大奥最後の日。
朝起きると帷様の姿はすでになく、私は少しがっかりした。
「ま、帷様は公方様だから」
何かと忙しいのだろう。
私は深く考えず、ここに来た時と同じ。父が仕立ててくれた、南天に椿が描かれた、見るからに豪華な花浅葱色の振り袖に腕を通し、身支度を整える。
それからお世話になった長局を見回し、がらんとしている様子に寂しさを覚え、そんな自分に驚いた。
というのも、忍び者の任務。特に私に任されるのは、今回のような潜入捜査が断然多い。
だからある程度過ごした場所から去る事。その状況にはある意味慣れっこで、未練や寂しさを覚えたりする事など、今までそんなになかったからだ。
(思いのほか、楽しかったからかな)
まるで夫婦のように帷様と二人で過ごした時間。それは伴侶を得る事が許されぬ運命を背負う私にとって、諦めていた夢が叶う時間でもあった。
だからこの狭い長局に、後ろ髪引かれる思いがするのだ。
「潮時だったってことか」
誰もいない長局で私は一人呟く。
これ以上帷様とおままごとを続けていたら、私はこの先、一人が寂しいと思うようになってしまう。そして自分に課せられ、納得しているはずの「双子」という運命を、憎むようになる。
(そんなの駄目)
人並みな幸せはなくとも、私は明るく生きたい。
「それに帷様は私の名を忘れないって言ってくれたし」
だから、それで充分だ。
「お世話になりました」
私はもはや、我が家のように感じる猫の額ほどの狭い部屋に頭を下げたのであった。
***
大奥から出る。それは傍から見たら自由を得る事と同一だ。その事に多少の罪悪感を覚えつつ、私は御火乃番の詰所に向かう。そして、御火乃番頭であるお滝さんにお世話になった挨拶をし、仲間達には無事帰宅したら、手紙と菓子を贈る約束をした。
『何だか寂しくなる』
『ほんとにね』
『でも、ご実家で不幸があったのならば、仕方がないわよね』
『帷ちゃんも寂しいだろうね』
御火乃番仲間達は涙ぐんで、別れを惜しんでくれた。
因みに私は、大奥の奉公を終了させる理由として、こういう時の十八番である、『実家に不幸があって』という実にわかりやすい、しかし人が立ち入りにくい理由を使った。
そして相方であった帷ちゃんは、後日病気になり、大奥を去る予定だそうだ。
(新しい人が採用されたら、すぐに私達の事は忘れるだろうし)
私は別れを惜しみ、涙ぐむ真似をしながら、わりと冷静だった。
これも多分、忍び者として生きる弊害だ。
そして次に向かったのは、御殿の千鳥の間という詰め所にいる岡島様の所だ。
岡島様は煙草盆を前に置き、御右筆と呼ばれる、文字書き兼、秘書に気難しそうな表情で指示を出していた。しかし私が訪れた事が告げられると、即座に人払いがされ、私は必然的に岡島様と二人きりになってしまう。
「誓紙の通り、奥向きの事や、勤向きの事は、他人はもちろんのこと、親兄弟であっても他言無用。それはあなたが誰であっても、守らなくてはなりませぬ」
開口一番、厳しい顔で厳重に言い渡された。
「勿論です。そもそも口が硬い事。その一点のみで今回の任に選抜されたようなものですから」
私は自分で自分に太鼓判を押す。
「そう。ならば安心ね。色々あったけれど、ともかくあなたには感謝しなければならないわね」
「感謝ですか?」
特に感謝されるような事をした記憶がない私は、一体何を?と首を傾げる。
「美麗のことです。正直彼女がやった事を知り、私は自らの命を断つ、そう決めておりました」
「え」
「伊桜里様の鼻緒の件は、私の耳にも入っていましたからね。本当は私が犯人を晒し、そしてこの命で責任を取ろうと思っていたのだけれど、あなたに先を越されてしまいました」
岡島様は力なく微笑む。
「岡島様は今後どうされるのですか?」
私は立ち入った質問をぶつける。これで最後だと思ったので、無礼だと叱られてもいいと、ある意味吹っ切れていたからだ。
「ほんの数ヶ月前は、伊桜里様のご懐妊で、天にも勝る嬉しさを感じ、ここはどこもかしこも幸せに満ち溢れていたのに」
岡島様は私の質問に答えることなく。ゆっくりと顔を背け、床の間に飾られた花瓶に刺さる、一輪の椿を見つめた。
(何だかこの世の終わりみたい)
少しやつれた様子の岡島様を前に、私はつい、最後だからとお節介を焼いてしまう。
「こんな事を言うのも何ですが、公方様はまだお若いですし、その、そういう雰囲気になれば、まだまだやれそうと言うか、お元気はありそうなので、お世継ぎを諦めるのは早いかと」
私は帷様に夜這いされそうになった事を思い出し、恥ずかしい気持ちを抱えつつも、岡島様に励ましの言葉をかける。
(私に欲情するんだから、大丈夫)
なんせここは美女三千人と謳われる大奥だ。
実際には大奥で勤めるのは数百人であって、その中でも一引、二運、三器量を兼ね備える者は少ないだろう。
けれど、公方様の奥泊りを心待ちにしている人はそれなりの数がいるだろうし、美麗様ほどでは困るものの、「国母になる」と野心に満ちた者だっているはずだ。
「まさか、あなた……そう言えばやけに公方様と近しかったような」
死んだ魚のような目をしていた岡島様の瞳に、突然灯火が宿る。
「正直に言いなさい。あなたは公方様と」
「何もないです!!」
あと数刻も過ぎたら私は兄の子。つまり甥っ子の蘭丸(らんまる)をこの手に抱きかかえているつもりなのだ。
(冗談じゃない)
私は何としてでも、大奥を脱出するのである。
「岡島様、色々とお悩みは尽きないかとは思いますが、お体をご自愛下さいませ。では、失礼いたしまする」
私は畳におでこをぶつける勢いで頭を下げると、逃げるように千鳥の間を飛び出した。そしてひたすらくねくねとした廊下を道なりに進み、背後を振り返る。
(逃げ切ったか)
ひとまず安堵した私は、廊下の梁に背をつけ、息を整える。
「危なかった……」
(いや、特に疚しい事はないのだから、逃げなくても良かったような?)
しかし今更である。
「それに岡島様のあの目は、蛙を飲み込もうとする蛇のような恐ろしい目だったし」
「まぁ、なんとおもろい例えやろう」
鈴の転がるような可憐な声と、聞き慣れない京ことば。
(ま、まさか)
私はゆっくりと横を見る。するとそこには、髪を片はずしに結った、いちまさんもとい、貴宮様がいた。そして背後には、貴宮様お付きの奥女中達がズラリと控えている。
「(やっぱり)御台様!!」
私は反射的に廊下に正座し、頭を下げる。
「楽にしい。ちょうど今、あんさんを探しとったとこどす」
貴宮様が、嬉しそうに言った。
(えっ、まさか一難去ってまた一難!?)
私は嫌な汗をかきつつ、顔をあげる。
「だって、今日帰ってしまうでしょう?」
恐るべき情報収集力である。
(くっ、すでに私の帰還情報が漏れているとは)
犯人はやはり、貴宮様の夫である帷様だろうか。だとするとこの危機的状況はまずいかも知れない。
(もしかして帷様から贈り物を受け取った事が知られて、私は怒られるとか?)
それとも、さり気なく長局で寝食を共にしていたことだろうか。
それとも、庶民の料理を毒見もなしに食べさせてしまった事だろうか。
それとも、帷様をうっかり座椅子の背代わりにして寝てしまった事だろうか。
正妻である貴宮様に咎められても仕方のない事ばかりが脳裏をかする。
(あ……)
私は恐る恐る、後頭部に手を伸ばす。指先に触れるのは、昨日帷様から頂いた珊瑚の根掛と簪のつるりとした感触だ。
(折角だしと思って髪に刺しちゃったけど)
これは非常にまずい状況だ。
(というか、私って)
任務の為とは言え、そして知らなかったとは言え、妻のいる人から贈り物を貰って喜ぶなんて、やっぱり美麗様級の悪女かも知れない。
「さぁ、いきましょか」
「えっ、どこへ」
「そら、着いてからのお楽しみ」
含みを持たせたほほえみに、私の背筋は凍りつく。
しかし断る訳にはいかない。
何故なら。
(私は伊賀者、くノ一連い組の女)
――でしかないからだ。
いつもは自分を奮い立たせる言葉も、今は風前の灯火と言った感じ。頼りなさだけは一級品。
観念した私は、やたらご機嫌な貴宮様に連れられ、御殿の西北隅に連れ込まれた。この場所は、貴宮様だけが使用する事を許された私的な居住区となっているはずだ。
(くっ、敵陣にやすやすと連れ込まれるとは)
状況によっては、切腹も辞さないと覚悟を決めた私は、御休息の間と呼ばれる部屋に通された。
「姉小路、お茶を」
「かしこまりました」
上臈御年寄である姉小路様は、貴宮様の事付けを更に下の者に伝える。そしてすぐに東隣の部屋から、人が忙しなく動き出す気配を感じた。
(ええと、確かあそこには御台子の間があった気がする)
私は御火乃番で得た知識を呼び覚ます。御台子の間はお茶を淹れる部屋だったはずだ。
(つまり、私は温かいお茶にありつけると……)
その事実に気付き、ようやく安らぐ気持ちに包まれる。
「姉小路、例の物を」
貴宮様が指示を出す。一体今度は何だろうと、私は姉小路様が持つ、黒い小箱を見つめる。
(やっぱり、帷様からの贈り物の件なのかな)
私の前に置かれたのは、漆塗りの小箱。それから連想されるのは、昨日恐縮しながらも帷様から有り難く頂戴した、珊瑚の寝掛と簪だ。
「中を確かめてみとぉくれやす」
貴宮様が私に告げる。ここまで来てもはや逃げると言う選択肢はない。私は腹を括り、うやうやしく「拝見致します」と断りをいれると、蓋を開けた。
すると中に入っていたのは予想外なもの。細長い書簡のみだった。表には流れるような美しい文字で「光晴様へ」と書かれている。
(光晴様へ?)
まさかと言う思いで貴宮様の顔を見つめる。
すると、貴宮様はにこりと微笑むのみ。どうやら、先ずは確かめろという事のようだ。
私は震えそうになる手で、書簡を掴む。そしてゆっくりと、真っ白な半紙を開く。
『先立つ不孝をお許し下さい』
最初に目に入った文字を見て私は確信する。
(伊桜里様の書簡だ)
とうとう帷様と共に長いこと探していた物が見つかったようだ。
まさかの場所で。
私は唖然とする表情のまま、美しく流れるような文字を見つめたのであった。
朝起きると帷様の姿はすでになく、私は少しがっかりした。
「ま、帷様は公方様だから」
何かと忙しいのだろう。
私は深く考えず、ここに来た時と同じ。父が仕立ててくれた、南天に椿が描かれた、見るからに豪華な花浅葱色の振り袖に腕を通し、身支度を整える。
それからお世話になった長局を見回し、がらんとしている様子に寂しさを覚え、そんな自分に驚いた。
というのも、忍び者の任務。特に私に任されるのは、今回のような潜入捜査が断然多い。
だからある程度過ごした場所から去る事。その状況にはある意味慣れっこで、未練や寂しさを覚えたりする事など、今までそんなになかったからだ。
(思いのほか、楽しかったからかな)
まるで夫婦のように帷様と二人で過ごした時間。それは伴侶を得る事が許されぬ運命を背負う私にとって、諦めていた夢が叶う時間でもあった。
だからこの狭い長局に、後ろ髪引かれる思いがするのだ。
「潮時だったってことか」
誰もいない長局で私は一人呟く。
これ以上帷様とおままごとを続けていたら、私はこの先、一人が寂しいと思うようになってしまう。そして自分に課せられ、納得しているはずの「双子」という運命を、憎むようになる。
(そんなの駄目)
人並みな幸せはなくとも、私は明るく生きたい。
「それに帷様は私の名を忘れないって言ってくれたし」
だから、それで充分だ。
「お世話になりました」
私はもはや、我が家のように感じる猫の額ほどの狭い部屋に頭を下げたのであった。
***
大奥から出る。それは傍から見たら自由を得る事と同一だ。その事に多少の罪悪感を覚えつつ、私は御火乃番の詰所に向かう。そして、御火乃番頭であるお滝さんにお世話になった挨拶をし、仲間達には無事帰宅したら、手紙と菓子を贈る約束をした。
『何だか寂しくなる』
『ほんとにね』
『でも、ご実家で不幸があったのならば、仕方がないわよね』
『帷ちゃんも寂しいだろうね』
御火乃番仲間達は涙ぐんで、別れを惜しんでくれた。
因みに私は、大奥の奉公を終了させる理由として、こういう時の十八番である、『実家に不幸があって』という実にわかりやすい、しかし人が立ち入りにくい理由を使った。
そして相方であった帷ちゃんは、後日病気になり、大奥を去る予定だそうだ。
(新しい人が採用されたら、すぐに私達の事は忘れるだろうし)
私は別れを惜しみ、涙ぐむ真似をしながら、わりと冷静だった。
これも多分、忍び者として生きる弊害だ。
そして次に向かったのは、御殿の千鳥の間という詰め所にいる岡島様の所だ。
岡島様は煙草盆を前に置き、御右筆と呼ばれる、文字書き兼、秘書に気難しそうな表情で指示を出していた。しかし私が訪れた事が告げられると、即座に人払いがされ、私は必然的に岡島様と二人きりになってしまう。
「誓紙の通り、奥向きの事や、勤向きの事は、他人はもちろんのこと、親兄弟であっても他言無用。それはあなたが誰であっても、守らなくてはなりませぬ」
開口一番、厳しい顔で厳重に言い渡された。
「勿論です。そもそも口が硬い事。その一点のみで今回の任に選抜されたようなものですから」
私は自分で自分に太鼓判を押す。
「そう。ならば安心ね。色々あったけれど、ともかくあなたには感謝しなければならないわね」
「感謝ですか?」
特に感謝されるような事をした記憶がない私は、一体何を?と首を傾げる。
「美麗のことです。正直彼女がやった事を知り、私は自らの命を断つ、そう決めておりました」
「え」
「伊桜里様の鼻緒の件は、私の耳にも入っていましたからね。本当は私が犯人を晒し、そしてこの命で責任を取ろうと思っていたのだけれど、あなたに先を越されてしまいました」
岡島様は力なく微笑む。
「岡島様は今後どうされるのですか?」
私は立ち入った質問をぶつける。これで最後だと思ったので、無礼だと叱られてもいいと、ある意味吹っ切れていたからだ。
「ほんの数ヶ月前は、伊桜里様のご懐妊で、天にも勝る嬉しさを感じ、ここはどこもかしこも幸せに満ち溢れていたのに」
岡島様は私の質問に答えることなく。ゆっくりと顔を背け、床の間に飾られた花瓶に刺さる、一輪の椿を見つめた。
(何だかこの世の終わりみたい)
少しやつれた様子の岡島様を前に、私はつい、最後だからとお節介を焼いてしまう。
「こんな事を言うのも何ですが、公方様はまだお若いですし、その、そういう雰囲気になれば、まだまだやれそうと言うか、お元気はありそうなので、お世継ぎを諦めるのは早いかと」
私は帷様に夜這いされそうになった事を思い出し、恥ずかしい気持ちを抱えつつも、岡島様に励ましの言葉をかける。
(私に欲情するんだから、大丈夫)
なんせここは美女三千人と謳われる大奥だ。
実際には大奥で勤めるのは数百人であって、その中でも一引、二運、三器量を兼ね備える者は少ないだろう。
けれど、公方様の奥泊りを心待ちにしている人はそれなりの数がいるだろうし、美麗様ほどでは困るものの、「国母になる」と野心に満ちた者だっているはずだ。
「まさか、あなた……そう言えばやけに公方様と近しかったような」
死んだ魚のような目をしていた岡島様の瞳に、突然灯火が宿る。
「正直に言いなさい。あなたは公方様と」
「何もないです!!」
あと数刻も過ぎたら私は兄の子。つまり甥っ子の蘭丸(らんまる)をこの手に抱きかかえているつもりなのだ。
(冗談じゃない)
私は何としてでも、大奥を脱出するのである。
「岡島様、色々とお悩みは尽きないかとは思いますが、お体をご自愛下さいませ。では、失礼いたしまする」
私は畳におでこをぶつける勢いで頭を下げると、逃げるように千鳥の間を飛び出した。そしてひたすらくねくねとした廊下を道なりに進み、背後を振り返る。
(逃げ切ったか)
ひとまず安堵した私は、廊下の梁に背をつけ、息を整える。
「危なかった……」
(いや、特に疚しい事はないのだから、逃げなくても良かったような?)
しかし今更である。
「それに岡島様のあの目は、蛙を飲み込もうとする蛇のような恐ろしい目だったし」
「まぁ、なんとおもろい例えやろう」
鈴の転がるような可憐な声と、聞き慣れない京ことば。
(ま、まさか)
私はゆっくりと横を見る。するとそこには、髪を片はずしに結った、いちまさんもとい、貴宮様がいた。そして背後には、貴宮様お付きの奥女中達がズラリと控えている。
「(やっぱり)御台様!!」
私は反射的に廊下に正座し、頭を下げる。
「楽にしい。ちょうど今、あんさんを探しとったとこどす」
貴宮様が、嬉しそうに言った。
(えっ、まさか一難去ってまた一難!?)
私は嫌な汗をかきつつ、顔をあげる。
「だって、今日帰ってしまうでしょう?」
恐るべき情報収集力である。
(くっ、すでに私の帰還情報が漏れているとは)
犯人はやはり、貴宮様の夫である帷様だろうか。だとするとこの危機的状況はまずいかも知れない。
(もしかして帷様から贈り物を受け取った事が知られて、私は怒られるとか?)
それとも、さり気なく長局で寝食を共にしていたことだろうか。
それとも、庶民の料理を毒見もなしに食べさせてしまった事だろうか。
それとも、帷様をうっかり座椅子の背代わりにして寝てしまった事だろうか。
正妻である貴宮様に咎められても仕方のない事ばかりが脳裏をかする。
(あ……)
私は恐る恐る、後頭部に手を伸ばす。指先に触れるのは、昨日帷様から頂いた珊瑚の根掛と簪のつるりとした感触だ。
(折角だしと思って髪に刺しちゃったけど)
これは非常にまずい状況だ。
(というか、私って)
任務の為とは言え、そして知らなかったとは言え、妻のいる人から贈り物を貰って喜ぶなんて、やっぱり美麗様級の悪女かも知れない。
「さぁ、いきましょか」
「えっ、どこへ」
「そら、着いてからのお楽しみ」
含みを持たせたほほえみに、私の背筋は凍りつく。
しかし断る訳にはいかない。
何故なら。
(私は伊賀者、くノ一連い組の女)
――でしかないからだ。
いつもは自分を奮い立たせる言葉も、今は風前の灯火と言った感じ。頼りなさだけは一級品。
観念した私は、やたらご機嫌な貴宮様に連れられ、御殿の西北隅に連れ込まれた。この場所は、貴宮様だけが使用する事を許された私的な居住区となっているはずだ。
(くっ、敵陣にやすやすと連れ込まれるとは)
状況によっては、切腹も辞さないと覚悟を決めた私は、御休息の間と呼ばれる部屋に通された。
「姉小路、お茶を」
「かしこまりました」
上臈御年寄である姉小路様は、貴宮様の事付けを更に下の者に伝える。そしてすぐに東隣の部屋から、人が忙しなく動き出す気配を感じた。
(ええと、確かあそこには御台子の間があった気がする)
私は御火乃番で得た知識を呼び覚ます。御台子の間はお茶を淹れる部屋だったはずだ。
(つまり、私は温かいお茶にありつけると……)
その事実に気付き、ようやく安らぐ気持ちに包まれる。
「姉小路、例の物を」
貴宮様が指示を出す。一体今度は何だろうと、私は姉小路様が持つ、黒い小箱を見つめる。
(やっぱり、帷様からの贈り物の件なのかな)
私の前に置かれたのは、漆塗りの小箱。それから連想されるのは、昨日恐縮しながらも帷様から有り難く頂戴した、珊瑚の寝掛と簪だ。
「中を確かめてみとぉくれやす」
貴宮様が私に告げる。ここまで来てもはや逃げると言う選択肢はない。私は腹を括り、うやうやしく「拝見致します」と断りをいれると、蓋を開けた。
すると中に入っていたのは予想外なもの。細長い書簡のみだった。表には流れるような美しい文字で「光晴様へ」と書かれている。
(光晴様へ?)
まさかと言う思いで貴宮様の顔を見つめる。
すると、貴宮様はにこりと微笑むのみ。どうやら、先ずは確かめろという事のようだ。
私は震えそうになる手で、書簡を掴む。そしてゆっくりと、真っ白な半紙を開く。
『先立つ不孝をお許し下さい』
最初に目に入った文字を見て私は確信する。
(伊桜里様の書簡だ)
とうとう帷様と共に長いこと探していた物が見つかったようだ。
まさかの場所で。
私は唖然とする表情のまま、美しく流れるような文字を見つめたのであった。