現在、蔦の間では一人の男性を巡る、女同士の戦い。その幕が切って落とされたばかりという、とても緊迫した状況だ。
「ここの生活はどうだ、不自由ないか」
帷様が目の前に座った私に尋ねる。
因みにこの場所は、美麗様が先程まで陣取っていた特等席だ。
「はい。皆様とても良くして下さります」
笑顔で答えつつ、私は新たに用意された徳利で、帷様が手にしたお猪口にコポコポと酒を注ぐ。
「それは良かった。何か困った事があれば、すぐに私に言うがいい」
帷様が台本通り、私に優しく微笑む。
「でしたら、一つほど」
私はねだるように帷様を見つめる。
「構わん、言ってみろ」
帷様がお猪口を口に運ぶ手を止め、問いかけた。
「実は、先程このようなものを拾いまして」
私は袂から、手毬を模した根付を取り出す。
「どなたのかご存知ですか?あまりに素敵なので、落とされた持ち主もきっと、探してらっしゃるかと」
指先でつまんだ根付を帷様に見せるついでにと言った感じ。わざとらしく美麗様にも見せつけた。
「ヒッ」
美麗様から息をのむ声が聞こえた。
(そりゃそうよね。あなたの物なんだから)
私が摘んでいる小さな根付は、宇治の間で息絶えた状態で発見された、お夏さんが右手にしっかりと握っていたものだ。検使が厳重に保管していた物を、今日この時のためにお借りしたのである。
「美麗様、どうかされましたか?」
私は心配するふりをして、美麗様に近寄る。
「いえ……何でもありませんわ」
扇子を広げ顔を半分隠しながら、美麗様が答えた。
「ふーん、本当に?」
「えぇ、本当ですとも!」
美麗様が鋭い目つきで睨んでくる。
「ではこの根付に美麗様は見覚えはないと」
私はあえて、挑発するように言った。
「知りません!!」
美麗様はピシャリと言い放つ。
「そうですか。これほどに美しい物ですから、てっきり美麗様のものだと思ったのですが。違うのですね?」
私はしつこく確認する。
「違いますわ」
美麗様は私を睨みつけながら、はっきりと否定する。
「いおり、お主はどこでそれを拾ったのだ?」
今まで黙って美麗様と私のやりとりを聞いていた帷様が、美麗様に餌を撒く準備を開始する。
「それが、宇治の間の前なのです」
私の言葉に美麗様の目が大きく見開いた。
「宇治の間だと?それはつまり……」
わざとらしく言葉を切る帷様。
「先日、哀れな御末が亡くなった場所でございます」
岡島様が冷静な声ですかさず答える。
「ふむ。実にあれは残念な一件だった。しかし一体何故、そのような場所に」
帷様が顎に手を当て、思案する表情になる。
「確かあの日は御広敷添番達と男ばかりで検分したように記憶しているのだが」
帷様が顎を撫でながらわざとらしい声を出す。
「それよりも、何故あなたは宇治の間に無断で行ったのですか」
岡島様が咎めるような声で私に問いかける。まるで本当に叱られているかのような気持ちになり、私はシュンとなる。
「実はお夏さんと面識がありました」
私は岡島様の横に控える正輝に顔を向ける。
「ですから、どうしても花をたむけたいと思い、宇治の間に」
声を作った正輝が答える。
「そのような勝手な事が許される訳がないでしょう」
岡島様が怖い顔で私を睨んだ。
迫真の演技に、思わず怯む。
「申し訳ございません。けれど結局怖くて中に入る事は出来ませんでした」
正輝の言葉に俯き、私は反省を示すように、根付をジッと見つめる。
そして……。
「でも、私は見たのです」
消え入りそうな声で、爆弾を投下する。
「何を見たのだ?」
帷様が興味深げな顔を作り、続きを促す。
「宇治の間を少しのぞいた時、部屋に置き手紙のような物があったのを」
私は震える両手で自分の身体を抱き締める。
「置き手紙だと?」
「はい。私は怖くて中に入れませんでした。ですから、公方様にその手紙を取って来て頂きたいのです。きっとお夏様の遺言だと思うから」
私は言い終えると、しくしくと涙を流して見せた。
「では今すぐ、取りに参ろう」
お猪口を宗和膳の上に置き、腰を浮かしかけた帷様。
「いいえ、なりません」
美麗様も腰を浮かし、慌てた様子で帷様に声をかける。
「そなたは何故、私を止める」
美麗様をしっかりと見つめ、帷様が尋ねた。
「宇治の間には不吉な言い伝えがあるからです。それにこのような時間に出歩くなど、公方様の身に何かあっては困ります」
美麗様が必死になって帷様に訴える。
「不吉な言い伝えか、岡島どう思う?」
気にする素振りを見せ、一旦腰を落ち着ける帷様。
「確かに明日になさった方がよろしいかと」
「ならば、明日、宇治の間を再度検分いたす」
「よろしいかと」
明らかにホッとした様子の美麗様。
しかし私達の反撃の狼煙は上がったまま。
「そう言えば、そなたの持つ根付を見て思い出したのだが」
先程置いたお猪口を手にし、帷様がまたもや話題を根付に戻す。
「貴宮が美麗に根付を贈ったと言っていた。大変意匠の凝った物だと聞いたのだが、是非一度、この目で確認してみたいものだな」
帷様はいい終えると、実に美味しそうな顔で、口に運んだお猪口から酒をクイッと飲み干した。
「そ、それは」
美麗様の顔色がサッと青ざめる。
「そうだ、折角の機会だ。そなたの根付と、いおりが拾った物。どちらがより優れているか、比べてみるか。持ってこい」
帷様が残酷な言葉を美麗様に投げる。
その脇で、私は帷様の手にしたお猪口に酒を注ぐ。
「まぁ!なんて意地悪なお方でしょう。そのような事、できるわけがないではありませんか」
美麗様はしおらしく泣きそうな表情を作ると、首を横に振った。
「一体何故、意地悪であると申すのだ」
「私は公方様の奥泊まりに合わせ、このような格好です。ですから、外を出歩く訳には参りません」
美麗様は実に悲しげに訴える。
(確かにその格好じゃねぇ……)
私は美麗様の全身に改めて視線を送る。
入念に化粧をしたであろう美麗様は、白羽二重(しろはぶたえ)の下着の上に、同じく真っ白な綸子(りんず)の寝巻きを着ている。さらに言えば、髪の毛は軽く櫛巻にしただけ。確かにウロウロと御所内を出歩るける姿ではない事は確かだ。
(そして、いつもよりずっと、不安感が増しているはず)
人は身に纏う衣装によって、思いのほか気持ちが左右されがちだ。
お気に入りの着物に身を包めば、気分が良くなるし、帯の色を失敗したなと思った日は、知らず識らずの内に気が落ち込んだりするものだ。
つまり今の美麗様は、いつも羽織る煌びやかな打ち掛けすら身に纏わない、身ぐるみ剥がされた状況。すなわちそれは、本来の自分を曝け出した状況に近い。そして自ずと、精神的に脆くなるというわけで。
(悪いけど、容赦しないから)
私は心で美麗様に宣戦布告を言い渡す。
「そなたが戻らなくとも良い。岡島、お前が手配してくれ」
「かしこまりました」
見張り番のように部屋の隅にいる岡島様が、両手をついて頭を下げる。
「いいえ、困ります」
美麗様が慌てたように腰を浮かす。
「困るだと?」
帷様がすかさず食いつく。
その様子は、まるで釣り糸から伸び、水面に着水している浮きが、一瞬沈み波紋を広げた。その瞬間を見逃すまいと釣り竿を引くという勢いだ。
「それは……わ、私の持ち物に触らせたくないので」
「何故だ?」
「さ、最近泥棒騒ぎがありましたので。そう、そう言えば、貴宮様に頂いた根付。それもどうやら盗まれてしまったようなのです」
美麗様は途端に明るい表情になった。
「なるほど、そういうことか。ならば何故、最初に盗まれたと言わなかったのだ」
帷様が畳み掛けるように問いかける。
「申し訳ございません。久しぶりに公方様とお会いして、緊張していたもので」
余裕を取り戻したのか、美麗様はいけしゃあしゃあと嘘をつく。
「そうか。しかし、大奥で泥棒が出たとなると、放置しておけぬ。さてどうしたものか」
帷様はわざとらしく顎に手を当て思案する。
その姿を眺めながら、私は思う。
(やっぱり美麗様は一筋縄ではいかない)
勿論私達も美麗様が「その根付は私のものです」などと、正直に申し出る訳がないと想定している。よって周到に準備をして臨んでいるつもりだ。しかしそれらを全て見事に交わされるのではないかと、少々不安になる。
「公方様、でしたら明日、皆の持ち物を改めさせてはいかがでしょう?」
岡島様が提案する。
「おぉ、それは良い案だな。早速明日――」
「なりませんわ!!」
美麗様が焦った顔で、力強く否定する。
「どうしてですか?」
帷様の代わりにあどけなさ全開で私は尋ねる。
「どうしても何も、そんなことをされてはたまりませんわ」
美麗様は必死になって言い繕う。
「ふむ。では美麗よ。そなたの根付が盗まれたという証拠はあるのか?」
「ありますとも!」
美麗様は即答した。しかしすぐに「しまった」といった表情になる。
「ほう、では示してみるが良い」
「それは……」
美麗様は口籠る。
「何だ?ないのか?そなたは私に嘘を申したというのか?」
「い、いえ」
「では明日までに根付が盗まれたと、そう思う根拠を証明せよ。もしできなかった場合は、美麗の根付を盗んだ者を探し出すために、大奥にいる全ての者に対し、荷物を改めさせるとする」
帷様が厳しい顔で言い放つ。
「そ、それは無理です。だ、だってお夏が、そう。お夏が盗んだのです。あの娘は手癖が悪いと有名です。岡島様もご存知でしょう?」
美麗様はまたもやひらめいたとばかり、つらつらと早口で自分の無実を主張する。
先程話題にした、幽霊騒ぎの伊桜里様に続き、お夏様までもを自分の言いように利用している。
(許せない)
私は思わず膝に置いた拳を握った。
「岡島、お夏という者の手癖が悪いというのは本当なのか?」
「はい、大変申し訳にくい事ですが、間違いございません」
「なるほど。それならば美麗が潔白である可能性が高いということか」
「ありがとうございます」
美麗様はほっとした表情を浮かべる。
「そうか、盗まれたのか」
「はい。きっとあの女狐は、貴宮様から頂いた私の根付を盗み、売り払って金にしようとしたのですわ」
美麗様は悪びれもなく言ってのける。
「だが、私は納得できぬな」
帷様がすかさず切り返す。
その言葉に美麗様はピクリと肩をあげる。
「お夏という者は、先日亡くなった者であろう。死人に口なしだ。ならば何とでも言える。現にそなたは先程、伊桜里にお世継ぎを頼むと託されたなどと申していたが、私はそうは思わぬ。何故ならば、お前は伊桜里を妬み、嫌がらせをしていたそうじゃないか」
帷様は真っ直ぐに美麗様を見据えた。
「……っ!……何を仰います。そんな事ありません」
「ほう、そうか。何故ないと言い切れる」
「そ、それは」
「東雲家が代々将軍として君臨する。それは何故だと思う?」
ノリに乗った帷様がニヤリと口元を歪ませ、芝居に拍車がかかった。
「それはな、嘘を嘘と見抜いてきたからだ」
身にまとう嘘の衣を剥ぎ取らんと、帷様は容赦ない視線で美麗様を射抜く。
「わ、私は嘘など」
「では、再度問う。その根付はお前が無くした物ではないのか?」
帷様の瞳が獲物を追い詰めるような、そんな厳しさを増した物になる。
(流石にあの、鋭い視線からは逃げられない)
将軍たる風格と、人を従わせる威厳に満ちた瞳を前にして、私は固唾を飲む。
「……盗まれた物でございます」
長い沈黙の後、美麗様は観念する事なく、またもや嘘をつき通す。
「本当なのだな?」
帷様は念押しをする。
「はい。その通りでございます」
「……ならばお前を信じよう」
「ありがとうございます」
ホッとしたのか、美麗様が美しい完璧な笑みをたたえ、深々と頭を下げる。
(だけどあなたは私達の張った蜘蛛の巣に捕らわれている蝶だから)
私は内心ほくそえむ。
「では明日、荷物を改めさせてもらう。美麗、お前は下がれ」
「お待ちください!」
美麗様が慌てて帷様に食い下がる。
「まだ何か?」
「そ、それはあまりにも横暴です。そんな事をされれば、皆が困りますわ」
「あまりにも横暴とは?」
「皆の荷物を調べること。それと私を暇しようとなさっている事です」
美麗様は焦りと怒りが混ざったような表情で主張する。
「ほぅ、ではどうしろと言うのだ?」
「それは……」
美麗様は口籠る。
「はっきり言わねば分からんぞ?」
帷様が不敵な笑みを浮かべる。
「……」
美麗様は悔しそうな顔をし、唇を噛んだ。
「美麗よ、私は興が削がれたと言っている。そなたは私の言う事が聞けぬと言うのか?」
苛々とした様子で帷様が大きな声を出す。
流石にこれには美麗様も怯えた表情になる。
「そ、そういうわけでは……」
美麗様は言葉を詰まらせ俯く。
「ならばさっさと部屋に戻り、大人しくしておれ」
「はい……」
力無く返事をし、美麗様はすごすごと立ち上がる。
そして私をきっちり睨みつけると肩を落とし、退室していったのであった。
「ここの生活はどうだ、不自由ないか」
帷様が目の前に座った私に尋ねる。
因みにこの場所は、美麗様が先程まで陣取っていた特等席だ。
「はい。皆様とても良くして下さります」
笑顔で答えつつ、私は新たに用意された徳利で、帷様が手にしたお猪口にコポコポと酒を注ぐ。
「それは良かった。何か困った事があれば、すぐに私に言うがいい」
帷様が台本通り、私に優しく微笑む。
「でしたら、一つほど」
私はねだるように帷様を見つめる。
「構わん、言ってみろ」
帷様がお猪口を口に運ぶ手を止め、問いかけた。
「実は、先程このようなものを拾いまして」
私は袂から、手毬を模した根付を取り出す。
「どなたのかご存知ですか?あまりに素敵なので、落とされた持ち主もきっと、探してらっしゃるかと」
指先でつまんだ根付を帷様に見せるついでにと言った感じ。わざとらしく美麗様にも見せつけた。
「ヒッ」
美麗様から息をのむ声が聞こえた。
(そりゃそうよね。あなたの物なんだから)
私が摘んでいる小さな根付は、宇治の間で息絶えた状態で発見された、お夏さんが右手にしっかりと握っていたものだ。検使が厳重に保管していた物を、今日この時のためにお借りしたのである。
「美麗様、どうかされましたか?」
私は心配するふりをして、美麗様に近寄る。
「いえ……何でもありませんわ」
扇子を広げ顔を半分隠しながら、美麗様が答えた。
「ふーん、本当に?」
「えぇ、本当ですとも!」
美麗様が鋭い目つきで睨んでくる。
「ではこの根付に美麗様は見覚えはないと」
私はあえて、挑発するように言った。
「知りません!!」
美麗様はピシャリと言い放つ。
「そうですか。これほどに美しい物ですから、てっきり美麗様のものだと思ったのですが。違うのですね?」
私はしつこく確認する。
「違いますわ」
美麗様は私を睨みつけながら、はっきりと否定する。
「いおり、お主はどこでそれを拾ったのだ?」
今まで黙って美麗様と私のやりとりを聞いていた帷様が、美麗様に餌を撒く準備を開始する。
「それが、宇治の間の前なのです」
私の言葉に美麗様の目が大きく見開いた。
「宇治の間だと?それはつまり……」
わざとらしく言葉を切る帷様。
「先日、哀れな御末が亡くなった場所でございます」
岡島様が冷静な声ですかさず答える。
「ふむ。実にあれは残念な一件だった。しかし一体何故、そのような場所に」
帷様が顎に手を当て、思案する表情になる。
「確かあの日は御広敷添番達と男ばかりで検分したように記憶しているのだが」
帷様が顎を撫でながらわざとらしい声を出す。
「それよりも、何故あなたは宇治の間に無断で行ったのですか」
岡島様が咎めるような声で私に問いかける。まるで本当に叱られているかのような気持ちになり、私はシュンとなる。
「実はお夏さんと面識がありました」
私は岡島様の横に控える正輝に顔を向ける。
「ですから、どうしても花をたむけたいと思い、宇治の間に」
声を作った正輝が答える。
「そのような勝手な事が許される訳がないでしょう」
岡島様が怖い顔で私を睨んだ。
迫真の演技に、思わず怯む。
「申し訳ございません。けれど結局怖くて中に入る事は出来ませんでした」
正輝の言葉に俯き、私は反省を示すように、根付をジッと見つめる。
そして……。
「でも、私は見たのです」
消え入りそうな声で、爆弾を投下する。
「何を見たのだ?」
帷様が興味深げな顔を作り、続きを促す。
「宇治の間を少しのぞいた時、部屋に置き手紙のような物があったのを」
私は震える両手で自分の身体を抱き締める。
「置き手紙だと?」
「はい。私は怖くて中に入れませんでした。ですから、公方様にその手紙を取って来て頂きたいのです。きっとお夏様の遺言だと思うから」
私は言い終えると、しくしくと涙を流して見せた。
「では今すぐ、取りに参ろう」
お猪口を宗和膳の上に置き、腰を浮かしかけた帷様。
「いいえ、なりません」
美麗様も腰を浮かし、慌てた様子で帷様に声をかける。
「そなたは何故、私を止める」
美麗様をしっかりと見つめ、帷様が尋ねた。
「宇治の間には不吉な言い伝えがあるからです。それにこのような時間に出歩くなど、公方様の身に何かあっては困ります」
美麗様が必死になって帷様に訴える。
「不吉な言い伝えか、岡島どう思う?」
気にする素振りを見せ、一旦腰を落ち着ける帷様。
「確かに明日になさった方がよろしいかと」
「ならば、明日、宇治の間を再度検分いたす」
「よろしいかと」
明らかにホッとした様子の美麗様。
しかし私達の反撃の狼煙は上がったまま。
「そう言えば、そなたの持つ根付を見て思い出したのだが」
先程置いたお猪口を手にし、帷様がまたもや話題を根付に戻す。
「貴宮が美麗に根付を贈ったと言っていた。大変意匠の凝った物だと聞いたのだが、是非一度、この目で確認してみたいものだな」
帷様はいい終えると、実に美味しそうな顔で、口に運んだお猪口から酒をクイッと飲み干した。
「そ、それは」
美麗様の顔色がサッと青ざめる。
「そうだ、折角の機会だ。そなたの根付と、いおりが拾った物。どちらがより優れているか、比べてみるか。持ってこい」
帷様が残酷な言葉を美麗様に投げる。
その脇で、私は帷様の手にしたお猪口に酒を注ぐ。
「まぁ!なんて意地悪なお方でしょう。そのような事、できるわけがないではありませんか」
美麗様はしおらしく泣きそうな表情を作ると、首を横に振った。
「一体何故、意地悪であると申すのだ」
「私は公方様の奥泊まりに合わせ、このような格好です。ですから、外を出歩く訳には参りません」
美麗様は実に悲しげに訴える。
(確かにその格好じゃねぇ……)
私は美麗様の全身に改めて視線を送る。
入念に化粧をしたであろう美麗様は、白羽二重(しろはぶたえ)の下着の上に、同じく真っ白な綸子(りんず)の寝巻きを着ている。さらに言えば、髪の毛は軽く櫛巻にしただけ。確かにウロウロと御所内を出歩るける姿ではない事は確かだ。
(そして、いつもよりずっと、不安感が増しているはず)
人は身に纏う衣装によって、思いのほか気持ちが左右されがちだ。
お気に入りの着物に身を包めば、気分が良くなるし、帯の色を失敗したなと思った日は、知らず識らずの内に気が落ち込んだりするものだ。
つまり今の美麗様は、いつも羽織る煌びやかな打ち掛けすら身に纏わない、身ぐるみ剥がされた状況。すなわちそれは、本来の自分を曝け出した状況に近い。そして自ずと、精神的に脆くなるというわけで。
(悪いけど、容赦しないから)
私は心で美麗様に宣戦布告を言い渡す。
「そなたが戻らなくとも良い。岡島、お前が手配してくれ」
「かしこまりました」
見張り番のように部屋の隅にいる岡島様が、両手をついて頭を下げる。
「いいえ、困ります」
美麗様が慌てたように腰を浮かす。
「困るだと?」
帷様がすかさず食いつく。
その様子は、まるで釣り糸から伸び、水面に着水している浮きが、一瞬沈み波紋を広げた。その瞬間を見逃すまいと釣り竿を引くという勢いだ。
「それは……わ、私の持ち物に触らせたくないので」
「何故だ?」
「さ、最近泥棒騒ぎがありましたので。そう、そう言えば、貴宮様に頂いた根付。それもどうやら盗まれてしまったようなのです」
美麗様は途端に明るい表情になった。
「なるほど、そういうことか。ならば何故、最初に盗まれたと言わなかったのだ」
帷様が畳み掛けるように問いかける。
「申し訳ございません。久しぶりに公方様とお会いして、緊張していたもので」
余裕を取り戻したのか、美麗様はいけしゃあしゃあと嘘をつく。
「そうか。しかし、大奥で泥棒が出たとなると、放置しておけぬ。さてどうしたものか」
帷様はわざとらしく顎に手を当て思案する。
その姿を眺めながら、私は思う。
(やっぱり美麗様は一筋縄ではいかない)
勿論私達も美麗様が「その根付は私のものです」などと、正直に申し出る訳がないと想定している。よって周到に準備をして臨んでいるつもりだ。しかしそれらを全て見事に交わされるのではないかと、少々不安になる。
「公方様、でしたら明日、皆の持ち物を改めさせてはいかがでしょう?」
岡島様が提案する。
「おぉ、それは良い案だな。早速明日――」
「なりませんわ!!」
美麗様が焦った顔で、力強く否定する。
「どうしてですか?」
帷様の代わりにあどけなさ全開で私は尋ねる。
「どうしても何も、そんなことをされてはたまりませんわ」
美麗様は必死になって言い繕う。
「ふむ。では美麗よ。そなたの根付が盗まれたという証拠はあるのか?」
「ありますとも!」
美麗様は即答した。しかしすぐに「しまった」といった表情になる。
「ほう、では示してみるが良い」
「それは……」
美麗様は口籠る。
「何だ?ないのか?そなたは私に嘘を申したというのか?」
「い、いえ」
「では明日までに根付が盗まれたと、そう思う根拠を証明せよ。もしできなかった場合は、美麗の根付を盗んだ者を探し出すために、大奥にいる全ての者に対し、荷物を改めさせるとする」
帷様が厳しい顔で言い放つ。
「そ、それは無理です。だ、だってお夏が、そう。お夏が盗んだのです。あの娘は手癖が悪いと有名です。岡島様もご存知でしょう?」
美麗様はまたもやひらめいたとばかり、つらつらと早口で自分の無実を主張する。
先程話題にした、幽霊騒ぎの伊桜里様に続き、お夏様までもを自分の言いように利用している。
(許せない)
私は思わず膝に置いた拳を握った。
「岡島、お夏という者の手癖が悪いというのは本当なのか?」
「はい、大変申し訳にくい事ですが、間違いございません」
「なるほど。それならば美麗が潔白である可能性が高いということか」
「ありがとうございます」
美麗様はほっとした表情を浮かべる。
「そうか、盗まれたのか」
「はい。きっとあの女狐は、貴宮様から頂いた私の根付を盗み、売り払って金にしようとしたのですわ」
美麗様は悪びれもなく言ってのける。
「だが、私は納得できぬな」
帷様がすかさず切り返す。
その言葉に美麗様はピクリと肩をあげる。
「お夏という者は、先日亡くなった者であろう。死人に口なしだ。ならば何とでも言える。現にそなたは先程、伊桜里にお世継ぎを頼むと託されたなどと申していたが、私はそうは思わぬ。何故ならば、お前は伊桜里を妬み、嫌がらせをしていたそうじゃないか」
帷様は真っ直ぐに美麗様を見据えた。
「……っ!……何を仰います。そんな事ありません」
「ほう、そうか。何故ないと言い切れる」
「そ、それは」
「東雲家が代々将軍として君臨する。それは何故だと思う?」
ノリに乗った帷様がニヤリと口元を歪ませ、芝居に拍車がかかった。
「それはな、嘘を嘘と見抜いてきたからだ」
身にまとう嘘の衣を剥ぎ取らんと、帷様は容赦ない視線で美麗様を射抜く。
「わ、私は嘘など」
「では、再度問う。その根付はお前が無くした物ではないのか?」
帷様の瞳が獲物を追い詰めるような、そんな厳しさを増した物になる。
(流石にあの、鋭い視線からは逃げられない)
将軍たる風格と、人を従わせる威厳に満ちた瞳を前にして、私は固唾を飲む。
「……盗まれた物でございます」
長い沈黙の後、美麗様は観念する事なく、またもや嘘をつき通す。
「本当なのだな?」
帷様は念押しをする。
「はい。その通りでございます」
「……ならばお前を信じよう」
「ありがとうございます」
ホッとしたのか、美麗様が美しい完璧な笑みをたたえ、深々と頭を下げる。
(だけどあなたは私達の張った蜘蛛の巣に捕らわれている蝶だから)
私は内心ほくそえむ。
「では明日、荷物を改めさせてもらう。美麗、お前は下がれ」
「お待ちください!」
美麗様が慌てて帷様に食い下がる。
「まだ何か?」
「そ、それはあまりにも横暴です。そんな事をされれば、皆が困りますわ」
「あまりにも横暴とは?」
「皆の荷物を調べること。それと私を暇しようとなさっている事です」
美麗様は焦りと怒りが混ざったような表情で主張する。
「ほぅ、ではどうしろと言うのだ?」
「それは……」
美麗様は口籠る。
「はっきり言わねば分からんぞ?」
帷様が不敵な笑みを浮かべる。
「……」
美麗様は悔しそうな顔をし、唇を噛んだ。
「美麗よ、私は興が削がれたと言っている。そなたは私の言う事が聞けぬと言うのか?」
苛々とした様子で帷様が大きな声を出す。
流石にこれには美麗様も怯えた表情になる。
「そ、そういうわけでは……」
美麗様は言葉を詰まらせ俯く。
「ならばさっさと部屋に戻り、大人しくしておれ」
「はい……」
力無く返事をし、美麗様はすごすごと立ち上がる。
そして私をきっちり睨みつけると肩を落とし、退室していったのであった。