮妃もその意図を汲み取ったようで「そういえば、今日は雪と約束があったような──」と言って立ち上がる。
「おふたりとも、申し訳ございません」
蘭妃は恐縮したように身を縮める。
「いえ、気になさらないでください。楽しかったです」
玲燕と蓮妃は微笑み、それぞれの殿舎へと戻ることにした。
回廊を歩いていると、前方から盆に茶菓を載せてを運んでいる女官が近づいてくるのが見えた。自身の殿舎へと、主の茶菓を運んでいるのだろう。
(もう、そんな時間なのね)
今さっき蘭妃にお茶と菓子をしたばかりなのだけど、それでも今日のおやつはなんだろうとわくわくしてしまう。すれ違いざまちらりとのぞき見ると、柑橘を切ったものが載せられいる。
ひらりと揺れる女官の裙の裾に、桜の刺繍が見える。
(柑橘! さっぱりしていてちょうどいいわ)
菊花殿に戻ると、今まさに茶菓を取りに行って戻ってきた鈴々と遭遇する。
「あら、玲燕様。ちょうどよかった」
鈴々は玲燕の顔を見るやいなや、笑顔を見せる。
「何がちょうどよかったの?」
「本日の茶菓は蒸し饅頭ですので。温かいうちにお召し上がりくださいませ」
「蒸し饅頭? 柑橘ではなく?」
「柑橘?」
逆に鈴々に不思議そうな顔をされてしまった。
「さっき、他の殿舎の女官が茶菓に柑橘を運んでいるのを見かけたの。茶菓って、殿舎によって違うのかしら?」
「いえ。全部同じです。尚食局(しょうしょくきょく)が全て用意しますので」
「そうよね……」
先ほど見えた、桜の刺繍。あれは、桃林殿の女官だ。
「もしかして、用意されたものでは足りずに追加で頼んだのかもしれません。私も頼んできましょうか?」
柑橘がないことを不服に思っていると勘違いした鈴々が、立ち上がろうとする。
それを玲燕は「大丈夫!」と慌てて止めた。
さっきも香蘭殿で茶菓を食べたばかりなのに、さすがに食べ過ぎだ。
「いただきます」
鈴々が持ってきてくれた蒸し饅頭をかじる。
口の中に、餡の甘さが広がった。
軽食後、玲燕はせっかく空いた時間を有効活用しようと、光琳学士院の書庫に行くことにした。先日天佑から言質は取ったので、いつ行ってもいいはずだ。
「鈴々。少し留守にするわ」
「はい。承知しました」
すっかり慣れてしまったようで、鈴々は笑顔で玲燕を送り出してくれた。
玲燕は秘密通路を通り、こっそりと光琳学士院の書庫へと忍び込む。いつもと同じ、古い紙や竹、それに墨の匂いが鼻孔をくすぐる。
「今日は何を読もうかしら?」
こんなにたくさんの書物を読み放題になったことは初めてなので、目移りしてしまう。書架を眺めたり、たまたま目に付いた竹簡を見たりしていた玲燕は、ふと目を留めた。
「これは、光琳学士院に相談された案件の記録ね?」
光琳学士院は、様々な学術的な相談を受ける。表紙に年号が書かれたその書物は、年ごとにどんな依頼を受けたかを子細に記録してあった。
興味が湧いて、玲燕はその表紙を捲る。依頼を受けた案件の内容と共に、この案件を受けた日や光琳学士院の誰が担当したかなどが記載されていた。
「どれどれ……」
最初に目に入った相談は移動に使用される馬具を、より馬に負担を掛けずに効率的に力を伝達するものに改良できないかという相談だった。
「へえ」
読んでいて、思わず感嘆の声が漏れる。