正妻となる貴宮様の周囲は主に京出身の人間で固められているそうだ。
その筆頭が、大奥女中における最高位であり、京都の公家出身者である、上臈御年寄である姉小路様である。
表向き姉小路様は奥女中の最高位とされているが、実際は将軍付きの御年寄である岡島様が大奥内を取り仕切っている。そのため、姉小路様は御台様と呼ばれる、貴宮様の相談役。つまり簡単にいえば、話し相手となっているようだ。
普段ならば、姉小路様と岡島様はお互いあまり干渉しあわず、それなりに上手くやっているようだが、今日ばかりはそうもいかなかった。
何故ならお仙ちゃんと私のせいらしい。
だけど私はお仙ちゃんと仲良く「火の用心、さっさりましょう」と、いつも通り夜廻りをしていただけだ。
確かに上御鈴廊下をちゃっかり見学したり、お仙ちゃんが幽霊を見たりしたが、それは普通の任務中だってありえること。
それなのに突然暗闇からヌッと現れた団体に絡まれた。そして有無を言わさぬ勢いで、貴宮様付きの奥女中達に連れられ、御殿の小部屋に案内……いや、正しくは押し込まれてしまったのである。
そして、ついには血相を変えた御火乃番頭であるお清様と、何故か岡島様までもが、こちらも供のものをゾロゾロと従え現れた。
そして現在はというと、廊下にあふれんばかりの奥女中達が見守る中、目の前では姉小路様と岡島様が、まるで蛇対蛙と言った感じで、睨み合っているという状況だ。
(全く意味がわからない)
正直どうしてこうなったのか。その理由がいまいち理解出来ない私は正座し、神妙な面持ちを作り、反省したかのように俯いている。
(だってそれしか出来ないし)
ちなみにお仙ちゃんはこの緊急事態に遭遇するや否や、緊張のせいか私の背中で突然気を失い、お清様に介抱される形で、難なく修羅場から離脱している。
(ずるい)
私もできる事なら気絶したい。
(でも私はくノ一連い組の女だから)
逃げも隠れもしない所存だ。
「このような者が立ち入るなど、聞いておりまへん」
最初に口を開いたのは、うっとりとするような美しい青碧色の打掛を羽織る壮年の女性、姉小路様だ。
姉小路様がお召になった打掛は光沢があり滑らかで、織模様がくっきりと浮かび上がるのが特徴な、花嫁衣装などにも使われる事の多い、緞子織と呼ばれる高級品である。
「しかも見廻りと申し、あちらこちらをウロウロと、まるで鼠のように這い回っとった。なぁ、そうやろ?」
「さようであらしゃいます」
御殿に仕える奥女中達が、まるで歌っているかのようにピタリと声を合わせる。
(完璧な統率力)
しかし少し不気味だ。
「姉小路殿、これは異な事を申される。この娘は御火乃番。ですからここは駄目、あそこは駄目などと、そのような決まり事はありませぬ」
次に言葉を発したのは、黒地に金で菊の柄が入った打掛を纏う老年の女性、岡島様だ。一見すると、岡島様の羽織る打ち掛けは染めに見える。しかし目を凝らして見れば全て縫いだった。
武家の娘だとしても、こんな立派な打ち掛けは、特別な日にしか仕立てられない逸品だ。
(一体いくらするんだろう)
一際手の込んだ打掛を前に、つい下世話な事を考えてしまう。
「御殿を隅々まで見廻りすること。それが公方様より御火乃番に課せられた使命です。そうであろう?」
「仰るとおりです」
今度は岡島様に仕えているであろう、柄の違う小袖に身を包んだ女性達が声を揃えて答えた。
(うん、こっちもちょっと怖い)
私は呑気にそんな感想を抱く。
何故なら口を挟む頃合いがわからず、ひたすら無力と化した私は、ただただ貝のように黙り込み、二人のやり取りを見つめる事しか出来ないからだ。それに江戸城大奥、奥女中界隈の頂点二名を前にして、間に割り込む勇気もない。
「大体そないなこと言うたら、公方様の正妻である御台様のお側付きたる私達のほうが格上やあらしまへんか」
「その通りであらしゃいます」
再度、御台様付きの奥女中達の揃った声が上がる。
「そもそもここは御台様の御殿であらしゃいますよ」
「勘違いなさらないで下さいませ。ここは公方様の御殿でございます」
「そうでしたか。しばらくお目にかかれないのやから、すっかり」
姉小路様はニヤリと含みをもたせる笑みを岡島様に向ける。
(それはつまり、光晴様の存在を忘れてたって言いたいの?)
私は心で自分のために翻訳する。
ホホホと扇子で口元を覆い、余裕の笑みを浮かべる姉小路様。一方将軍付きである岡島様のおでこには、青筋が浮かんでいる。
(もうどっちだっていい。とにかく帰りたい)
緊迫した状況に、心は既に半泣きだ。
「今は公方様が陣頭指揮を取られ、大奥内を夜廻り中です。ですからご協力をと、事前に申し上げたはずですが」
「ええ。そやけど、あまりに大きな声をあげるもんやから。御台様にご迷惑がかかると思い、少し忠告しよう思たんどす」
姉小路様が私を睨む。
(なるほど。私が絡まれたのは、大きな声を出したからだったのか)
でもそれは……。
「これは公方様の命です。しかも先程申し上げました通り、こちらの者は公方様付きの御火乃番。職務を全うしていただけでございます」
私が言いたい事を岡島様が言ってくれた。
(しかもさっきと合わせて二回も)
この瞬間、私の気持ちは断然岡島様派に傾く。
「御台様は未だ、なれない場所で気ぃ使ってあらしゃいます。せやから夜くらい、もう少し気ぃ使うたってもよろしいんやないか、そういうてはりますんや」
「それは失礼いたしました。ただ、今回の事は御台様が公方様にお頼みになった事と存じ上げております。ですから、何卒、ご協力願えませんか」
何卒の部分を強く強調する岡島様。どうやら、朝廷対公儀の図が大奥で繰り広げられている。それは本当の事で、しかも私は今まさに、その現場に立ち会っているようだ。
「岡島殿は、御台様のせいや言いたいんどすか?」
「いいえ、そういうわけではございません」
「御台様は、公方様の事を思て頼んだ言うのに、えらいな言い方どすなぁ」
「その件は有難いことと、皆で感謝しております。しかし、御台様におかれましては、こちらに歩み寄ろうとなさる努力も、もう少しばかり必要なのではありませんか?」
「まぁ、なんちゅう物言いやろう。ほな御台様は何の努力もしてへん言うんどすか?」
岡島様の踏み込んだ意見に、今度は姉小路様の額に青筋がピキリと立つ。
(こ、これはどうしたらいいの)
まさに一触即発の雰囲気だ。
しかもその原因は私。
(こ、ここは、分け入るべきなのか?)
勇気を出し、腰を浮かしかけたその時。
「姉小路、岡島殿。そこまでにして頂けまへんか」
鈴の音の鳴るような、澄んだ声。
その声に導かれるように、私はチラリと部屋の入り口に顔を向ける。
するとそこには、髪をすっかり下ろし、白い根巻きの上に薄紅色の打掛を纏う、年若い女性が凛とした佇まいで、部屋の中に侵入したきた。
(うわぁ、いちまさんみたい)
私は子どもの頃、父から貰った市松人形を咄嗟に思い浮かべる。
丸顔で黒目がはっきりと大きく、何処か上品な顔立ちをしたその人形。
私はその可憐な子を、あろうことか、くノ一に見立て遊んでいた。傍若無人に世を苦しめる悪と見立てた、折据(折り紙)で折ったやっこさんを、当時は何体も成敗したものだ。
突如現れた、市松人形のようにこぢんまりとした愛らしい女性を見て、私はそんな懐かしい記憶をふと、思い出す。
「御台様」
姉小路様の声に私はハッとする。
(こ、この御方が御台様!!)
理解した私は、慌てて入り口付近に控える者達同様、頭を下げた。
「みなで取り囲んで」
衣擦れの音をさせながら、スラリスラリと私の元に貴宮様の気配が近づいてくる。一歩ずつ、私に近づくごとに、おだやかな和の香りが私の鼻にしっかりと漂ってくる。
「ほんまに、かわいそうに」
貴宮様は私の前に座り込むと、そっと肩に手を置いた。
「こないに怯えて。堪忍しとくれやすな」
そう言って、まるで幼子をあやすように、私の背中をポンポンと軽く叩く。
(なんてお優しい方なんだろう)
私は一瞬で貴宮様派に鞍替えしたい気持ちに駆られる。
「貴宮様、そないな薄着で出歩いては、お風邪をひかれてまいます」
姉小路様が慌てた様子で、貴宮様に近づく。
「誰か、すぐに羽織を」
「大丈夫や、これだけ人が集まっていたら、寒くない」
「そないなわけにはいかしまへん。誰か羽織を」
「全く心配性なんよ、姉小路はなぁ」
貴宮様はしとやかに微笑んだ。
先程まで殺伐としていた部屋の中は、貴宮様が纏うおっとりと和やかな雰囲気が充満する。
(何だかすごい)
この部屋にいる人がその一挙一頭足に注目している中、緊張すらせず、堂々と部屋の雰囲気を変えていく様を目の当たりにし、私は「流石京から来たお姫様だ」と圧倒される。
「何故このように人で溢れているのだ」
突然男の声がして、私は声のしたほうを見ようと振り向きかけ、反射的に頭を下げる。何故なら、部屋の中に大きな衣擦れの音が響き、皆が一斉に腰を折り、かしこまった形で頭をさげたからだ。
(これはまさか、公方様!?)
私の心はまたとない機会にうずうずする。
しかし集団でひれ伏す中、頭を上げる訳にはいかない。
(でも、みたい)
私は一人葛藤し、もどかしさのあまり畳に爪を立ててしまった。
「一体何の騒ぎなんだ」
頭を下げたまま、あれと思う。
(この声、なんか)
そう思った瞬間、馴染みある白檀の香りが鼻先を掠る。これは新たに部屋に紛れ込んで来た人物が纏うものに違いない。
(でも、この香りは……)
「一体何があったのか、私に説明せよ」
「それは」
みんなを代表し、私の隣に座っていた貴宮様が顔をあげる。その瞬間、白檀の香りが貴宮様の髪から放たれる、薮椿の香りに上書きされた。
「幽霊騒ぎについて、いろいろお話を聞きましたんや。わたくしにも力になれる事があるかな思いまして。それにしても、お久しぶりであらしゃいます」
私は頭を上げる機会を失い、全神経を耳から入る情報に集中させる。
(というか公方様ってば、「楽にせよ」。その一言を忘れてるし)
普通は開口一番、下々の者が頭に血がのぼり、胸が帯びで苦しく、腰が痛くならないよう、早めに告げるのが優しさだ。
(そう言えば、公方様は伊桜里様が一番お苦しい時に、美麗様に手を出した不届き者だった)
だから気が利かないのだと、私は一度冷めた怒りを再沸騰させる。
「こんな夜更けに、呑気に話をしていたと言うのか?」
「えぇ。そうどす。殿さまが、わたくしのとこにいらっしゃらへんさかい」
拗ねたような声を出す貴宮様。
「それで、何かわかったのか?」
(完全に無視した)
あんなに可愛らしく拗ねてみせた貴宮様を完全に無視する光晴様。どうやら女心に相当疎いようだ。
(でもまぁ、こんな風に囲まれてたら個人的な話は出来ないか)
私は公平に評価しつつも、早く顔をあげる許可が欲しいと願う。
(だってみたい)
戦線離脱したお仙ちゃんには悪いけれど、これはまたとない機会だ。
特に忌み子である私にとっては、二度と訪れるかどうかわからない。それくらい貴重な場なのである。
「まだ何もわかりまへんけど、これから調べますんや」
「これは、あなたのような方がお遊びで首を突っ込んでいい問題ではない」
「殿さまが伊桜里をお慕いしてらしたように、わたくしにとっても伊桜里は、お姉さまと慕うとった人。せやからわたくしなりに、伊桜里の汚名を晴らしたいんや」
(貴宮様……)
偶然にも同じ思いを抱えている。
だからなのか、貴宮様の言葉一つひとつが私の心を震わせる。
「私はこの件に、これ以上関わらぬように、と言っている」
「でも」
「もうよい。みなも持ち場に戻れ」
苛々とした光晴様の声。
それから衣擦れの音が部屋を支配し、頭を下げたままの私の隣では、貴宮様が姉小路様と共に立ち上がり、部屋を去ろうと足を進めた。
そんな中私は一人緊張していた。
(ついに来た。人生最大の機会が)
私はゆっくりと頭をあげる。
そして生まれて初めて公方様の顔を確認した。
(あぁ、やっぱり)
私の中でさっきからずっと心に渦巻いていた疑惑が確信に変わった。
浪人だというのに、御広敷の役人をしていることも。
女装しているとは言え、男なのに大奥にはいれることも。
夜中にこっそり部屋を抜け出し井戸の中に消えていくことも。
それから最近ずっと、長局の部屋に帰ってこないことも。
(帷様が光晴様だったからなんだ)
私はジッと帷様の顔を見つめる。
「こ……」
驚いた顔をした帷様の唇が「ことは」と私の名前を呟く。その動きを確かめ、私は何故か泣きそうになった。
嬉しいのか、悲しいのか、良く分からない。だけど、涙が溢れそうになる。
私は慌てて体を折ると、再度頭を床につける。
「公方様にご報告したい事がございます」
私は無礼を承知で願い出たのであった。
その筆頭が、大奥女中における最高位であり、京都の公家出身者である、上臈御年寄である姉小路様である。
表向き姉小路様は奥女中の最高位とされているが、実際は将軍付きの御年寄である岡島様が大奥内を取り仕切っている。そのため、姉小路様は御台様と呼ばれる、貴宮様の相談役。つまり簡単にいえば、話し相手となっているようだ。
普段ならば、姉小路様と岡島様はお互いあまり干渉しあわず、それなりに上手くやっているようだが、今日ばかりはそうもいかなかった。
何故ならお仙ちゃんと私のせいらしい。
だけど私はお仙ちゃんと仲良く「火の用心、さっさりましょう」と、いつも通り夜廻りをしていただけだ。
確かに上御鈴廊下をちゃっかり見学したり、お仙ちゃんが幽霊を見たりしたが、それは普通の任務中だってありえること。
それなのに突然暗闇からヌッと現れた団体に絡まれた。そして有無を言わさぬ勢いで、貴宮様付きの奥女中達に連れられ、御殿の小部屋に案内……いや、正しくは押し込まれてしまったのである。
そして、ついには血相を変えた御火乃番頭であるお清様と、何故か岡島様までもが、こちらも供のものをゾロゾロと従え現れた。
そして現在はというと、廊下にあふれんばかりの奥女中達が見守る中、目の前では姉小路様と岡島様が、まるで蛇対蛙と言った感じで、睨み合っているという状況だ。
(全く意味がわからない)
正直どうしてこうなったのか。その理由がいまいち理解出来ない私は正座し、神妙な面持ちを作り、反省したかのように俯いている。
(だってそれしか出来ないし)
ちなみにお仙ちゃんはこの緊急事態に遭遇するや否や、緊張のせいか私の背中で突然気を失い、お清様に介抱される形で、難なく修羅場から離脱している。
(ずるい)
私もできる事なら気絶したい。
(でも私はくノ一連い組の女だから)
逃げも隠れもしない所存だ。
「このような者が立ち入るなど、聞いておりまへん」
最初に口を開いたのは、うっとりとするような美しい青碧色の打掛を羽織る壮年の女性、姉小路様だ。
姉小路様がお召になった打掛は光沢があり滑らかで、織模様がくっきりと浮かび上がるのが特徴な、花嫁衣装などにも使われる事の多い、緞子織と呼ばれる高級品である。
「しかも見廻りと申し、あちらこちらをウロウロと、まるで鼠のように這い回っとった。なぁ、そうやろ?」
「さようであらしゃいます」
御殿に仕える奥女中達が、まるで歌っているかのようにピタリと声を合わせる。
(完璧な統率力)
しかし少し不気味だ。
「姉小路殿、これは異な事を申される。この娘は御火乃番。ですからここは駄目、あそこは駄目などと、そのような決まり事はありませぬ」
次に言葉を発したのは、黒地に金で菊の柄が入った打掛を纏う老年の女性、岡島様だ。一見すると、岡島様の羽織る打ち掛けは染めに見える。しかし目を凝らして見れば全て縫いだった。
武家の娘だとしても、こんな立派な打ち掛けは、特別な日にしか仕立てられない逸品だ。
(一体いくらするんだろう)
一際手の込んだ打掛を前に、つい下世話な事を考えてしまう。
「御殿を隅々まで見廻りすること。それが公方様より御火乃番に課せられた使命です。そうであろう?」
「仰るとおりです」
今度は岡島様に仕えているであろう、柄の違う小袖に身を包んだ女性達が声を揃えて答えた。
(うん、こっちもちょっと怖い)
私は呑気にそんな感想を抱く。
何故なら口を挟む頃合いがわからず、ひたすら無力と化した私は、ただただ貝のように黙り込み、二人のやり取りを見つめる事しか出来ないからだ。それに江戸城大奥、奥女中界隈の頂点二名を前にして、間に割り込む勇気もない。
「大体そないなこと言うたら、公方様の正妻である御台様のお側付きたる私達のほうが格上やあらしまへんか」
「その通りであらしゃいます」
再度、御台様付きの奥女中達の揃った声が上がる。
「そもそもここは御台様の御殿であらしゃいますよ」
「勘違いなさらないで下さいませ。ここは公方様の御殿でございます」
「そうでしたか。しばらくお目にかかれないのやから、すっかり」
姉小路様はニヤリと含みをもたせる笑みを岡島様に向ける。
(それはつまり、光晴様の存在を忘れてたって言いたいの?)
私は心で自分のために翻訳する。
ホホホと扇子で口元を覆い、余裕の笑みを浮かべる姉小路様。一方将軍付きである岡島様のおでこには、青筋が浮かんでいる。
(もうどっちだっていい。とにかく帰りたい)
緊迫した状況に、心は既に半泣きだ。
「今は公方様が陣頭指揮を取られ、大奥内を夜廻り中です。ですからご協力をと、事前に申し上げたはずですが」
「ええ。そやけど、あまりに大きな声をあげるもんやから。御台様にご迷惑がかかると思い、少し忠告しよう思たんどす」
姉小路様が私を睨む。
(なるほど。私が絡まれたのは、大きな声を出したからだったのか)
でもそれは……。
「これは公方様の命です。しかも先程申し上げました通り、こちらの者は公方様付きの御火乃番。職務を全うしていただけでございます」
私が言いたい事を岡島様が言ってくれた。
(しかもさっきと合わせて二回も)
この瞬間、私の気持ちは断然岡島様派に傾く。
「御台様は未だ、なれない場所で気ぃ使ってあらしゃいます。せやから夜くらい、もう少し気ぃ使うたってもよろしいんやないか、そういうてはりますんや」
「それは失礼いたしました。ただ、今回の事は御台様が公方様にお頼みになった事と存じ上げております。ですから、何卒、ご協力願えませんか」
何卒の部分を強く強調する岡島様。どうやら、朝廷対公儀の図が大奥で繰り広げられている。それは本当の事で、しかも私は今まさに、その現場に立ち会っているようだ。
「岡島殿は、御台様のせいや言いたいんどすか?」
「いいえ、そういうわけではございません」
「御台様は、公方様の事を思て頼んだ言うのに、えらいな言い方どすなぁ」
「その件は有難いことと、皆で感謝しております。しかし、御台様におかれましては、こちらに歩み寄ろうとなさる努力も、もう少しばかり必要なのではありませんか?」
「まぁ、なんちゅう物言いやろう。ほな御台様は何の努力もしてへん言うんどすか?」
岡島様の踏み込んだ意見に、今度は姉小路様の額に青筋がピキリと立つ。
(こ、これはどうしたらいいの)
まさに一触即発の雰囲気だ。
しかもその原因は私。
(こ、ここは、分け入るべきなのか?)
勇気を出し、腰を浮かしかけたその時。
「姉小路、岡島殿。そこまでにして頂けまへんか」
鈴の音の鳴るような、澄んだ声。
その声に導かれるように、私はチラリと部屋の入り口に顔を向ける。
するとそこには、髪をすっかり下ろし、白い根巻きの上に薄紅色の打掛を纏う、年若い女性が凛とした佇まいで、部屋の中に侵入したきた。
(うわぁ、いちまさんみたい)
私は子どもの頃、父から貰った市松人形を咄嗟に思い浮かべる。
丸顔で黒目がはっきりと大きく、何処か上品な顔立ちをしたその人形。
私はその可憐な子を、あろうことか、くノ一に見立て遊んでいた。傍若無人に世を苦しめる悪と見立てた、折据(折り紙)で折ったやっこさんを、当時は何体も成敗したものだ。
突如現れた、市松人形のようにこぢんまりとした愛らしい女性を見て、私はそんな懐かしい記憶をふと、思い出す。
「御台様」
姉小路様の声に私はハッとする。
(こ、この御方が御台様!!)
理解した私は、慌てて入り口付近に控える者達同様、頭を下げた。
「みなで取り囲んで」
衣擦れの音をさせながら、スラリスラリと私の元に貴宮様の気配が近づいてくる。一歩ずつ、私に近づくごとに、おだやかな和の香りが私の鼻にしっかりと漂ってくる。
「ほんまに、かわいそうに」
貴宮様は私の前に座り込むと、そっと肩に手を置いた。
「こないに怯えて。堪忍しとくれやすな」
そう言って、まるで幼子をあやすように、私の背中をポンポンと軽く叩く。
(なんてお優しい方なんだろう)
私は一瞬で貴宮様派に鞍替えしたい気持ちに駆られる。
「貴宮様、そないな薄着で出歩いては、お風邪をひかれてまいます」
姉小路様が慌てた様子で、貴宮様に近づく。
「誰か、すぐに羽織を」
「大丈夫や、これだけ人が集まっていたら、寒くない」
「そないなわけにはいかしまへん。誰か羽織を」
「全く心配性なんよ、姉小路はなぁ」
貴宮様はしとやかに微笑んだ。
先程まで殺伐としていた部屋の中は、貴宮様が纏うおっとりと和やかな雰囲気が充満する。
(何だかすごい)
この部屋にいる人がその一挙一頭足に注目している中、緊張すらせず、堂々と部屋の雰囲気を変えていく様を目の当たりにし、私は「流石京から来たお姫様だ」と圧倒される。
「何故このように人で溢れているのだ」
突然男の声がして、私は声のしたほうを見ようと振り向きかけ、反射的に頭を下げる。何故なら、部屋の中に大きな衣擦れの音が響き、皆が一斉に腰を折り、かしこまった形で頭をさげたからだ。
(これはまさか、公方様!?)
私の心はまたとない機会にうずうずする。
しかし集団でひれ伏す中、頭を上げる訳にはいかない。
(でも、みたい)
私は一人葛藤し、もどかしさのあまり畳に爪を立ててしまった。
「一体何の騒ぎなんだ」
頭を下げたまま、あれと思う。
(この声、なんか)
そう思った瞬間、馴染みある白檀の香りが鼻先を掠る。これは新たに部屋に紛れ込んで来た人物が纏うものに違いない。
(でも、この香りは……)
「一体何があったのか、私に説明せよ」
「それは」
みんなを代表し、私の隣に座っていた貴宮様が顔をあげる。その瞬間、白檀の香りが貴宮様の髪から放たれる、薮椿の香りに上書きされた。
「幽霊騒ぎについて、いろいろお話を聞きましたんや。わたくしにも力になれる事があるかな思いまして。それにしても、お久しぶりであらしゃいます」
私は頭を上げる機会を失い、全神経を耳から入る情報に集中させる。
(というか公方様ってば、「楽にせよ」。その一言を忘れてるし)
普通は開口一番、下々の者が頭に血がのぼり、胸が帯びで苦しく、腰が痛くならないよう、早めに告げるのが優しさだ。
(そう言えば、公方様は伊桜里様が一番お苦しい時に、美麗様に手を出した不届き者だった)
だから気が利かないのだと、私は一度冷めた怒りを再沸騰させる。
「こんな夜更けに、呑気に話をしていたと言うのか?」
「えぇ。そうどす。殿さまが、わたくしのとこにいらっしゃらへんさかい」
拗ねたような声を出す貴宮様。
「それで、何かわかったのか?」
(完全に無視した)
あんなに可愛らしく拗ねてみせた貴宮様を完全に無視する光晴様。どうやら女心に相当疎いようだ。
(でもまぁ、こんな風に囲まれてたら個人的な話は出来ないか)
私は公平に評価しつつも、早く顔をあげる許可が欲しいと願う。
(だってみたい)
戦線離脱したお仙ちゃんには悪いけれど、これはまたとない機会だ。
特に忌み子である私にとっては、二度と訪れるかどうかわからない。それくらい貴重な場なのである。
「まだ何もわかりまへんけど、これから調べますんや」
「これは、あなたのような方がお遊びで首を突っ込んでいい問題ではない」
「殿さまが伊桜里をお慕いしてらしたように、わたくしにとっても伊桜里は、お姉さまと慕うとった人。せやからわたくしなりに、伊桜里の汚名を晴らしたいんや」
(貴宮様……)
偶然にも同じ思いを抱えている。
だからなのか、貴宮様の言葉一つひとつが私の心を震わせる。
「私はこの件に、これ以上関わらぬように、と言っている」
「でも」
「もうよい。みなも持ち場に戻れ」
苛々とした光晴様の声。
それから衣擦れの音が部屋を支配し、頭を下げたままの私の隣では、貴宮様が姉小路様と共に立ち上がり、部屋を去ろうと足を進めた。
そんな中私は一人緊張していた。
(ついに来た。人生最大の機会が)
私はゆっくりと頭をあげる。
そして生まれて初めて公方様の顔を確認した。
(あぁ、やっぱり)
私の中でさっきからずっと心に渦巻いていた疑惑が確信に変わった。
浪人だというのに、御広敷の役人をしていることも。
女装しているとは言え、男なのに大奥にはいれることも。
夜中にこっそり部屋を抜け出し井戸の中に消えていくことも。
それから最近ずっと、長局の部屋に帰ってこないことも。
(帷様が光晴様だったからなんだ)
私はジッと帷様の顔を見つめる。
「こ……」
驚いた顔をした帷様の唇が「ことは」と私の名前を呟く。その動きを確かめ、私は何故か泣きそうになった。
嬉しいのか、悲しいのか、良く分からない。だけど、涙が溢れそうになる。
私は慌てて体を折ると、再度頭を床につける。
「公方様にご報告したい事がございます」
私は無礼を承知で願い出たのであった。