美麗様の沙汰について話が一段落した。
その余韻に浸っていると、帷様がパシンと手にした扇子を開く。仕切り直しといった感じに立てられたその音で、自然と座敷にいる者の視線が帷様に集まる。
「ところでそなたに、一つ頼みがあるのだが」
「はい、何なりと」
私は了承を示すため、頭を軽く下げる。
「お前は祝言をあげる気はないか?」
「え?」
思わず顔をあげる。すると帷様は真剣な眼差しで、私の目を真っ直ぐに見据えていた。
しかし、あまりに唐突すぎて意味不明だ。
(それに一体誰と?)
大事な部分を省略した帷様に対し、思わず首を傾げるしかない状況だ。
「えっと……?」
「私が申しておるのは、私の妾になって欲しいという事だ」
「……!」
ようやく帷様の言葉の意味を理解し、私は息を飲む。
(め、め、妾?!)
「な、何故、きゅ、急にそんなことを仰るのですか」
驚き過ぎて上手く声が出せない。
「そなたは先日、側室になると申し出てくれたではないか。あれは嘘だったのか」
帷様が愉快さ溢れるといった表情で、とんでもない事を口にした。
「琴葉、お前はそんな約束をしたのか!」
父がまるで私に軽蔑するような、怒ったような鋭い眼差しを寄越す。
「琴葉……お前ってやつはッ!」
背後から、兄の呆れた声が私の背に槍のように突き刺さる。
「そ、そんなお約束した覚えはありません!!」
私は慌てて弁明する。
「では今改めて申し込むぞ。良いか?」
「良いわけありません」
「なんだ、つまらぬな」
帷様が不服そうな表情を浮かべる。
けれど明らかに私をからかって楽しんでいる様子だ。
(出来れば、家族の前ではやめて欲しいのだけれど)
悪ノリする帷様に私はため息を付きそうになるが堪える。
ここで文句を口にすれば最後、父から「無礼だ」と叱られると悟ったからだ。
「そもそも公方様は私にまつわる事情をご存知のはずです」
長局にいる時、もう何度も私の事情については説明した気がする。
そして、帷様も時に自分の事であるかのように、理解してくれていたはずだ。
私は「思い出して下さい」と帷様を見つめる視線に願いを込める。
「はて、何のことであろう」
帷様は素知らぬフリをした。
(チッ)
不敬承知。思わず心で舌打ちしてしまう。
そもそも長局で帷様がご乱心なさった時に、そういう関係になることはないと、私はきちんと理由を説明し断ったはずだ。
(しばらく武士っぽく、行儀良い人になってたと思ってたのに)
再度ぶり返すような事をする帷様の行動に幻滅する気持ちを抑えられない。
「とてもありがたい申し出ですが、私には荷が重すぎますので、辞退させて頂きます」
至極丁寧に、しかししっかりと断りを入れる。
「お主は私を好いてはおらんのか?」
「……この国を支える公方様として敬愛しておりますが、妾にはなれません」
「敬愛の気持ちも愛情の一種ではないか」
「でも私は《《今みたいな》》公方様とは無理です」
私ははっきりと意思表示する。
そんな私を見て、帷様はニヤリと口元を緩ませる。
(というか、まるで私の知っている帷様じゃないみたい。私はこんな変な人をお慕いしていたの?)
私はついに自分にも幻滅する気持ちになった。
どうやら江戸城内には、公方様を三倍くらい素敵に思えるまやかしの術がかけられていたようだ。
江戸城から飛び出した帷様は、私好みのどこか陰な気も発してないし、誠実さのかけらも感じない。それどころか、意地悪くこの状況を楽しんでいるような、何処かふざけた雰囲気だ。
(私のお慕いしていた帷様を返してよ……)
そう願い、膝に置いた両手を強く握る。
すると突然、私の手を大きな手が包み込んだ。
「大丈夫だ、琴葉。案ずるでない」
いつの間に移動したのか、ものすごい至近距離で帷様が私を見つめていた。
「とば……公方様?」
手を取られたまま、思わずのけぞる。
「公方様、勘弁してやって下さい」
厳たる口調で、父が帷様を嗜める。
その声を聞きながら、私は帷様から漂う香りが、いつもの帷様と違う事に気付く。
(帷様はいつもほのかに甘さを含むような、そんな優しい香りがしたはず)
けれど目の前にいる帷様からはもう少し重厚で気品漂うような、そんな香りがした。
(それにこのつるりとした手)
帷様が箸を持つ手は、もう少しゴツゴツとしていて、手の平には赤くなった剣だこがいくつかあったはずだ。
(それに、どうしても受け入れられない、この人が醸し出す陽の雰囲気)
私は顔をあげ、間近にある帷様の顔を見つめる。
「公方様」
「なんだ?」
私の呼びかけにニコリと微笑む帷様。
(あぁ、やっぱり違う)
私は確信する。
何故なら帷様は公方様と私に呼ばれる事を嫌っていた。だから私がその呼び名を口にするとほんの僅か、眉間に皺を寄せるのだ。
けれど今目の前にいる帷様は、眉間に皺を寄せるどころか、私に満面の笑みを返している。
(だとすると、この人は……)
私は帷様そっくりな偽物にしっかりと視線を合わせる。
「あなたは誰なのですか?」
私が問いかけると、偽物の帷様は一言。
「合格だ」
今までの意地悪な笑みを消し去り、とても美しく口角を上げた。そして私から手を離すと、いそいそと上座に戻る。
そして背筋をピンと伸ばすと改めてと言った感じで口を開いた。
「私は桃源国第二十五代征夷大将軍、東雲光晴である」
目の前の帷様そっくりな男性は、今までの柔らかい雰囲気を消し飛ばし、威厳ある声で告げた。
「私の名が正真正銘、その名であること。それはこちらにいる大老、柳生宗範が命をもって証明するであろう」
光晴様は脇に控える老年男性に目配せする。
「はっ、確かにこちらにおわす御方は、畏れ多くも桃源国、第二十五代征夷大将軍、東雲光晴様にあらせられます」
鶯茶色に染めた紋付袴姿の老年男性が、うやうやしく告げる。老年男性の肩に入る家紋は、地楡に雀だ。
(あの紋所は柳生家の物だから、あのお爺さんは柳生様で間違いない)
となると、先程まで私をからかっていた人物は公方様で間違いないという事になる。
(じゃあ、帷様は一体、どこの誰なの?)
私は行方不明となってしまった、帷様を探し求め混乱を極める。
「服部琴葉」
突然名前を呼ばれ、私はびくりとする。
「今から申すこと、それは大奥同様、多言無用である」
先程までと売って変わり、光晴様が真面目な雰囲気を纏わせて、私を真っ直ぐに見据える。そのせいか、部屋の中に漂う空気が引き締まった気がした。
「御意」
私は畳の上に両手で三角を作り、頭を軽く下げる。
「私には双子の弟がいる。それが帷だ」
光晴様は静かな声で私に告げた。
(双子?)
一瞬自分の事を言われているのかと思う。
けれど今確かに光晴様は「双子の弟の帷」と口にされた。
(帷様が双子?)
まさかと疑う気持ちが私を襲う。
けれど目の前にいるのは正真正銘公方様だ。
(帷様が双子……)
もう一度告げられた言葉を噛みしめる。
そして双子であること。それを認めなければ説明がつかない事で帷様の周りは溢れていた事に気付く。
嫌そうに、けれど仕方なく女装をしていたこと。
夜中にこっそり抜け出して井戸の中に消えていったこと。
私が抱える双子という運命に対し、やたら物わかりが良かったこと。
それから何より公方様にまつわる事を、まるで他人事のように口にする癖。
それらはみんな帷様が双子だったから起こった事。
双子であれば、全て辻褄が合う事だ。
私は帷様の置かれた状況を理解した瞬間、何故か心がスッと軽くなるのを感じた。
「帷様も双子だった」
口にすると、しっくりきずぎておかしくなる。
そして私の心が「私と同じだ」という事実で埋まり、穏やかに凪いでいく。
「帷は私の影として生きている」
光晴様は、あえて感情を押し殺したかのように、淡々と言葉を続ける。
「お前も身にしみているだろうが、この国では双子という存在は認めないとされている」
光晴様の言葉がそのまま心に深く刺さる。
この国を統治する人から発せられた拒絶の言葉は、まんま私の存在が消去されたようで、流石に堪えたからだ。
「私はそれを馬鹿げた迷信だと思っている。しかし私が不吉とされる双子であること。それを公言すれば、皆は私を「縁起が悪い」と排除しかかるかも知れん。そして政がうまく行かねば「不吉者に任せるから」となるだろう。伊桜里とお腹の子を亡くした事も、それこそ世継ぎが生まれぬのも、全て双子に結び付けられてしまうに違いない」
光晴様は苦渋に満ちた表情を浮かべながら、膝の上で拳を握りしめていた。
「残念ながら私には、世の常識を覆すほどの力がまだない。そしてその事を帷も承知している。だからあいつは私の影となる事を甘んじて受け入れ、生きている」
顔を歪ませる光晴様を見つめながら思う。
(光晴様もまた、双子という運命を背負い生きている人の一人なんだ)
しかも私よりもずっと責任ある地位についている御方だ。そんな光晴様は、国の長として、双子であるという真実を絶対に、隠し続けなければならない。
(私なんかより、ずっと大変なことだろうな)
光晴様は割り切る事を強要され、生きている。
それは並大抵の辛さではないはずだ。
その気持ちは、そうやって生きてきた私には多分他の人より理解できる。
「帷は私の影となる事を受け入れねば、生きてゆけぬ。そして私は影となる事に甘んじたあいつに、随分と助けられてきた」
光晴様はそこまで言うと、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして私に今日一番真摯的な顔を向ける。
「服部琴葉。お前は表に出れない男を慕う覚悟を持っているか?」
光晴様の言葉に、私は緊張のあまりごくりと唾を飲み込む。
(そんな、急に言われても)
すぐに覚悟なんて出来ない。
それに私が今まで描いていた未来は一人で進む事が決定していた未来であって、誰かと歩む事ができるなど考えたことも……。
(違う、考えたけど、私は諦めたんだ)
でももし、帷様ともう一度同じ屋根の下で暮らしていいと言われたら。
私の脳裏に「うまい」と口にする帷様の噛みしめるように発せられる言葉と、照れたような表情が浮かぶ。
(あぁ、駄目だ)
一度でも知ってしまった幸せを手放す事はもう出来そうもない。
「どうなのだ。私はお前の飾らぬ本心が聞きたい」
光晴様が見極めるような、鋭い目つきで私を射抜く。
その目を真っ直ぐに見返し、はっきりと答える。
「私は、帷様を好ましく思っています」
例えどんな困難が待ち受けていようと、もし帷様と共に歩む未来をくれると言うのであれば、私はそれが欲しい。
「お前に散々嘘をついた者だぞ」
私の気持ちを試すように問う光晴様。
「それは仕方ないですし、私はそうせざるを得なかった帷様の気持ちを、誰よりも理解しているつもりです」
迷いなく答える。
「そうか」
光晴様は体の力を抜き、短く返事をした。
そしてまるで悪戯っ子のように、ニヤリと口元を緩ませる。
「そうだ、宗範。明日、あいつは伊桜里の墓参りに行くと言っていたような気がするのだが」
光晴様が突然不自然に話題を変えた。
「はい。明日の昼四ツ頃、天英寺に向かうとうかがっております」
「そうか。明日の昼四ツ頃、天英寺か」
不自然に何度も時間と場所を繰り返す、光晴様。
どうやら私に墓参りにいけと言いたいようだ。
「父上がお許し下さるのであれば、私も明日の昼四ツ頃、天英寺に参りたいと思います」
私は斜め前に座る父に尋ねる。
すると、父は「行ってこい」とだけ口にした。
私はついうっかり光晴様に乗せられ、帷様への気持ちを口にしてしまった。その事について父がどう思っているのか。それはわからない。
けれどとにかく私は父に明日出かける許しをもらえたらしい。
「明日の昼四ツ頃、天英寺。忘れるでないぞ」
「御意」
私の言葉に光晴様は満足げに微笑まれた。
「では、お主は下がってよい。私は服部と話をせねばならぬからな」
光晴様は意味ありげな視線を父に送る。
「はい。それでは失礼いたします」
私は一礼し、光晴様の方を向いたまま、失礼のないよう膝退で光晴様の視界から姿を消す。
「服部琴葉、お前が私の話を聞いてくれた事に、感謝する。それと、明日はお主が調理した、きんぴらを忘れるでないぞ」
光晴様は私に向かって注文を付け足した。
(え、何故にきんぴら?)
怪訝に思ったが、すぐに思い直す。
(そうか、帷様の「うまい」が聞けるかも)
明日はお弁当を作って行こうと、私は俄然張り切る気持ちになる。
「多めに頼むぞ」
光晴様が念を押す。
(多め?)
これまた不審に思ったが。
「はい。心得ております」
私はよくわからないまま、ふっと口元を緩めながら答えたのであった。
その余韻に浸っていると、帷様がパシンと手にした扇子を開く。仕切り直しといった感じに立てられたその音で、自然と座敷にいる者の視線が帷様に集まる。
「ところでそなたに、一つ頼みがあるのだが」
「はい、何なりと」
私は了承を示すため、頭を軽く下げる。
「お前は祝言をあげる気はないか?」
「え?」
思わず顔をあげる。すると帷様は真剣な眼差しで、私の目を真っ直ぐに見据えていた。
しかし、あまりに唐突すぎて意味不明だ。
(それに一体誰と?)
大事な部分を省略した帷様に対し、思わず首を傾げるしかない状況だ。
「えっと……?」
「私が申しておるのは、私の妾になって欲しいという事だ」
「……!」
ようやく帷様の言葉の意味を理解し、私は息を飲む。
(め、め、妾?!)
「な、何故、きゅ、急にそんなことを仰るのですか」
驚き過ぎて上手く声が出せない。
「そなたは先日、側室になると申し出てくれたではないか。あれは嘘だったのか」
帷様が愉快さ溢れるといった表情で、とんでもない事を口にした。
「琴葉、お前はそんな約束をしたのか!」
父がまるで私に軽蔑するような、怒ったような鋭い眼差しを寄越す。
「琴葉……お前ってやつはッ!」
背後から、兄の呆れた声が私の背に槍のように突き刺さる。
「そ、そんなお約束した覚えはありません!!」
私は慌てて弁明する。
「では今改めて申し込むぞ。良いか?」
「良いわけありません」
「なんだ、つまらぬな」
帷様が不服そうな表情を浮かべる。
けれど明らかに私をからかって楽しんでいる様子だ。
(出来れば、家族の前ではやめて欲しいのだけれど)
悪ノリする帷様に私はため息を付きそうになるが堪える。
ここで文句を口にすれば最後、父から「無礼だ」と叱られると悟ったからだ。
「そもそも公方様は私にまつわる事情をご存知のはずです」
長局にいる時、もう何度も私の事情については説明した気がする。
そして、帷様も時に自分の事であるかのように、理解してくれていたはずだ。
私は「思い出して下さい」と帷様を見つめる視線に願いを込める。
「はて、何のことであろう」
帷様は素知らぬフリをした。
(チッ)
不敬承知。思わず心で舌打ちしてしまう。
そもそも長局で帷様がご乱心なさった時に、そういう関係になることはないと、私はきちんと理由を説明し断ったはずだ。
(しばらく武士っぽく、行儀良い人になってたと思ってたのに)
再度ぶり返すような事をする帷様の行動に幻滅する気持ちを抑えられない。
「とてもありがたい申し出ですが、私には荷が重すぎますので、辞退させて頂きます」
至極丁寧に、しかししっかりと断りを入れる。
「お主は私を好いてはおらんのか?」
「……この国を支える公方様として敬愛しておりますが、妾にはなれません」
「敬愛の気持ちも愛情の一種ではないか」
「でも私は《《今みたいな》》公方様とは無理です」
私ははっきりと意思表示する。
そんな私を見て、帷様はニヤリと口元を緩ませる。
(というか、まるで私の知っている帷様じゃないみたい。私はこんな変な人をお慕いしていたの?)
私はついに自分にも幻滅する気持ちになった。
どうやら江戸城内には、公方様を三倍くらい素敵に思えるまやかしの術がかけられていたようだ。
江戸城から飛び出した帷様は、私好みのどこか陰な気も発してないし、誠実さのかけらも感じない。それどころか、意地悪くこの状況を楽しんでいるような、何処かふざけた雰囲気だ。
(私のお慕いしていた帷様を返してよ……)
そう願い、膝に置いた両手を強く握る。
すると突然、私の手を大きな手が包み込んだ。
「大丈夫だ、琴葉。案ずるでない」
いつの間に移動したのか、ものすごい至近距離で帷様が私を見つめていた。
「とば……公方様?」
手を取られたまま、思わずのけぞる。
「公方様、勘弁してやって下さい」
厳たる口調で、父が帷様を嗜める。
その声を聞きながら、私は帷様から漂う香りが、いつもの帷様と違う事に気付く。
(帷様はいつもほのかに甘さを含むような、そんな優しい香りがしたはず)
けれど目の前にいる帷様からはもう少し重厚で気品漂うような、そんな香りがした。
(それにこのつるりとした手)
帷様が箸を持つ手は、もう少しゴツゴツとしていて、手の平には赤くなった剣だこがいくつかあったはずだ。
(それに、どうしても受け入れられない、この人が醸し出す陽の雰囲気)
私は顔をあげ、間近にある帷様の顔を見つめる。
「公方様」
「なんだ?」
私の呼びかけにニコリと微笑む帷様。
(あぁ、やっぱり違う)
私は確信する。
何故なら帷様は公方様と私に呼ばれる事を嫌っていた。だから私がその呼び名を口にするとほんの僅か、眉間に皺を寄せるのだ。
けれど今目の前にいる帷様は、眉間に皺を寄せるどころか、私に満面の笑みを返している。
(だとすると、この人は……)
私は帷様そっくりな偽物にしっかりと視線を合わせる。
「あなたは誰なのですか?」
私が問いかけると、偽物の帷様は一言。
「合格だ」
今までの意地悪な笑みを消し去り、とても美しく口角を上げた。そして私から手を離すと、いそいそと上座に戻る。
そして背筋をピンと伸ばすと改めてと言った感じで口を開いた。
「私は桃源国第二十五代征夷大将軍、東雲光晴である」
目の前の帷様そっくりな男性は、今までの柔らかい雰囲気を消し飛ばし、威厳ある声で告げた。
「私の名が正真正銘、その名であること。それはこちらにいる大老、柳生宗範が命をもって証明するであろう」
光晴様は脇に控える老年男性に目配せする。
「はっ、確かにこちらにおわす御方は、畏れ多くも桃源国、第二十五代征夷大将軍、東雲光晴様にあらせられます」
鶯茶色に染めた紋付袴姿の老年男性が、うやうやしく告げる。老年男性の肩に入る家紋は、地楡に雀だ。
(あの紋所は柳生家の物だから、あのお爺さんは柳生様で間違いない)
となると、先程まで私をからかっていた人物は公方様で間違いないという事になる。
(じゃあ、帷様は一体、どこの誰なの?)
私は行方不明となってしまった、帷様を探し求め混乱を極める。
「服部琴葉」
突然名前を呼ばれ、私はびくりとする。
「今から申すこと、それは大奥同様、多言無用である」
先程までと売って変わり、光晴様が真面目な雰囲気を纏わせて、私を真っ直ぐに見据える。そのせいか、部屋の中に漂う空気が引き締まった気がした。
「御意」
私は畳の上に両手で三角を作り、頭を軽く下げる。
「私には双子の弟がいる。それが帷だ」
光晴様は静かな声で私に告げた。
(双子?)
一瞬自分の事を言われているのかと思う。
けれど今確かに光晴様は「双子の弟の帷」と口にされた。
(帷様が双子?)
まさかと疑う気持ちが私を襲う。
けれど目の前にいるのは正真正銘公方様だ。
(帷様が双子……)
もう一度告げられた言葉を噛みしめる。
そして双子であること。それを認めなければ説明がつかない事で帷様の周りは溢れていた事に気付く。
嫌そうに、けれど仕方なく女装をしていたこと。
夜中にこっそり抜け出して井戸の中に消えていったこと。
私が抱える双子という運命に対し、やたら物わかりが良かったこと。
それから何より公方様にまつわる事を、まるで他人事のように口にする癖。
それらはみんな帷様が双子だったから起こった事。
双子であれば、全て辻褄が合う事だ。
私は帷様の置かれた状況を理解した瞬間、何故か心がスッと軽くなるのを感じた。
「帷様も双子だった」
口にすると、しっくりきずぎておかしくなる。
そして私の心が「私と同じだ」という事実で埋まり、穏やかに凪いでいく。
「帷は私の影として生きている」
光晴様は、あえて感情を押し殺したかのように、淡々と言葉を続ける。
「お前も身にしみているだろうが、この国では双子という存在は認めないとされている」
光晴様の言葉がそのまま心に深く刺さる。
この国を統治する人から発せられた拒絶の言葉は、まんま私の存在が消去されたようで、流石に堪えたからだ。
「私はそれを馬鹿げた迷信だと思っている。しかし私が不吉とされる双子であること。それを公言すれば、皆は私を「縁起が悪い」と排除しかかるかも知れん。そして政がうまく行かねば「不吉者に任せるから」となるだろう。伊桜里とお腹の子を亡くした事も、それこそ世継ぎが生まれぬのも、全て双子に結び付けられてしまうに違いない」
光晴様は苦渋に満ちた表情を浮かべながら、膝の上で拳を握りしめていた。
「残念ながら私には、世の常識を覆すほどの力がまだない。そしてその事を帷も承知している。だからあいつは私の影となる事を甘んじて受け入れ、生きている」
顔を歪ませる光晴様を見つめながら思う。
(光晴様もまた、双子という運命を背負い生きている人の一人なんだ)
しかも私よりもずっと責任ある地位についている御方だ。そんな光晴様は、国の長として、双子であるという真実を絶対に、隠し続けなければならない。
(私なんかより、ずっと大変なことだろうな)
光晴様は割り切る事を強要され、生きている。
それは並大抵の辛さではないはずだ。
その気持ちは、そうやって生きてきた私には多分他の人より理解できる。
「帷は私の影となる事を受け入れねば、生きてゆけぬ。そして私は影となる事に甘んじたあいつに、随分と助けられてきた」
光晴様はそこまで言うと、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして私に今日一番真摯的な顔を向ける。
「服部琴葉。お前は表に出れない男を慕う覚悟を持っているか?」
光晴様の言葉に、私は緊張のあまりごくりと唾を飲み込む。
(そんな、急に言われても)
すぐに覚悟なんて出来ない。
それに私が今まで描いていた未来は一人で進む事が決定していた未来であって、誰かと歩む事ができるなど考えたことも……。
(違う、考えたけど、私は諦めたんだ)
でももし、帷様ともう一度同じ屋根の下で暮らしていいと言われたら。
私の脳裏に「うまい」と口にする帷様の噛みしめるように発せられる言葉と、照れたような表情が浮かぶ。
(あぁ、駄目だ)
一度でも知ってしまった幸せを手放す事はもう出来そうもない。
「どうなのだ。私はお前の飾らぬ本心が聞きたい」
光晴様が見極めるような、鋭い目つきで私を射抜く。
その目を真っ直ぐに見返し、はっきりと答える。
「私は、帷様を好ましく思っています」
例えどんな困難が待ち受けていようと、もし帷様と共に歩む未来をくれると言うのであれば、私はそれが欲しい。
「お前に散々嘘をついた者だぞ」
私の気持ちを試すように問う光晴様。
「それは仕方ないですし、私はそうせざるを得なかった帷様の気持ちを、誰よりも理解しているつもりです」
迷いなく答える。
「そうか」
光晴様は体の力を抜き、短く返事をした。
そしてまるで悪戯っ子のように、ニヤリと口元を緩ませる。
「そうだ、宗範。明日、あいつは伊桜里の墓参りに行くと言っていたような気がするのだが」
光晴様が突然不自然に話題を変えた。
「はい。明日の昼四ツ頃、天英寺に向かうとうかがっております」
「そうか。明日の昼四ツ頃、天英寺か」
不自然に何度も時間と場所を繰り返す、光晴様。
どうやら私に墓参りにいけと言いたいようだ。
「父上がお許し下さるのであれば、私も明日の昼四ツ頃、天英寺に参りたいと思います」
私は斜め前に座る父に尋ねる。
すると、父は「行ってこい」とだけ口にした。
私はついうっかり光晴様に乗せられ、帷様への気持ちを口にしてしまった。その事について父がどう思っているのか。それはわからない。
けれどとにかく私は父に明日出かける許しをもらえたらしい。
「明日の昼四ツ頃、天英寺。忘れるでないぞ」
「御意」
私の言葉に光晴様は満足げに微笑まれた。
「では、お主は下がってよい。私は服部と話をせねばならぬからな」
光晴様は意味ありげな視線を父に送る。
「はい。それでは失礼いたします」
私は一礼し、光晴様の方を向いたまま、失礼のないよう膝退で光晴様の視界から姿を消す。
「服部琴葉、お前が私の話を聞いてくれた事に、感謝する。それと、明日はお主が調理した、きんぴらを忘れるでないぞ」
光晴様は私に向かって注文を付け足した。
(え、何故にきんぴら?)
怪訝に思ったが、すぐに思い直す。
(そうか、帷様の「うまい」が聞けるかも)
明日はお弁当を作って行こうと、私は俄然張り切る気持ちになる。
「多めに頼むぞ」
光晴様が念を押す。
(多め?)
これまた不審に思ったが。
「はい。心得ております」
私はよくわからないまま、ふっと口元を緩めながら答えたのであった。