東雲(しののめ)家の安泰と万民の平安を祈願するために建立(こんりゅう)された、江戸でも随一の規模を誇る天英寺(てんえいじ)。花見の時期になるとごった返すその場所は、江戸に住む庶民の間で、共同の庭といった位置付けだ。

 岡島(おかじま)様と私は、東雲家の菩提寺(ぼだいじ)も兼ねるその寺の表門に、駆け込むように辿り着いた。

 (任務、半分完了……)

 私は両膝に手を添え、前かがみになりながら息を整える。

 閑静な雰囲気の中、吸い込む空気に境内(けいだい)に植えられた木々と池の水の匂いが混じるのを感じながら、ようやく一息つく。

「ご苦労」
「あ、いえ。打ち掛け姿で走らせる事になってしまい」

 私は隣に並び、息一つ乱れていない岡島様の頭を見て絶句する。

 (なっ!?)

 記憶が正しければ、先程まで岡島様は位ある女性が正装時にする髪型だったはずだ。
 それは(なが)かもじと呼ばれるつけ毛を付け、水引などを結ぶようにゆるやかに長い髪を結った、大垂髪(おすべらかし)という髪型。

 それなのに今私の目の前にいるのはまるで男性のように、頭頂部を剃り上げた月代(さかやき)になっている。

 そしてゆるく結んでいたはずの横髪はざんばらな感じに乱れまくっていた。

 それはまるで。

落武者(おちむしゃ)がいる……」
「無礼な事を言うな。そしてまじまじと見るな」
「も、申し訳ありません」

 叱られた私は頭を下げる。そして今度は岡島様の手にしっかりと握られた、黒い繊維の塊を発見してしまう。

「まさかのかつら……」
「まさかのではない。これは誰がどうみてもかつらだ」

 ひらひらと黒い毛の塊を私の目の前で揺らす岡島様。

 (わけが、わからない)

 私はひたすら困惑し、目を(しばたた)く。

「今日はご苦労であった。お前の逃げ足、そして裏道の知識には舌を巻いた。天晴(あっぱれ)れなものだ。では御免」

 やたら背の高い岡島様は言い終えると、私を置いてスタスタと本堂の方に歩み始めてしまった。

 (やっぱ男……)

 肩を揺らして歩く姿に、拭い去れない違和感を抱えつつ、気づく。

「あ、岡島様。お帰りはどうされるのですか?」

 私は父に「江戸城まで無事に送り届けること」と言いつけられている。よってここで「はいさようなら」と別れるわけにはいかないのである。
 
 私は小走りで、既に距離があいた場所で立ち止まった岡島様に追いつく。

「ん?もうお前の任は(しま)いだ。帰りは俺一人で帰る」
「俺……」

 (やっぱり男なの?)

 しかし大奥は男子禁制のはずだ。けれど目の前の岡島様を形取るものは、なんとなく男性であることを示しているような。

 頭からつま先まで。
 岡島様の全体に視線を動かし違和感を確認する。

「まさかお前は、まだ俺が岡島だと信じているのか?」

 謎の落武者様は言い終えると、自分の発言がおかしかったのか、口元を緩めた。

 落武者がニヤニヤする姿は、正直怖い。
 思わず薄目になると、落武者様はコホンと一つ咳払いをした。

「俺は男だ。訳あって岡島と入れ替わっていた」
「では、本当の岡島様はどちらに?」
「岡島は既に墓参りを済ませ大奥に戻った頃だろうな。今頃主人と報告がてら茶でも飲んでいるかも知れん」
「え」

 (まさか私達が(おとり)に使われたってこと?)

「あの浪人(ろうにん)は?」

 流石に仕込みだとは思いたくはない。
 私は駕籠(かご)の周囲に血を吐き出し、息途絶えていた浪人の姿を思い出す。

 顔を歪め、白目を剥き、ピクリともしない姿は、その辺の歌舞伎役者より迫真に迫るものがあった。あれがやらせだとしたら、あの盗人(ぬすっと)浪人は、かなりの役者ものに違いない。

「駕籠に襲いかかったもの。あれは仕込みなどではない。よって正澄(まさずみ)がひっ捕えたのち、町奉行(まちぶぎょう)に引き渡すであろう。そして吟味方(ぎんみがた)に取り調べを受ければ、万事解決だ」
「なるほど」

 納得したような、出来ないような。
 複雑な気持ちになり、つい眉間に皺を寄せてしまう。

「騙すような形になった事は謝る」

 私の顔色をうかがい、少しバツの悪そうな表情をみせる落武者様。

「今回の事は知らないに限る。知ったところで気持ちの良い話ではないからな」

 落武者様はどこか(うれ)いある表情でため息をついた。

「よって、お前の任はここまでだ。お前達伊賀者のお陰で、今日は無事に岡島も墓参りが出来た。また何かあれば、よろしく頼む」

 そう言って、落武者様はかつら片手に颯爽(さっそう)と歩き始めてしまう。

「落武者様は、この後どうされるのですか?」

 (まさかその格好で帰るのだろうか)

 変質者一歩手前……いや、むしろ「そのもの」といった格好で江戸市中を歩くのはオススメしないし、したくない。

「ああ……この格好か。本堂に着替えが用意されているであろうから、気にするな」
「なるほど。それは何よりです」

 私は落武者様が引っ立てられる未来が回避された事にホッとする。よくわからないけれど、感じる雰囲気から悪い人ではなさそうだからだ。

「つかぬ事を聞くが、お前は御広敷添番(おひろしきそえばん)である、服部(はっとり)正輝(まさき)の妹なのか?」

 突然問われ、私は固まる。

 私は確かに今落武者様の口から飛び出した、服部正輝の妹、琴葉(ことは)である。

 (だけどそれを認めるわけにはいかない)

 何故なら、正輝は私にとって双子の兄だから。

 昔からここ桃源国では「双子は凶兆(きょうちょう)」と言われている。
 よって服部家にとって、私の存在は公にして良いものではない。その事をわきまえているからこそ、生きることを許されているのである。

 (そっか、さっき印籠(いんろう)をうっかり見せちゃったから)

 自分の軽はずみな行動に、思わず頭を垂れる。
 とは言え、あの状況では仕方がなかったのも事実で。

「すまぬ、気にするな。お前は正輝とは関係のないくノ一だ」

 口を噤んでいると、落武者様が都合よく勘違いしてくれた。

 (この波に乗らない手はない)

 私はコクりと一つ|肯いてから、普段からよく使う言葉を告げるため、口を開く。

「私は伊賀者、くノ一連い組の者でございます。それ以下でもそれ以上でもありません。ですから、正輝様とは何の関係もなく、ただの凡庸(ぼんよう)な娘でございます」

 出来れば印籠を見せた記憶がなくなればいい。そう願いながら私は力強く言い切る。

「……そうか」

 何故か残念そうな声色になる落武者様。

「ご武運をお祈りしております」

 私はこれ以上詮索されてはたまらないと、深々と頭を下げ、話を切り上げる雰囲気を醸し出す。

「もう二度と会うことはなかろうが、縁があればまた。では、失礼する。道中気をつけて帰れよ」

 口早に私に告げると、落武者様は黒い繊維の塊を揺らしながら本堂へと歩きはじめる。

「ご心配ありがとうございます」

 私は落武者様の背中に最後に声をかける。すると落武者様は、私の声に応えるように、黒い繊維の塊を肩の上で振った。

「ふふふ、面白い人」

 自然に笑みがこぼれる。

 (結局、あの人は誰なんだろう?)

 自分も名乗り出なかったけれど、彼もまた名乗りをあげなかった。

 (不思議な人だったな)

 貴重な経験をしたと、心の中で感慨深く思う。

「あ、でも」

 ふと気づく。

「あの人の顔、どこかで見たことがあったような……」

 しかしどこで会ったのか思い出せず、まぁいいかと気持ちを切り替えることにした。

 落武者様が言った通り、縁があればまた何処かで会うだろう。二度と会う事がなければそれまでの仲だった、ということだ。

「さて、私も帰ろっと」

 私は伸びを一つし、謎多き落武者様に背を向け歩き出したのであった。