新参者である私が普段はあまり立ち入る事のない場所がある。それは正妻である貴宮様こと御台所の住む居住区、通称御殿だ。
何故なら御殿は御中臈である美麗様や、御年寄である岡島様が住む長局の一ノ側とは違い、細かな決まりごとがあるから。
『御台様は伊桜里様が亡くなられた事にお心を痛めていらっしゃいます。よって色々とこちらも気を遣う必要があるのよ。だからあなた達にはまだお願い出来ない場所となりますので、立ち入る事のないように』
大奥に潜入し、御火乃番として査を開始した日。御火乃番頭であるお清様が、何となく濁した様子で帷様と私に、遠回しに「御殿に入るな」と言いつけた事を思い出す。
つまり、今回運良く参加した特別な夜廻りで、私は初めて御殿に立ち入る事となったのである。
(まだ新参者だけど、いいのかな?)
そんな風に思わなくもなかったが、今回は天下の将軍光晴様が陣頭指揮を取る、異例の事態だ。よって、特例として許されたのだろうと、勝手に思い込み流す事にした。
「火の用心、さっさりましょう!!」
「火の用心、火の用心!!」
拍子木を鳴らしながら、お仙ちゃんと張り切って大きな声を出す。そしてまるで迷路のように入り組んだ、御殿内の長い廊下を先へと進む。
大小合わせて百を越す部屋がある、と言われている御殿は、貴宮様のために用意された主な部屋だけでも、御休息の間、切型の間、お化粧の間に、御清の間。それに加え、通称御湯殿と呼ぶ「御上がりの湯」と名付けられた風呂などもこの場所に完備されているらしい。
(忍び入る事はないだろうけど)
ここで該当の場所の屋根裏に忍び込め。そんな任務を任されたら、部屋の地図を頭に叩きいれるだけで一ヶ月はかかりそうな気がする。
そんな事を思いながら、蝋燭を立てた手燭によってぼんやりと照らされる内廊下を私達は先に進む。
「ここは昼間に見たら、凄いんだろうなぁ」
私は目前に迫る襖絵に視線を向けながら、思わず声を漏らす。
襖に描かれた見事な孔雀は、狩野派の長と呼ばれる人物が描いたものらしい。
貴宮様の嫁入りに合わせて、張り替えられたのか。それともいつもそうなのか。染み一つない金箔が貼られた襖は、私が持つ手燭の光があたる度、ゆらゆらと美しく輝き、暗闇の中でも存在感を解き放っていた。
「ほんと、綺麗な孔雀ね」
襖絵に見惚れた私は思わず呟く。
「ここは大奥で一番豪華な所だからね。この場所が質素になったら、この国は終わりが近づいている証拠だよ。火の用心ーー!!」
お仙ちゃんは思わず、「なるほど」と頷ける言葉を口にした。
「そう言えば、私は鈴の音を聞かなかったけど、鳴ったっけ?火の用心!!」
「お琴ちゃん、いきなりどうしたのよ?もしかして御鈴廊下のことを言ってる?」
お仙ちゃんが首を傾げる中、私は小さくコクリと首を動かしながら、口も開く。
「うん。そう。今回はお渡りされる目的は違うけど、公方様は大奥へいらした。それなのに何で鈴が鳴らないのかなぁと思って」
私は好奇心から尋ねる。
そもそも江戸城の構造的に、光晴様が普段住まいとされる中奥と大奥の間は、建物が連なっておらず、銅塀できっちり仕切られる形となっている。
その為、光晴様が大奥にお渡りされる時は、中奥と呼ばれる建物から大奥の建物へと繋がる長い廊下を通る事になるのだが、光晴様がその廊下を通るときは、大きな鈴を鳴らす決まりがあると私は聞いていた。
そして中奥と大奥を繋ぐ二箇所の廊下は、鈴を鳴らす事から、それぞれ「上御鈴廊下」、「下御鈴廊下」と呼ばれている。
ちなみに、御鈴廊下と中奥の境に設けられた「御錠口」から大奥側へは、将軍以外の男子は、今回のような特例でもない限り、立ち入ることはできない。
生憎私はその鈴の音を一度も聞いた事がない。何故なら光晴様が大奥を避けているからだ。
(聞いてみたかったなぁ)
折角なら一度くらいその音の音を実際に聞いてみたいと願う。
「そういえば、鳴らなかったね。でもま、お琴ちゃんの言うように今回のお渡りは、お渡りのうちに入らないお渡りだから」
お渡りという言葉を連続で活用するお仙ちゃん。
「そんな話をしてたら、ほら。ここを曲がれば御鈴廊下だよ」
「火の用心!!」
私はお勤めをこなしつつ、期待を込め角を曲がる。するとそこには、とてつもなく長く真っ直ぐな廊下があった。
ひときわひんやりとした風が頬を撫でる。
「火の用心……」
心なしか元気をなくしたお仙ちゃんがピタリと私の横に張り付く。
灯りが隅々まで届かない夜とあって、暗闇に覆われた廊下はまるで出口のない地下道のように思えて、たしかに不気味だ。
「これが御鈴廊下」
私は手燭をかかげ、壁を照らしてみる。すると、鴨居の上にある化粧部材としてつけられた長押から、太い萌黄色をした打紐がいくつもぶら下がっているのが確認できた。それぞれの紐の下には立派な房飾りがついている。
そして何といっても特徴的なのは、いくつも床に向かって垂直に垂れた紐は、各々の中間地点を結ぶように、鈴のついた横紐で結ばれ、襖を塞ぐ形で弓なりにぶら下がっていることだ。
(なるほど。襖を開けると、鈴に触れて音が鳴る仕組みか)
どうやら鈴の音は、お渡りを知らせるだけでなく、侵入者避けの意味もあるようだ。
「ねぇ、ここはいいよ。ほら、鈴に触れたら「お暇ではすまない事になる」ってお清様に言われてるし」
お仙ちゃんはぐいと私の小袖を引き、来た道を戻ろうと振り返った。
「きゃーー!!」
突然お仙ちゃんが悲鳴をあげる。何事かと私も振り向くが、特に何もない。
「い、い、い、今そこに幽霊が」
お仙ちゃんは、しっかりと私の小袖を片手で握り、震える声で告げる。
「そこ?」
お仙ちゃんの示す場所が分からず、私は辺りを見回しながら、一歩前に進もうとする。
「だめ。怖い。無理!!」
お仙ちゃんは私を掴んだまま、一歩たりとも動こうとしない。
「大丈夫よ。私がいるし」
「伊桜里様の幽霊だよ。絶対そう。近づいちゃ駄目。だってそこの角を曲がったら、宇治の間だし。ってやだ、何で今さら思い出しちゃうの。私の馬鹿!!」
お仙ちゃんは早口で言うと、私の小袖を握ったまま、背後に隠れた。
「宇治の間……」
確か開かずの間と噂される部屋だ。
そして。
『宇治の間の前に幽霊が出た時。それは不幸が起こる前兆』
私はまことしやかに囁かれる、その噂も同時に思い出す。
「もうやだ、帰りたい。どうしよう……」
お仙ちゃんはズルリとその場に座り込み、泣きべそをかいている。
「お仙ちゃん、立てる?怖い気持ちもわかるけど、歩かないと。頑張れそう?」
しゃがみ込み、お仙ちゃんの背中をさする。そして、何とか立ってもらおうと、優しめの言葉と声で宥めてみる。
「うん。そうだよね。だけど、なんか力が抜けちゃって」
お仙ちゃんが力なく微笑む。
どうやら腰が抜けてしまったようだ。
「そっか、じゃ私がおんぶしてあげる。手燭は持ったままでいけそう?」
「うん、ごめんね、お琴ちゃん」
お仙ちゃんは申し訳なさそうに弱々しく微笑む。
「全然気にしなくていいよ」
私は自分の手燭に灯る火を消し、お仙ちゃんに預ける。
「わ、一気に暗くなった。幽霊が出そう」
不安げな声を出すお仙ちゃん。
「ちょっとの間だから。それに喋ってれば大丈夫よ。鶴屋のお饅頭は美味しかったとかさ」
「公方様にお会い出来ない事にガッカリしちゃって、良く味わえなかったよ。鶴屋のやつなのに」
「私も安いお茶で流し込んじゃった」
「ほんとそうよね」
お仙ちゃんが笑った。
どうやら少しだけ、気が紛れたようだ。
「さ、乗って」
お仙ちゃんの前で屈むと、背に乗るよう促す。
「よいしょっと」
遠慮がちに体重を預けてきたお仙ちゃんを背負い、私は足を踏ん張り立ち上がる。
(日頃の成果を発揮する時!!)
私はくの一が集まり鍛錬する日々を懐かしく思い出しながら、ゆっくりと歩き出す。
「重くない?本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ。軽い、軽い。羽衣みたいだよ」
私はお仙ちゃんが気にしないよう、わざと明るく言う。
「左に行くと宇治の間だから、出来たらこのまま真っ直ぐで」
ちゃっかり道順を指示するお仙ちゃん。
(私としては、宇治の間が気になる所ではあるけど)
まさか恐怖に怯えるお仙ちゃんをおぶったまま、向かう訳にはいかない。よって、とりあえずは言われた通りまっすぐ、来た道を戻ることにした。
すると廊下の先から、ぼんやりとした蝋燭の灯りと共に、床を踏みしめる音、それから衣擦れの音が近づいてきた。
「発見しました。ここにいました!!」
突然目の前に現れた女性の軍団を見て、私は足を止めハッと息を呑む。
何故なら私達のような藍染の着物ではなく、皆それぞれ見た目に明るい華やかな小紋柄の振り袖に身を包んでいたからだ。
(これは、御台様付きの方達だ)
私は突然の遭遇に緊張する。奥女中の中でも、特に正妻である貴宮様にお仕えする女中は別格だ。彼女たちの多くは京寄りの人間で占められており、そのことを誇りに思っている。だから端的に言えば江戸の人間があまり好きではないとのこと。
『物言いがきつい』
『無骨な気風』
一言で言うと江戸ものは「品がない」そうだ。そして礼儀作法から化粧の仕方まで、いちいち江戸風は「気に食わない」らしい。
(化粧くらいどこ風でも、自分の好きなようにすればいいのに、なんて思うけど)
そう簡単な問題ではないようだ。
(そして問題は、私が首から下げた拍子木の存在)
私はぶらぶらと下がる長方形の塊を見つめる。
そもそも奥女中は基本的に将軍付と御台所付の女中に大別される。そして厄介な事に御火乃番という職は、大奥内で将軍付きと言われる側だ。つまり願わなくとも、貴宮様側から見たら「気に食わない」ほうに入ってしまうのである。
(何でこうなるかな)
有り難くない遭遇を前に、私は身構える。そして心して彼女達と対峙する事にした。
「大変申し訳ございませんが。こちらの子が具合が悪いので、失礼させていただきます」
下手に出て、頭を軽く下げた私は横を通り過ぎようとする。しかし、そう簡単に通してはくれないようだ。
「お待ちなさい」
私が足を進める前にヌッと現れたのは、縹色の綺麗な小袖に身を包んだ女性。
「先程から御殿内をウロウロとしとったんは、そのほうらで間違いあらへん?」
いきなり飛び出した京言葉に驚きつつ、思う。
(うろうろ?)
言い方に語弊があるような気がしたが、とりあえず御殿内にいたことは確かだ。
「はい、私達は本日公方様が陣頭指揮を取っておられる夜廻りに、共に参加する御火乃番でございます」
私は「公方様」と名前を出し、この場にいる正当性をさりげなく主張する。
「では、大声で騒いどったんは?」
私の背中で縮こまる、お仙ちゃんがピクリと動いたのを感じる。
「私達です」
私は「幽霊を見た」というお仙ちゃんの言葉を省き、声を出した事だけ認めておく。ここで嘘をついた所で、もっと大騒ぎになると思ったからだ。
「姉小路様がお呼びどす。ちぃとばかり、お付き合いをおたのもうします」
縹色の小袖を着た女性は、言い終えると私の横をスッと通り去っていく。
(え、姉小路様!?)
まさか、上臈御年寄である姉小路様じゃないよねと思いつつ、しかしそんな特徴的な名は、その方以外に大奥で耳にした事がないとすぐに気づく。
私は「何だか、大変な事になった」と、お仙ちゃんを背負いながら、ひたすら顔を青ざめるのであった。
何故なら御殿は御中臈である美麗様や、御年寄である岡島様が住む長局の一ノ側とは違い、細かな決まりごとがあるから。
『御台様は伊桜里様が亡くなられた事にお心を痛めていらっしゃいます。よって色々とこちらも気を遣う必要があるのよ。だからあなた達にはまだお願い出来ない場所となりますので、立ち入る事のないように』
大奥に潜入し、御火乃番として査を開始した日。御火乃番頭であるお清様が、何となく濁した様子で帷様と私に、遠回しに「御殿に入るな」と言いつけた事を思い出す。
つまり、今回運良く参加した特別な夜廻りで、私は初めて御殿に立ち入る事となったのである。
(まだ新参者だけど、いいのかな?)
そんな風に思わなくもなかったが、今回は天下の将軍光晴様が陣頭指揮を取る、異例の事態だ。よって、特例として許されたのだろうと、勝手に思い込み流す事にした。
「火の用心、さっさりましょう!!」
「火の用心、火の用心!!」
拍子木を鳴らしながら、お仙ちゃんと張り切って大きな声を出す。そしてまるで迷路のように入り組んだ、御殿内の長い廊下を先へと進む。
大小合わせて百を越す部屋がある、と言われている御殿は、貴宮様のために用意された主な部屋だけでも、御休息の間、切型の間、お化粧の間に、御清の間。それに加え、通称御湯殿と呼ぶ「御上がりの湯」と名付けられた風呂などもこの場所に完備されているらしい。
(忍び入る事はないだろうけど)
ここで該当の場所の屋根裏に忍び込め。そんな任務を任されたら、部屋の地図を頭に叩きいれるだけで一ヶ月はかかりそうな気がする。
そんな事を思いながら、蝋燭を立てた手燭によってぼんやりと照らされる内廊下を私達は先に進む。
「ここは昼間に見たら、凄いんだろうなぁ」
私は目前に迫る襖絵に視線を向けながら、思わず声を漏らす。
襖に描かれた見事な孔雀は、狩野派の長と呼ばれる人物が描いたものらしい。
貴宮様の嫁入りに合わせて、張り替えられたのか。それともいつもそうなのか。染み一つない金箔が貼られた襖は、私が持つ手燭の光があたる度、ゆらゆらと美しく輝き、暗闇の中でも存在感を解き放っていた。
「ほんと、綺麗な孔雀ね」
襖絵に見惚れた私は思わず呟く。
「ここは大奥で一番豪華な所だからね。この場所が質素になったら、この国は終わりが近づいている証拠だよ。火の用心ーー!!」
お仙ちゃんは思わず、「なるほど」と頷ける言葉を口にした。
「そう言えば、私は鈴の音を聞かなかったけど、鳴ったっけ?火の用心!!」
「お琴ちゃん、いきなりどうしたのよ?もしかして御鈴廊下のことを言ってる?」
お仙ちゃんが首を傾げる中、私は小さくコクリと首を動かしながら、口も開く。
「うん。そう。今回はお渡りされる目的は違うけど、公方様は大奥へいらした。それなのに何で鈴が鳴らないのかなぁと思って」
私は好奇心から尋ねる。
そもそも江戸城の構造的に、光晴様が普段住まいとされる中奥と大奥の間は、建物が連なっておらず、銅塀できっちり仕切られる形となっている。
その為、光晴様が大奥にお渡りされる時は、中奥と呼ばれる建物から大奥の建物へと繋がる長い廊下を通る事になるのだが、光晴様がその廊下を通るときは、大きな鈴を鳴らす決まりがあると私は聞いていた。
そして中奥と大奥を繋ぐ二箇所の廊下は、鈴を鳴らす事から、それぞれ「上御鈴廊下」、「下御鈴廊下」と呼ばれている。
ちなみに、御鈴廊下と中奥の境に設けられた「御錠口」から大奥側へは、将軍以外の男子は、今回のような特例でもない限り、立ち入ることはできない。
生憎私はその鈴の音を一度も聞いた事がない。何故なら光晴様が大奥を避けているからだ。
(聞いてみたかったなぁ)
折角なら一度くらいその音の音を実際に聞いてみたいと願う。
「そういえば、鳴らなかったね。でもま、お琴ちゃんの言うように今回のお渡りは、お渡りのうちに入らないお渡りだから」
お渡りという言葉を連続で活用するお仙ちゃん。
「そんな話をしてたら、ほら。ここを曲がれば御鈴廊下だよ」
「火の用心!!」
私はお勤めをこなしつつ、期待を込め角を曲がる。するとそこには、とてつもなく長く真っ直ぐな廊下があった。
ひときわひんやりとした風が頬を撫でる。
「火の用心……」
心なしか元気をなくしたお仙ちゃんがピタリと私の横に張り付く。
灯りが隅々まで届かない夜とあって、暗闇に覆われた廊下はまるで出口のない地下道のように思えて、たしかに不気味だ。
「これが御鈴廊下」
私は手燭をかかげ、壁を照らしてみる。すると、鴨居の上にある化粧部材としてつけられた長押から、太い萌黄色をした打紐がいくつもぶら下がっているのが確認できた。それぞれの紐の下には立派な房飾りがついている。
そして何といっても特徴的なのは、いくつも床に向かって垂直に垂れた紐は、各々の中間地点を結ぶように、鈴のついた横紐で結ばれ、襖を塞ぐ形で弓なりにぶら下がっていることだ。
(なるほど。襖を開けると、鈴に触れて音が鳴る仕組みか)
どうやら鈴の音は、お渡りを知らせるだけでなく、侵入者避けの意味もあるようだ。
「ねぇ、ここはいいよ。ほら、鈴に触れたら「お暇ではすまない事になる」ってお清様に言われてるし」
お仙ちゃんはぐいと私の小袖を引き、来た道を戻ろうと振り返った。
「きゃーー!!」
突然お仙ちゃんが悲鳴をあげる。何事かと私も振り向くが、特に何もない。
「い、い、い、今そこに幽霊が」
お仙ちゃんは、しっかりと私の小袖を片手で握り、震える声で告げる。
「そこ?」
お仙ちゃんの示す場所が分からず、私は辺りを見回しながら、一歩前に進もうとする。
「だめ。怖い。無理!!」
お仙ちゃんは私を掴んだまま、一歩たりとも動こうとしない。
「大丈夫よ。私がいるし」
「伊桜里様の幽霊だよ。絶対そう。近づいちゃ駄目。だってそこの角を曲がったら、宇治の間だし。ってやだ、何で今さら思い出しちゃうの。私の馬鹿!!」
お仙ちゃんは早口で言うと、私の小袖を握ったまま、背後に隠れた。
「宇治の間……」
確か開かずの間と噂される部屋だ。
そして。
『宇治の間の前に幽霊が出た時。それは不幸が起こる前兆』
私はまことしやかに囁かれる、その噂も同時に思い出す。
「もうやだ、帰りたい。どうしよう……」
お仙ちゃんはズルリとその場に座り込み、泣きべそをかいている。
「お仙ちゃん、立てる?怖い気持ちもわかるけど、歩かないと。頑張れそう?」
しゃがみ込み、お仙ちゃんの背中をさする。そして、何とか立ってもらおうと、優しめの言葉と声で宥めてみる。
「うん。そうだよね。だけど、なんか力が抜けちゃって」
お仙ちゃんが力なく微笑む。
どうやら腰が抜けてしまったようだ。
「そっか、じゃ私がおんぶしてあげる。手燭は持ったままでいけそう?」
「うん、ごめんね、お琴ちゃん」
お仙ちゃんは申し訳なさそうに弱々しく微笑む。
「全然気にしなくていいよ」
私は自分の手燭に灯る火を消し、お仙ちゃんに預ける。
「わ、一気に暗くなった。幽霊が出そう」
不安げな声を出すお仙ちゃん。
「ちょっとの間だから。それに喋ってれば大丈夫よ。鶴屋のお饅頭は美味しかったとかさ」
「公方様にお会い出来ない事にガッカリしちゃって、良く味わえなかったよ。鶴屋のやつなのに」
「私も安いお茶で流し込んじゃった」
「ほんとそうよね」
お仙ちゃんが笑った。
どうやら少しだけ、気が紛れたようだ。
「さ、乗って」
お仙ちゃんの前で屈むと、背に乗るよう促す。
「よいしょっと」
遠慮がちに体重を預けてきたお仙ちゃんを背負い、私は足を踏ん張り立ち上がる。
(日頃の成果を発揮する時!!)
私はくの一が集まり鍛錬する日々を懐かしく思い出しながら、ゆっくりと歩き出す。
「重くない?本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ。軽い、軽い。羽衣みたいだよ」
私はお仙ちゃんが気にしないよう、わざと明るく言う。
「左に行くと宇治の間だから、出来たらこのまま真っ直ぐで」
ちゃっかり道順を指示するお仙ちゃん。
(私としては、宇治の間が気になる所ではあるけど)
まさか恐怖に怯えるお仙ちゃんをおぶったまま、向かう訳にはいかない。よって、とりあえずは言われた通りまっすぐ、来た道を戻ることにした。
すると廊下の先から、ぼんやりとした蝋燭の灯りと共に、床を踏みしめる音、それから衣擦れの音が近づいてきた。
「発見しました。ここにいました!!」
突然目の前に現れた女性の軍団を見て、私は足を止めハッと息を呑む。
何故なら私達のような藍染の着物ではなく、皆それぞれ見た目に明るい華やかな小紋柄の振り袖に身を包んでいたからだ。
(これは、御台様付きの方達だ)
私は突然の遭遇に緊張する。奥女中の中でも、特に正妻である貴宮様にお仕えする女中は別格だ。彼女たちの多くは京寄りの人間で占められており、そのことを誇りに思っている。だから端的に言えば江戸の人間があまり好きではないとのこと。
『物言いがきつい』
『無骨な気風』
一言で言うと江戸ものは「品がない」そうだ。そして礼儀作法から化粧の仕方まで、いちいち江戸風は「気に食わない」らしい。
(化粧くらいどこ風でも、自分の好きなようにすればいいのに、なんて思うけど)
そう簡単な問題ではないようだ。
(そして問題は、私が首から下げた拍子木の存在)
私はぶらぶらと下がる長方形の塊を見つめる。
そもそも奥女中は基本的に将軍付と御台所付の女中に大別される。そして厄介な事に御火乃番という職は、大奥内で将軍付きと言われる側だ。つまり願わなくとも、貴宮様側から見たら「気に食わない」ほうに入ってしまうのである。
(何でこうなるかな)
有り難くない遭遇を前に、私は身構える。そして心して彼女達と対峙する事にした。
「大変申し訳ございませんが。こちらの子が具合が悪いので、失礼させていただきます」
下手に出て、頭を軽く下げた私は横を通り過ぎようとする。しかし、そう簡単に通してはくれないようだ。
「お待ちなさい」
私が足を進める前にヌッと現れたのは、縹色の綺麗な小袖に身を包んだ女性。
「先程から御殿内をウロウロとしとったんは、そのほうらで間違いあらへん?」
いきなり飛び出した京言葉に驚きつつ、思う。
(うろうろ?)
言い方に語弊があるような気がしたが、とりあえず御殿内にいたことは確かだ。
「はい、私達は本日公方様が陣頭指揮を取っておられる夜廻りに、共に参加する御火乃番でございます」
私は「公方様」と名前を出し、この場にいる正当性をさりげなく主張する。
「では、大声で騒いどったんは?」
私の背中で縮こまる、お仙ちゃんがピクリと動いたのを感じる。
「私達です」
私は「幽霊を見た」というお仙ちゃんの言葉を省き、声を出した事だけ認めておく。ここで嘘をついた所で、もっと大騒ぎになると思ったからだ。
「姉小路様がお呼びどす。ちぃとばかり、お付き合いをおたのもうします」
縹色の小袖を着た女性は、言い終えると私の横をスッと通り去っていく。
(え、姉小路様!?)
まさか、上臈御年寄である姉小路様じゃないよねと思いつつ、しかしそんな特徴的な名は、その方以外に大奥で耳にした事がないとすぐに気づく。
私は「何だか、大変な事になった」と、お仙ちゃんを背負いながら、ひたすら顔を青ざめるのであった。