忽然と無くなった気がする珊瑚の根掛け。その事自体もすっかり忘れていた、とある日のこと。
その日私は、朝から草履の鼻緒が切れるという不幸に見舞われた。仕方がないので替えに用意しておいた新たな草履を下ろす事にする。
(新しい草履を下ろすと気分が軽くなるなぁ)
などとその時はまだ余裕だった。
ところが案の定といった感じ。新しい草履は当たり前だが履きなれていない。そのせいで、お勤めをしながら鼻緒を留めた部分。前坪と呼ばれる場所と足の親指と人差し指の股が擦れ、鼻緒ずれが出来てしまった。
(痛い、もう歩きたくない)
密かに泣きべそをかきながらも、何とかお勤めをこなす。そんな頑張る私にさらなる不運がふりかかる。
鼻緒ずれした部分を庇うように、ぎこちなく歩いていたせいで、敷居につまづいた。そして帷様も唖然として固まるくらい、見事にすっ転んでしまったのである。
「だ、大丈夫か」
我に返ったらしい帷様が私に手を差し伸べる。
「えぇ、うっかりしていました」
痛みを堪え、平静を装いつつ、ありがたくその手を借り、起き上がる。
「くの一であっても、受け身を取れぬ事もあるのだな」
帷様に大真面目な表情で言われ、私は顔から火が出るくらい恥ずかしい思いをする事となった。
流石にここまで不運が重なると、「ついてないな」と思わざるを得ない。そこで私は、暗くなる気持ちを吹き飛ばそうと、いつもより少し早めに、共同台所に向かう事にした。
そして無心で野菜を切り刻む。
段々と穏やかな気持になってきた、その時。
「お琴ちゃん。大変!!」
私同様、お寿美ちゃんが珍しく早い時間に共同台所に顔を現した。
「私、とうとう見ちゃったのよ」
お寿美ちゃんはいつになくひそひそ声で言うと、私の前に立つ。
大根を無心で短冊切りしていた私は、手元を動かしつつ答える。
「まさか幽霊を?」
(ついに、お寿美ちゃんも同調行動をし始めたのか)
冷静を装いつつ、内心衝撃を受ける。何故ならお寿美ちゃんはわりと辛口で、現実的思考を持った娘だと思っていたからだ。
(確かに私も幽霊っぽい人は見たけど)
あれは私が想像する幽霊とは、何かが違う気がするのだ。
(なんかこうもっと、切ないような、不気味であって欲しいような)
やたら素早く逃げた幽霊に、私は幽霊独特の儚さのような物は一切感じなかった。
(むしろ逃げなきゃという、漲る活力を感じたような……)
だから私はあれを、幽霊だとは認めていない。
「幽霊なんているわけないじゃない。お琴ちゃんが無くしたって言ってた、珊瑚の根掛け。あれを私は見たの」
「えっ!!」
私は大根を切る手を止め、お寿美ちゃんを見つめる。
「一体どこで?」
「それがさ」
言いづらそうに俯くと、何故かお寿美ちゃんはモジモジと体をくねりはじめた。
「私はてっきり、お琴ちゃんの勘違いだと思っていたんだけど、何というか、桃色が強い珍しい珊瑚だったし、一個だけ蝶々の形に見える白い筋が入っていたのを覚えてて」
歯切れ悪く、前置きが長い。つまりは言いづらいと言う事だろう。
「もしかして、私の知ってる人が持ってたとか?」
私はズバリ、かまをかける。すると分かりやすく、お寿美ちゃんは目を丸くした。
「そうなの。御末仲間のお夏が持ってた」
「え、誰それ」
そんな名前の知り合いがいたかなと、私は首を傾げる。
「だから、前にお琴ちゃんが意地悪されたって言ってた、狐のほう」
「意地悪?」
「井戸部屋で」
「あ!」
脳裏に帷様にやたら絡んできた二人組の顔が浮かぶ。
(少しふくよかな方が狸で、痩せて背の高いほうが狐)
お寿美ちゃんに説明をする時、確かに言った。言っていた。
「それで、どうしてお夏さんが持っていたの?」
「持っていたというか、髪につけてた」
「それは本当に私の物だった感じ?」
親切心で教えてくれたであろうお寿美ちゃんを疑うのは気が引ける。けれど勘違いの可能性もあると思った私は心を鬼にしてたずねた。
「さっきも言ったけど、お琴ちゃんの珊瑚の根掛けは淡い桃色だったし、一つだけ特徴的な模様が入っていたから。だから私は間違いないって思ったのよ」
(確かにそうなんだよねぇ)
私は購入を決めた時の事を思い出す。
そもそも珊瑚といっても色々な種類がある。そして人気があるのは赤みが強い、舶来品の珊瑚だ。だから私も舶来品の赤い珊瑚の根掛けが欲しいと思い、小間物屋に足を運んだのである。そして、私は今回紛失した珊瑚の根掛けと出会った。
『この桃色は綺麗ね』
『そっちの色が薄いのは国産品だな。舶来品のような濃い赤みを帯びてないだろう?珊瑚には違いねぇけど、ボケた色だからお安くしとくよ』
『そうなんだ。あんまり人気がないってことなのね』
『まぁな。けどほらここ。蝶が舞ってるように見えるだろう?「蝶よ花よと育てられ」って言うじゃねぇか。つまりこいつは愛情豊かな珊瑚ってこった』
店主の売り文句に私はつい、笑顔になる。
『ふふ、じゃ、この愛情たっぷりな根掛けにします』
とまぁ、そんな感じで出会った物だ。
(つまり、お寿美ちゃんが見た、お夏さんの頭につけられた根掛けは、限りなく私のものである可能性が高いということ)
だとすると、一体どこで?という疑問が残る。
「お夏さんが持ってたのが私の物だとすると、もしかして私が落としたのを拾ったのかな」
「お琴ちゃん、本気で言ってる?」
「でも」
(限りなく怪しいとは思うけど)
流石に泥棒扱いするならば、それなりの根拠や証拠が必要だ。
「もう、ほんとに人がいいんだから。天然ものである珊瑚は、世の中に全く同じ色や模様をしたものなんてないのよ?」
「まぁ、そうだよね」
「しかもお琴ちゃんのは、特別な模様入りだし。そもそも落としたとか言ってるけど、落としたなら髪を解く時点で、「あれ?」って気づくと思うけど」
「あっ、たしかに」
(お寿美ちゃん、鋭い)
私はお寿美ちゃんの推理力に舌を巻く。
「ねぇ、どうする?」
「どうするって、まだお夏さんが盗んだという証拠はないし」
「でもお琴ちゃんのやつだったよ?」
「盗んだ物であれば、それこそ髪に飾ったりなんてしないと思う」
「確かに。すぐバレちゃうもんね。だとすると、誰かに貰ったのかな。あのさ、ここだけの話なんだけど」
お寿美ちゃんは口を噤むと、キョロキョロと辺りを見回した。
(でた、ここだけの話)
お寿美ちゃんが「ここだけの話」だと、断りを入れる時にもたらしてくれる情報は、わりと重要な情報だったりする。
私は緊張した面持ちで次の言葉を待つ。
「実は私も見ちゃったんだよね」
勿体ぶったように言葉を区切るお寿美ちゃん。
「それはええと、お夏さんのこと?」
私が尋ねると、お寿美ちゃんは首を横に振った。
「ちがうの。幽霊を見たの」
「ええええ!!」
今度こそ私は仰け反る勢いで驚いた。
「で、でもお寿美ちゃんは幽霊を信じてないんだよね?」
「うん。だからあれは多分、今回の幽霊騒ぎの黒幕だと思うんだよね」
「なるほど」
お寿美ちゃんが、正常な心意気を持ったままで良かったと肩を下ろす。
「そして私が見た謎の死装束の女は、美麗様から袖の下をもらってるに違いないと思う」
「どうしてそう思うの?」
「だって、幽霊騒ぎが大きくなった途端、みんなは美麗様を信じ始めたんだもの。怪しいわよ」
お寿美ちゃんはサラリとすごい事を言う。
大抵の人は、それこそ御火乃番の人間ですら、幽霊騒ぎに踊らされ、怯えているという状況だ。その中で、情報収集能力もさる事ながら、鋭い洞察力を持ち、何より皆に流されず、自らの信念を貫く強さ。
(くノ一に勧誘すべき逸材発見)
私は密かに、お寿美ちゃんを伊賀同心に推薦したい気持ちに駆られる。
「あ、お夏発見!!いくよ、お琴ちゃん」
突然お寿美ちゃんに腕を引かれる。
「え?あ、ちょっと、包丁」
慌ててまな板の上に包丁を置く。
そして私はお寿美ちゃんに手を引かれたまま、外に飛び出す事となる。
(咄嗟の行動力。これもまたくノ一の適性あり)
呑気にそう思った……のは一瞬で。
「お夏、ちょっと待ちなさい」
私の手を離したお寿美ちゃんは、長局の前を歩くお夏さんの背に声をかける。
(え、いきなり突撃しちゃうの?)
驚き青ざめる私。何故ならもし、凸凹な二人の一人。狐顔のお夏さんが何かを企んでいるのだとしたら、泳がせたのち、犯行現場を押さえるべきだと思ったからだ。
ここで犯人扱いをしてしまえば、彼女は警戒し、尻尾を出さなくなる。
「お寿美ちゃん、落ち着こうか」
「何言ってるのよ、大事な根掛けでしょ!!」
正義感たっぷりな瞳で私を叱りつけるお寿美ちゃん。今更「別にそこまで大事と言うほどでは」とは言い出せない雰囲気だ。
「お夏、ちょっと待ちなさいってば」
お寿美ちゃんが前を歩く背の高い狐こと、お夏さんを再度呼び止めた。
「蕎麦屋の娘に用はないんだけど」
振り返ったお夏さんが、お寿美ちゃんを見てフンと鼻を鳴らす。
「あんたに用はなくても、私にはあるの。あのさ、その根掛け。どこで手に入れたの?」
言いながら、お寿美ちゃんが私の肘をつつく。
(確かめろってこと?)
こうなったら仕方がない。私はさり気なくお夏さんの背後に回る。そして素早く髪の毛につけられた根掛けを確認する。
(あ、蝶がいる)
私は珊瑚に走る、目立つ白い線を確認し、お寿美ちゃんに頷く。
「やだ、取り囲んでどうするつもり?」
「お夏、正直に言って欲しい」
お寿美ちゃんが一歩前に進み出る。
「な、何よ。もったいぶってないで早く言いなさいよ」
尋常ではない状況だからか、お夏さんの声から余裕さが消える。私はその声を聞きながら、お寿美ちゃんの隣に立ち位置をこっそり戻す。
背後だと顔色が確認出来ないからだ。
「あなたの髪に飾られている根掛け。それ、どうしたの?」
「え?根掛け?」
お夏さんが根掛けに手を伸ばす。
「あぁ、これ。これは美麗様に頂いたのよ」
(美麗様に?)
「美麗様に?なんで?」
私と同じ事を思ったようだ。お寿美ちゃんが浮かんだ疑問を代わりにたずねてくれた。
「褒美よ」
「お夏、あんた何かしたわけ?」
「どうだか。それよりお寿美。あんた、羨ましいからって、こんな風に絡まないでよ。迷惑なんだけど」
余裕を取り戻したのか、お夏さんの調子が元に戻る。
「その根掛け、お琴ちゃんの無くした物なんだけど」
「まさか。というか、どうして断言できるのよ。そもそも珊瑚の根掛けなんて、流行り物なんだから誰だって一つくらいは持ってるでしょう?言いがかりはやめて」
お夏さんは怒った顔でそう言うと、そのまま歩き出した。
「待ってよ。まだ話は終わっていないわ」
お寿美ちゃんがその背を追いかける。私はそんなお寿美ちゃんの後を追う。
「もういい加減にして」
我慢の限界と言った感じ。お夏さんは急に立ち止まると、振り向いた。
「あんたとは違って、私は忙しいのよ!!」
ついにお夏さんが、お寿美ちゃんと私に怒鳴り声をあげる。
「あんたのつけてるそれは、流行りの真っ赤なやつじゃないし、数珠つなぎになった左から二番目の珊瑚。それに白い蝶の模様が入ってる。それはお琴ちゃんの大事な根掛けである証拠よ」
お寿美ちゃんが勝ち誇ったように告げる。するとお夏さんの表情がみるみると変わっていく。
「嘘よ。美麗様に頂いたものだもの。そんなはず……」
お夏さんは動揺しているようで、視線を左右に動かしている。
「お夏、もう観念しちゃいなよ。正直に言ったら怒らないからさ」
お寿美ちゃんが優しい声色でお夏さんの心情に訴えかける。
「正直にって何?これは美麗様に頂いたものよ。さっきから正直にそう言ってるじゃない。信じないくせに、何が「怒らないから」よ。上から目線で私にまとわりつかないで!!」
心の底からの叫びと言った感じ。青筋を立て捲し立てたお夏さんは言い終えると、私たちに背を向け走るように立ち去ってしまった。
(これは……)
あまりの剣幕に唖然とし、棒立ちになる。そして私はお夏さんの背をジッと見つめた。
島田髷に結った、綺麗な髪には、桃色の珊瑚の根掛けが飾られている。
「何よ、嘘つきなくせに。まるで私が悪いみたいじゃない」
お寿美ちゃんが自信なさげに、小さな声でつぶやく。その声を聞きながら私は思う。
(でもあれは嘘をついている感じではなかった)
一体何が起きているのか。私は帷様に知らせなければと、そう強く思ったのであった。
その日私は、朝から草履の鼻緒が切れるという不幸に見舞われた。仕方がないので替えに用意しておいた新たな草履を下ろす事にする。
(新しい草履を下ろすと気分が軽くなるなぁ)
などとその時はまだ余裕だった。
ところが案の定といった感じ。新しい草履は当たり前だが履きなれていない。そのせいで、お勤めをしながら鼻緒を留めた部分。前坪と呼ばれる場所と足の親指と人差し指の股が擦れ、鼻緒ずれが出来てしまった。
(痛い、もう歩きたくない)
密かに泣きべそをかきながらも、何とかお勤めをこなす。そんな頑張る私にさらなる不運がふりかかる。
鼻緒ずれした部分を庇うように、ぎこちなく歩いていたせいで、敷居につまづいた。そして帷様も唖然として固まるくらい、見事にすっ転んでしまったのである。
「だ、大丈夫か」
我に返ったらしい帷様が私に手を差し伸べる。
「えぇ、うっかりしていました」
痛みを堪え、平静を装いつつ、ありがたくその手を借り、起き上がる。
「くの一であっても、受け身を取れぬ事もあるのだな」
帷様に大真面目な表情で言われ、私は顔から火が出るくらい恥ずかしい思いをする事となった。
流石にここまで不運が重なると、「ついてないな」と思わざるを得ない。そこで私は、暗くなる気持ちを吹き飛ばそうと、いつもより少し早めに、共同台所に向かう事にした。
そして無心で野菜を切り刻む。
段々と穏やかな気持になってきた、その時。
「お琴ちゃん。大変!!」
私同様、お寿美ちゃんが珍しく早い時間に共同台所に顔を現した。
「私、とうとう見ちゃったのよ」
お寿美ちゃんはいつになくひそひそ声で言うと、私の前に立つ。
大根を無心で短冊切りしていた私は、手元を動かしつつ答える。
「まさか幽霊を?」
(ついに、お寿美ちゃんも同調行動をし始めたのか)
冷静を装いつつ、内心衝撃を受ける。何故ならお寿美ちゃんはわりと辛口で、現実的思考を持った娘だと思っていたからだ。
(確かに私も幽霊っぽい人は見たけど)
あれは私が想像する幽霊とは、何かが違う気がするのだ。
(なんかこうもっと、切ないような、不気味であって欲しいような)
やたら素早く逃げた幽霊に、私は幽霊独特の儚さのような物は一切感じなかった。
(むしろ逃げなきゃという、漲る活力を感じたような……)
だから私はあれを、幽霊だとは認めていない。
「幽霊なんているわけないじゃない。お琴ちゃんが無くしたって言ってた、珊瑚の根掛け。あれを私は見たの」
「えっ!!」
私は大根を切る手を止め、お寿美ちゃんを見つめる。
「一体どこで?」
「それがさ」
言いづらそうに俯くと、何故かお寿美ちゃんはモジモジと体をくねりはじめた。
「私はてっきり、お琴ちゃんの勘違いだと思っていたんだけど、何というか、桃色が強い珍しい珊瑚だったし、一個だけ蝶々の形に見える白い筋が入っていたのを覚えてて」
歯切れ悪く、前置きが長い。つまりは言いづらいと言う事だろう。
「もしかして、私の知ってる人が持ってたとか?」
私はズバリ、かまをかける。すると分かりやすく、お寿美ちゃんは目を丸くした。
「そうなの。御末仲間のお夏が持ってた」
「え、誰それ」
そんな名前の知り合いがいたかなと、私は首を傾げる。
「だから、前にお琴ちゃんが意地悪されたって言ってた、狐のほう」
「意地悪?」
「井戸部屋で」
「あ!」
脳裏に帷様にやたら絡んできた二人組の顔が浮かぶ。
(少しふくよかな方が狸で、痩せて背の高いほうが狐)
お寿美ちゃんに説明をする時、確かに言った。言っていた。
「それで、どうしてお夏さんが持っていたの?」
「持っていたというか、髪につけてた」
「それは本当に私の物だった感じ?」
親切心で教えてくれたであろうお寿美ちゃんを疑うのは気が引ける。けれど勘違いの可能性もあると思った私は心を鬼にしてたずねた。
「さっきも言ったけど、お琴ちゃんの珊瑚の根掛けは淡い桃色だったし、一つだけ特徴的な模様が入っていたから。だから私は間違いないって思ったのよ」
(確かにそうなんだよねぇ)
私は購入を決めた時の事を思い出す。
そもそも珊瑚といっても色々な種類がある。そして人気があるのは赤みが強い、舶来品の珊瑚だ。だから私も舶来品の赤い珊瑚の根掛けが欲しいと思い、小間物屋に足を運んだのである。そして、私は今回紛失した珊瑚の根掛けと出会った。
『この桃色は綺麗ね』
『そっちの色が薄いのは国産品だな。舶来品のような濃い赤みを帯びてないだろう?珊瑚には違いねぇけど、ボケた色だからお安くしとくよ』
『そうなんだ。あんまり人気がないってことなのね』
『まぁな。けどほらここ。蝶が舞ってるように見えるだろう?「蝶よ花よと育てられ」って言うじゃねぇか。つまりこいつは愛情豊かな珊瑚ってこった』
店主の売り文句に私はつい、笑顔になる。
『ふふ、じゃ、この愛情たっぷりな根掛けにします』
とまぁ、そんな感じで出会った物だ。
(つまり、お寿美ちゃんが見た、お夏さんの頭につけられた根掛けは、限りなく私のものである可能性が高いということ)
だとすると、一体どこで?という疑問が残る。
「お夏さんが持ってたのが私の物だとすると、もしかして私が落としたのを拾ったのかな」
「お琴ちゃん、本気で言ってる?」
「でも」
(限りなく怪しいとは思うけど)
流石に泥棒扱いするならば、それなりの根拠や証拠が必要だ。
「もう、ほんとに人がいいんだから。天然ものである珊瑚は、世の中に全く同じ色や模様をしたものなんてないのよ?」
「まぁ、そうだよね」
「しかもお琴ちゃんのは、特別な模様入りだし。そもそも落としたとか言ってるけど、落としたなら髪を解く時点で、「あれ?」って気づくと思うけど」
「あっ、たしかに」
(お寿美ちゃん、鋭い)
私はお寿美ちゃんの推理力に舌を巻く。
「ねぇ、どうする?」
「どうするって、まだお夏さんが盗んだという証拠はないし」
「でもお琴ちゃんのやつだったよ?」
「盗んだ物であれば、それこそ髪に飾ったりなんてしないと思う」
「確かに。すぐバレちゃうもんね。だとすると、誰かに貰ったのかな。あのさ、ここだけの話なんだけど」
お寿美ちゃんは口を噤むと、キョロキョロと辺りを見回した。
(でた、ここだけの話)
お寿美ちゃんが「ここだけの話」だと、断りを入れる時にもたらしてくれる情報は、わりと重要な情報だったりする。
私は緊張した面持ちで次の言葉を待つ。
「実は私も見ちゃったんだよね」
勿体ぶったように言葉を区切るお寿美ちゃん。
「それはええと、お夏さんのこと?」
私が尋ねると、お寿美ちゃんは首を横に振った。
「ちがうの。幽霊を見たの」
「ええええ!!」
今度こそ私は仰け反る勢いで驚いた。
「で、でもお寿美ちゃんは幽霊を信じてないんだよね?」
「うん。だからあれは多分、今回の幽霊騒ぎの黒幕だと思うんだよね」
「なるほど」
お寿美ちゃんが、正常な心意気を持ったままで良かったと肩を下ろす。
「そして私が見た謎の死装束の女は、美麗様から袖の下をもらってるに違いないと思う」
「どうしてそう思うの?」
「だって、幽霊騒ぎが大きくなった途端、みんなは美麗様を信じ始めたんだもの。怪しいわよ」
お寿美ちゃんはサラリとすごい事を言う。
大抵の人は、それこそ御火乃番の人間ですら、幽霊騒ぎに踊らされ、怯えているという状況だ。その中で、情報収集能力もさる事ながら、鋭い洞察力を持ち、何より皆に流されず、自らの信念を貫く強さ。
(くノ一に勧誘すべき逸材発見)
私は密かに、お寿美ちゃんを伊賀同心に推薦したい気持ちに駆られる。
「あ、お夏発見!!いくよ、お琴ちゃん」
突然お寿美ちゃんに腕を引かれる。
「え?あ、ちょっと、包丁」
慌ててまな板の上に包丁を置く。
そして私はお寿美ちゃんに手を引かれたまま、外に飛び出す事となる。
(咄嗟の行動力。これもまたくノ一の適性あり)
呑気にそう思った……のは一瞬で。
「お夏、ちょっと待ちなさい」
私の手を離したお寿美ちゃんは、長局の前を歩くお夏さんの背に声をかける。
(え、いきなり突撃しちゃうの?)
驚き青ざめる私。何故ならもし、凸凹な二人の一人。狐顔のお夏さんが何かを企んでいるのだとしたら、泳がせたのち、犯行現場を押さえるべきだと思ったからだ。
ここで犯人扱いをしてしまえば、彼女は警戒し、尻尾を出さなくなる。
「お寿美ちゃん、落ち着こうか」
「何言ってるのよ、大事な根掛けでしょ!!」
正義感たっぷりな瞳で私を叱りつけるお寿美ちゃん。今更「別にそこまで大事と言うほどでは」とは言い出せない雰囲気だ。
「お夏、ちょっと待ちなさいってば」
お寿美ちゃんが前を歩く背の高い狐こと、お夏さんを再度呼び止めた。
「蕎麦屋の娘に用はないんだけど」
振り返ったお夏さんが、お寿美ちゃんを見てフンと鼻を鳴らす。
「あんたに用はなくても、私にはあるの。あのさ、その根掛け。どこで手に入れたの?」
言いながら、お寿美ちゃんが私の肘をつつく。
(確かめろってこと?)
こうなったら仕方がない。私はさり気なくお夏さんの背後に回る。そして素早く髪の毛につけられた根掛けを確認する。
(あ、蝶がいる)
私は珊瑚に走る、目立つ白い線を確認し、お寿美ちゃんに頷く。
「やだ、取り囲んでどうするつもり?」
「お夏、正直に言って欲しい」
お寿美ちゃんが一歩前に進み出る。
「な、何よ。もったいぶってないで早く言いなさいよ」
尋常ではない状況だからか、お夏さんの声から余裕さが消える。私はその声を聞きながら、お寿美ちゃんの隣に立ち位置をこっそり戻す。
背後だと顔色が確認出来ないからだ。
「あなたの髪に飾られている根掛け。それ、どうしたの?」
「え?根掛け?」
お夏さんが根掛けに手を伸ばす。
「あぁ、これ。これは美麗様に頂いたのよ」
(美麗様に?)
「美麗様に?なんで?」
私と同じ事を思ったようだ。お寿美ちゃんが浮かんだ疑問を代わりにたずねてくれた。
「褒美よ」
「お夏、あんた何かしたわけ?」
「どうだか。それよりお寿美。あんた、羨ましいからって、こんな風に絡まないでよ。迷惑なんだけど」
余裕を取り戻したのか、お夏さんの調子が元に戻る。
「その根掛け、お琴ちゃんの無くした物なんだけど」
「まさか。というか、どうして断言できるのよ。そもそも珊瑚の根掛けなんて、流行り物なんだから誰だって一つくらいは持ってるでしょう?言いがかりはやめて」
お夏さんは怒った顔でそう言うと、そのまま歩き出した。
「待ってよ。まだ話は終わっていないわ」
お寿美ちゃんがその背を追いかける。私はそんなお寿美ちゃんの後を追う。
「もういい加減にして」
我慢の限界と言った感じ。お夏さんは急に立ち止まると、振り向いた。
「あんたとは違って、私は忙しいのよ!!」
ついにお夏さんが、お寿美ちゃんと私に怒鳴り声をあげる。
「あんたのつけてるそれは、流行りの真っ赤なやつじゃないし、数珠つなぎになった左から二番目の珊瑚。それに白い蝶の模様が入ってる。それはお琴ちゃんの大事な根掛けである証拠よ」
お寿美ちゃんが勝ち誇ったように告げる。するとお夏さんの表情がみるみると変わっていく。
「嘘よ。美麗様に頂いたものだもの。そんなはず……」
お夏さんは動揺しているようで、視線を左右に動かしている。
「お夏、もう観念しちゃいなよ。正直に言ったら怒らないからさ」
お寿美ちゃんが優しい声色でお夏さんの心情に訴えかける。
「正直にって何?これは美麗様に頂いたものよ。さっきから正直にそう言ってるじゃない。信じないくせに、何が「怒らないから」よ。上から目線で私にまとわりつかないで!!」
心の底からの叫びと言った感じ。青筋を立て捲し立てたお夏さんは言い終えると、私たちに背を向け走るように立ち去ってしまった。
(これは……)
あまりの剣幕に唖然とし、棒立ちになる。そして私はお夏さんの背をジッと見つめた。
島田髷に結った、綺麗な髪には、桃色の珊瑚の根掛けが飾られている。
「何よ、嘘つきなくせに。まるで私が悪いみたいじゃない」
お寿美ちゃんが自信なさげに、小さな声でつぶやく。その声を聞きながら私は思う。
(でもあれは嘘をついている感じではなかった)
一体何が起きているのか。私は帷様に知らせなければと、そう強く思ったのであった。