逃げるように美麗《みれい》様の部屋を後にした帷《とばり》様と私。しばし呆然としつつ、美麗様のお住まいである長局《ながつぼね》を見つめる。
「凄い人でしたね」
「あぁ、強烈だったな」
「正直、あのような方が御生母《ごせいぼ》となるかも知れないなんて、と思ってしまいました」
「全くだ。聞いていた印象と全然違うではないか」
帷様と私は揃って愚痴をこぼす。
「寝不足には堪《こた》えた。一先ず帰ろう。仮眠を取らねば倒れてしまいそうだ」
帷様はうんざりとした表情でおでこを抑えた。
(確かにくらくらするかも)
私達は寝不足に疲れ果てた心を付け足し、重い足取りで、四之側《よんのがわ》にある長局もどきへと向かう。
「それにしても伊桜里《いおり》様の件を探りたいのに、なかなか情報が掴めませんね。幽霊騒ぎに巻き込まれている場合じゃないのになぁ」
悔しい思いで、唇を噛む。
「そうでもないぞ」
「え、帷様は何か情報を掴んだのですか?」
(まさか、抜け駆けされた?)
私の脳裏に、井戸に消えた怪しい帷様が思い出される。あの事を本人に問うべきか、やめておくべきか。疲れた頭で考えるが、結論は出てこない。
「先程は、美麗があまりにお前を貶すものだから、ムカついて、つい手が勝手に動いた」
(え、私のために怒って下さったってこと?)
驚き帷様の顔を見上げる。すると帷様はぷぃと私から顔をそらす。
「別に深い意味はない。うまい飯を食わせてくれるお礼だ」
ぶっきらぼうに告げられた。どうやら私は思いの外、帷様の胃を掴んでしまったようだ。
「ありがとうございます」
とりあえず礼を口にすると、帷様は少しだけ嬉しそうに口角を上げた。
「それで、美麗が転んだ時に、俺の足元にこのようなものが転がってきた。手を出してくれ」
帷様が立ち止まる。足を止め、言われた通り手のひらを上に向け帷様に差し出す。
「お前はこれに見覚えがないか?」
そう言って帷様が私の手のひらの上に置いたのは、金色の小さな物体だった。
大きさは小指の爪程度。素材は真鍮《しんちゅう》のようだ。形は平たい円形で、輪の中に蔦の葉のような文様が収められている。
(これは家紋?あっ!)
「もしかして、これって丸に蔦《つた》。つまり、伊桜里様のご実家の紋所でしょうか?」
自分が発した言葉に動悸が激しくなる。
「正解だ。しかもそれは多分、刀の縁頭《ふちがしら》につけられる、装飾部分のものだろう」
「この大きさだと、縁の方ですかね」
手元の小さなカケラを見つめながら、寝不足の頭で思考を巡らせる。
縁頭とは、刀の肢《え》に巻く、滑り止めの糸を押さえる為の実用的な装飾品だ。そして刀剣を腰から下げた時に一番目立つ部分でもある。だから、縁の方には身分証代わりに家紋をつけておく。これはよくあることだ。
「縁には連なった模様をいれる事が多い。よってそのうちの一つが取れたのだろう」
「確かにこの大きさだと、縁の部分に並んで幾つかついていた。そんな感じに思えますね」
私は縁の部分を想像しながら答える。すると違和感なく、鍔《つば》の下に横一列にぐるりと整列した、小さな真鍮の姿が想像できた。
「伊桜里の遺品を書き留めた目録《もくろく》があるはずだ。それを正輝に確認してもらえば、詳しく判明するはず」
帷様の言葉を聞きながら、私は手の平に乗せられた、小さな家紋を見つめる。
「それが伊桜里のものだと仮定すると、何故、あの場に落ちていたのか」
帷様は私の手のひらの上から、装飾品を回収する。
「伊桜里様と仲が良かったから、遊びにきていたとか?」
私は咄嗟に思いついた可能性を口にする。
「その可能性もないとは言えぬが、どうだろうな。美麗のあのような性格を、果たして伊桜里が受け入れただろうか」
「出来れば関わりたくはないですもんね」
「勿論、お渡りがない。その事で精神的に追い詰められ、あのような苛烈な性格になったとも考えられるが……」
帷様が考え込む。その姿を眺めながら、お寿美《すみ》ちゃんが「親友の好いた人を横取りした」と、そんな事を口走っていたなと思い出す。
「台所で共に料理をする子の話だと、ここに来る前から、異性の事で女性と揉めたりしていたそうです」
「だとすると、やはり伊桜里が好んで付き合う事はしないだろう。そもそも伊桜里が美麗に近づく利点が思い浮かばない」
「そうですね」
伊桜里様は既に寵愛を受けていた。言うなれば、美麗様より優位な位置にいたはずだ。
(近づいて利点があるのは、美麗様のほう)
美麗からすれば伊桜里様は、光晴様に最も近い女性だ。となれば伊桜里様に取り入っておけば、光晴様と御目見得《おめみえ》出来るかも知れない。
浅はかな考えではあるが、ここではそれくらいしか、御目見得以下が光晴様と顔を合わせる方法はない。しかし正当な手順を踏み、御中臈として大奥入りをした伊桜里様に簡単に近づけるものだろうか。
(部屋方が身の回りの世話をするから、なかなかお近づきになれないと思うのだけど)
現に私は未だ大奥を取り仕切る頭のような存在である御年寄《おとしより》の岡島《おかじま》様と顔を合わせていない。そして御中臈である美麗様に会うのも、今日が初めてだった。
「そもそも公方様のお手付きになるにはどうしたらいいのですか?」
浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「まさか、お前は光晴を狙っているのか?」
帷様がギョッとした表情で固まる。
「あ、いいえ違います。そんなの畏れ多くて無理です」
「では何故そのような事を。その気がないのであれば、気にせずとも良いではないか」
何故か言い渋る帷様。
「伊桜里様の物が美麗様の部屋に落ちていた。だとすると二人は知り合いであった可能性があるのかなと思いまして。それで、二人に共通しているのは公方様の寵愛を受けていた者同士だという事なので……」
(あ、でも待って)
私はふと気付く。
「二之側は有り得ないくらい掃除が行き届いていました。それなのに今更それが落ちているというのは、何かおかしくないですか?」
私は塵一つ落ちていなかった二之側の廊下を思い出す。あそこまで綺麗にしているのに、いまさら部屋に落ちていたのはおかしい。
(まるで誰かがあの場で落として、私達にわざと拾わせたような)
そう疑う気持ちになったが、すぐに「それはない」と思った。何故なら、帷様が美麗様の打掛けを掴むだなんて、誰にも予測出来ないはずだからだ。
「美麗が動いた途端、転がってきた。だからもともと着物に付着していたのかも知れん」
(確かにそれはあるか)
着物は汚れるまで着通す事が常識だ。何故なら洗濯が一苦労だからである。というのも毎年衣替えの時期になると、洗張りといって、着物の糸を全てほどく作業に追われるからだ。しかも、ほどいた着物はそれで終了ではない。
(むしろそこからお洗濯が始まるわけで)
ほどいた着物は丁寧に一枚一枚洗ってから、板に張り乾かす。
(そのあとまた縫い合わせして着物の形に戻すまでが、洗張り……)
つまり、私達にとって着物の洗濯は、もっとも重労働といえる家事だ。
(だけど、衣替えは終わったばかりだし、美麗様の打掛けは綺麗そうだったし)
まだ洗張りをする前の打掛けである可能性はありそうだ。だとすると、帷様が拾った真鍮の欠片は、美麗様の着物に元々張り付いていた。そう推測するのが自然な気がする。
「どれもこれも、先程お前が口にした、お手付き云々の質問に、関係がないように思えるが」
「え?」
帷様が前置きなく発した言葉を受け、私は一瞬何の事だから分からず、呆けてしまう。
「ええと、それは、公方様のお手付きになるにはどうしたらいいのですか?という私の質問についての話でしょうか」
「あぁ、そうだ。何故そんな事をお前が気にするんだ?」
何だかしつこい帷様。寝不足にはわりときつい。
「だからそれは……」
(勿体ぶらずにさっさと教えてくれればいいのに)
内心そう思いながら今度は新たな疑問が頭に浮かぶ。
「そもそもこんなに多くの女性がいて、何故美麗様が選ばれたのでしょう。器量よく、性格の良い子は他にも沢山おりますよ?」
「その件ならば、答えてやる」
帷様はそう口にすると歩き始めた。早く帰路につきたいと願う私も後に続く。
「お前は西の丸にいる天花院《てんかいん》様の事をどの程度知っている?」
突然思っても見なかった名が飛び出した。戸惑いながらも口を開く。
「前将軍秀光様が最後に迎えられた正妻であり、現将軍光晴様の御生母ではないこと。それからまだ二十五と、とてもお若い方だということ。それくらいです」
以前噂として「光晴様と男女の仲にある」という話を聞いたが、それはあまりに下世話《げせわ》な話すぎるので言わないでおいた。
「そうだな。付け加えるとすれば、天花院様と光晴様が顔を合わせたのは数回ほど。その上大奥に入り二年と日が浅いうちに、主君を亡くした天花院様をどう扱うべきか、その対応に頭を悩ませていらっしゃるということだろう」
帷様は普通なら知り得ない事をサラッと口にした。どうやら相当な事情通のようだ。
(井戸の件といい、今回の事といい)
実は光晴様が私的に雇った御庭番《おにわばん》なのかもしれない。私はそんなふうに疑いつつ、口を開く。
「光晴様が「悩まされて」というのは」
具体的には?と言いかけてやめた。
この問題は踏み込んでいい話なのかどうか。咄嗟に判断出来なかったからだ。
(今日は失言が多いな)
やはり寝不足は大敵という事だろうか。密かに反省する。
「光晴様は、まだお若い天花院様を西の丸に閉じ込めておくこと。そして彼女がそれを本当に望んでいるのかどうか。その二点に胸を痛めておられる」
(そういうことか)
私は納得する。
確かにまだ二十五歳である天花院様は、市井の常識からすれば「女盛り」だと言える。つまり、大奥に入りさえしなければ、「人生これから」と言えるような歳だということだ。
「もっとも、天花院様は西の丸において、秀光様の菩提《ぼだい》を弔《とむら》い余生をひっそりと過ごしたいと仰っている」
帷様はとても疲れた様子で話を続ける。
「更に言えば、秀光様が「次代のお世継ぎの後継となり、しっかり東雲《しののめ》家を影で支えるように」とご自身に言い残されたと、主張されてもいるんだ」
「つまり、天花院様は先代将軍とのお約束を果たそうとなさっていらっしゃる。とても立派な方なんですね」
「あぁ。だからこそ蔑《ないがし》ろにできぬのだ。しかも天花院様はなんと言うか、気の強い……男勝りな……とにかく、快活な方であって」
何度か言い直しつつ、帷様は続ける。
「光晴様にお世継ぎがいない事を誰よりも危惧《きぐ》されている。よって、西の丸に隠居した身でありながら、同じ思いを抱える岡島を通し、大奥にあれこれ口出しをしているようだ」
「その噂は町方でも耳にしました」
(そっか)
美麗様はそもそも岡島様付きの部屋方だったはずだ。つまり元々光晴様に召し上げられる事を前提に、大奥入りをした女性だといえる。
(だから光晴様に御目見得すること)
そんなのは自分が努力せずとも、周囲が勝手にお膳立てするに違いない。
(そしてその影には天花院様がいると……)
帷様が突然天花院様のお名前を口にされた。その意味をようやく私は理解する。
「光晴様は天花院様に、お父上であられる秀光様が病に倒れた時、最後までお側につき、しっかりと看取って頂いたという御恩を感じている。だから無碍にする事も出来ぬし、したいとも思っていない」
「確かに肉親を大事にしてくれる人を悪くは思えませんものね」
脳裏に乳母であるお多津のシワシワの顔が浮かぶ。彼女とは血の繋がりはない。けれど私にとっては大事な人だ。
(光晴様も、そういう気持ちなのかな)
私は何となく天花院様が大奥に口出しをする事に対し、何も言えない光晴様のお気持ちが理解出来るような気がした。そして将軍とは言え、やはり人の子なのだなと改めて思う。
「光晴様が天花院様を大切に思うのならば、私はそれを尊重したいと思っている。だが、現在の天花院様は、光晴様のためだと、町方で評判の娘を次々と岡島の部屋子にしようと画策しているようだ」
帷様は下ろした手を強く握る。
「本人が願うのであれば問題はない。しかし、騙すような事をして大奥に連れてきているのだとしたら、それは許されない。もし行き過ぎた行為を発見したら、俺はどうにかして天花院様や岡島を止めねばならぬ」
帷様は厳しい顔で抱えた思いを吐き出した。
それを目の当たりにした私は、自分でも気づかぬうちにとんでもない事に巻き込まれつつあるのではないか。
(何かが起こりそうな気がする)
私の第六感が働き、背筋がヒヤリとしたのであった。
「凄い人でしたね」
「あぁ、強烈だったな」
「正直、あのような方が御生母《ごせいぼ》となるかも知れないなんて、と思ってしまいました」
「全くだ。聞いていた印象と全然違うではないか」
帷様と私は揃って愚痴をこぼす。
「寝不足には堪《こた》えた。一先ず帰ろう。仮眠を取らねば倒れてしまいそうだ」
帷様はうんざりとした表情でおでこを抑えた。
(確かにくらくらするかも)
私達は寝不足に疲れ果てた心を付け足し、重い足取りで、四之側《よんのがわ》にある長局もどきへと向かう。
「それにしても伊桜里《いおり》様の件を探りたいのに、なかなか情報が掴めませんね。幽霊騒ぎに巻き込まれている場合じゃないのになぁ」
悔しい思いで、唇を噛む。
「そうでもないぞ」
「え、帷様は何か情報を掴んだのですか?」
(まさか、抜け駆けされた?)
私の脳裏に、井戸に消えた怪しい帷様が思い出される。あの事を本人に問うべきか、やめておくべきか。疲れた頭で考えるが、結論は出てこない。
「先程は、美麗があまりにお前を貶すものだから、ムカついて、つい手が勝手に動いた」
(え、私のために怒って下さったってこと?)
驚き帷様の顔を見上げる。すると帷様はぷぃと私から顔をそらす。
「別に深い意味はない。うまい飯を食わせてくれるお礼だ」
ぶっきらぼうに告げられた。どうやら私は思いの外、帷様の胃を掴んでしまったようだ。
「ありがとうございます」
とりあえず礼を口にすると、帷様は少しだけ嬉しそうに口角を上げた。
「それで、美麗が転んだ時に、俺の足元にこのようなものが転がってきた。手を出してくれ」
帷様が立ち止まる。足を止め、言われた通り手のひらを上に向け帷様に差し出す。
「お前はこれに見覚えがないか?」
そう言って帷様が私の手のひらの上に置いたのは、金色の小さな物体だった。
大きさは小指の爪程度。素材は真鍮《しんちゅう》のようだ。形は平たい円形で、輪の中に蔦の葉のような文様が収められている。
(これは家紋?あっ!)
「もしかして、これって丸に蔦《つた》。つまり、伊桜里様のご実家の紋所でしょうか?」
自分が発した言葉に動悸が激しくなる。
「正解だ。しかもそれは多分、刀の縁頭《ふちがしら》につけられる、装飾部分のものだろう」
「この大きさだと、縁の方ですかね」
手元の小さなカケラを見つめながら、寝不足の頭で思考を巡らせる。
縁頭とは、刀の肢《え》に巻く、滑り止めの糸を押さえる為の実用的な装飾品だ。そして刀剣を腰から下げた時に一番目立つ部分でもある。だから、縁の方には身分証代わりに家紋をつけておく。これはよくあることだ。
「縁には連なった模様をいれる事が多い。よってそのうちの一つが取れたのだろう」
「確かにこの大きさだと、縁の部分に並んで幾つかついていた。そんな感じに思えますね」
私は縁の部分を想像しながら答える。すると違和感なく、鍔《つば》の下に横一列にぐるりと整列した、小さな真鍮の姿が想像できた。
「伊桜里の遺品を書き留めた目録《もくろく》があるはずだ。それを正輝に確認してもらえば、詳しく判明するはず」
帷様の言葉を聞きながら、私は手の平に乗せられた、小さな家紋を見つめる。
「それが伊桜里のものだと仮定すると、何故、あの場に落ちていたのか」
帷様は私の手のひらの上から、装飾品を回収する。
「伊桜里様と仲が良かったから、遊びにきていたとか?」
私は咄嗟に思いついた可能性を口にする。
「その可能性もないとは言えぬが、どうだろうな。美麗のあのような性格を、果たして伊桜里が受け入れただろうか」
「出来れば関わりたくはないですもんね」
「勿論、お渡りがない。その事で精神的に追い詰められ、あのような苛烈な性格になったとも考えられるが……」
帷様が考え込む。その姿を眺めながら、お寿美《すみ》ちゃんが「親友の好いた人を横取りした」と、そんな事を口走っていたなと思い出す。
「台所で共に料理をする子の話だと、ここに来る前から、異性の事で女性と揉めたりしていたそうです」
「だとすると、やはり伊桜里が好んで付き合う事はしないだろう。そもそも伊桜里が美麗に近づく利点が思い浮かばない」
「そうですね」
伊桜里様は既に寵愛を受けていた。言うなれば、美麗様より優位な位置にいたはずだ。
(近づいて利点があるのは、美麗様のほう)
美麗からすれば伊桜里様は、光晴様に最も近い女性だ。となれば伊桜里様に取り入っておけば、光晴様と御目見得《おめみえ》出来るかも知れない。
浅はかな考えではあるが、ここではそれくらいしか、御目見得以下が光晴様と顔を合わせる方法はない。しかし正当な手順を踏み、御中臈として大奥入りをした伊桜里様に簡単に近づけるものだろうか。
(部屋方が身の回りの世話をするから、なかなかお近づきになれないと思うのだけど)
現に私は未だ大奥を取り仕切る頭のような存在である御年寄《おとしより》の岡島《おかじま》様と顔を合わせていない。そして御中臈である美麗様に会うのも、今日が初めてだった。
「そもそも公方様のお手付きになるにはどうしたらいいのですか?」
浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「まさか、お前は光晴を狙っているのか?」
帷様がギョッとした表情で固まる。
「あ、いいえ違います。そんなの畏れ多くて無理です」
「では何故そのような事を。その気がないのであれば、気にせずとも良いではないか」
何故か言い渋る帷様。
「伊桜里様の物が美麗様の部屋に落ちていた。だとすると二人は知り合いであった可能性があるのかなと思いまして。それで、二人に共通しているのは公方様の寵愛を受けていた者同士だという事なので……」
(あ、でも待って)
私はふと気付く。
「二之側は有り得ないくらい掃除が行き届いていました。それなのに今更それが落ちているというのは、何かおかしくないですか?」
私は塵一つ落ちていなかった二之側の廊下を思い出す。あそこまで綺麗にしているのに、いまさら部屋に落ちていたのはおかしい。
(まるで誰かがあの場で落として、私達にわざと拾わせたような)
そう疑う気持ちになったが、すぐに「それはない」と思った。何故なら、帷様が美麗様の打掛けを掴むだなんて、誰にも予測出来ないはずだからだ。
「美麗が動いた途端、転がってきた。だからもともと着物に付着していたのかも知れん」
(確かにそれはあるか)
着物は汚れるまで着通す事が常識だ。何故なら洗濯が一苦労だからである。というのも毎年衣替えの時期になると、洗張りといって、着物の糸を全てほどく作業に追われるからだ。しかも、ほどいた着物はそれで終了ではない。
(むしろそこからお洗濯が始まるわけで)
ほどいた着物は丁寧に一枚一枚洗ってから、板に張り乾かす。
(そのあとまた縫い合わせして着物の形に戻すまでが、洗張り……)
つまり、私達にとって着物の洗濯は、もっとも重労働といえる家事だ。
(だけど、衣替えは終わったばかりだし、美麗様の打掛けは綺麗そうだったし)
まだ洗張りをする前の打掛けである可能性はありそうだ。だとすると、帷様が拾った真鍮の欠片は、美麗様の着物に元々張り付いていた。そう推測するのが自然な気がする。
「どれもこれも、先程お前が口にした、お手付き云々の質問に、関係がないように思えるが」
「え?」
帷様が前置きなく発した言葉を受け、私は一瞬何の事だから分からず、呆けてしまう。
「ええと、それは、公方様のお手付きになるにはどうしたらいいのですか?という私の質問についての話でしょうか」
「あぁ、そうだ。何故そんな事をお前が気にするんだ?」
何だかしつこい帷様。寝不足にはわりときつい。
「だからそれは……」
(勿体ぶらずにさっさと教えてくれればいいのに)
内心そう思いながら今度は新たな疑問が頭に浮かぶ。
「そもそもこんなに多くの女性がいて、何故美麗様が選ばれたのでしょう。器量よく、性格の良い子は他にも沢山おりますよ?」
「その件ならば、答えてやる」
帷様はそう口にすると歩き始めた。早く帰路につきたいと願う私も後に続く。
「お前は西の丸にいる天花院《てんかいん》様の事をどの程度知っている?」
突然思っても見なかった名が飛び出した。戸惑いながらも口を開く。
「前将軍秀光様が最後に迎えられた正妻であり、現将軍光晴様の御生母ではないこと。それからまだ二十五と、とてもお若い方だということ。それくらいです」
以前噂として「光晴様と男女の仲にある」という話を聞いたが、それはあまりに下世話《げせわ》な話すぎるので言わないでおいた。
「そうだな。付け加えるとすれば、天花院様と光晴様が顔を合わせたのは数回ほど。その上大奥に入り二年と日が浅いうちに、主君を亡くした天花院様をどう扱うべきか、その対応に頭を悩ませていらっしゃるということだろう」
帷様は普通なら知り得ない事をサラッと口にした。どうやら相当な事情通のようだ。
(井戸の件といい、今回の事といい)
実は光晴様が私的に雇った御庭番《おにわばん》なのかもしれない。私はそんなふうに疑いつつ、口を開く。
「光晴様が「悩まされて」というのは」
具体的には?と言いかけてやめた。
この問題は踏み込んでいい話なのかどうか。咄嗟に判断出来なかったからだ。
(今日は失言が多いな)
やはり寝不足は大敵という事だろうか。密かに反省する。
「光晴様は、まだお若い天花院様を西の丸に閉じ込めておくこと。そして彼女がそれを本当に望んでいるのかどうか。その二点に胸を痛めておられる」
(そういうことか)
私は納得する。
確かにまだ二十五歳である天花院様は、市井の常識からすれば「女盛り」だと言える。つまり、大奥に入りさえしなければ、「人生これから」と言えるような歳だということだ。
「もっとも、天花院様は西の丸において、秀光様の菩提《ぼだい》を弔《とむら》い余生をひっそりと過ごしたいと仰っている」
帷様はとても疲れた様子で話を続ける。
「更に言えば、秀光様が「次代のお世継ぎの後継となり、しっかり東雲《しののめ》家を影で支えるように」とご自身に言い残されたと、主張されてもいるんだ」
「つまり、天花院様は先代将軍とのお約束を果たそうとなさっていらっしゃる。とても立派な方なんですね」
「あぁ。だからこそ蔑《ないがし》ろにできぬのだ。しかも天花院様はなんと言うか、気の強い……男勝りな……とにかく、快活な方であって」
何度か言い直しつつ、帷様は続ける。
「光晴様にお世継ぎがいない事を誰よりも危惧《きぐ》されている。よって、西の丸に隠居した身でありながら、同じ思いを抱える岡島を通し、大奥にあれこれ口出しをしているようだ」
「その噂は町方でも耳にしました」
(そっか)
美麗様はそもそも岡島様付きの部屋方だったはずだ。つまり元々光晴様に召し上げられる事を前提に、大奥入りをした女性だといえる。
(だから光晴様に御目見得すること)
そんなのは自分が努力せずとも、周囲が勝手にお膳立てするに違いない。
(そしてその影には天花院様がいると……)
帷様が突然天花院様のお名前を口にされた。その意味をようやく私は理解する。
「光晴様は天花院様に、お父上であられる秀光様が病に倒れた時、最後までお側につき、しっかりと看取って頂いたという御恩を感じている。だから無碍にする事も出来ぬし、したいとも思っていない」
「確かに肉親を大事にしてくれる人を悪くは思えませんものね」
脳裏に乳母であるお多津のシワシワの顔が浮かぶ。彼女とは血の繋がりはない。けれど私にとっては大事な人だ。
(光晴様も、そういう気持ちなのかな)
私は何となく天花院様が大奥に口出しをする事に対し、何も言えない光晴様のお気持ちが理解出来るような気がした。そして将軍とは言え、やはり人の子なのだなと改めて思う。
「光晴様が天花院様を大切に思うのならば、私はそれを尊重したいと思っている。だが、現在の天花院様は、光晴様のためだと、町方で評判の娘を次々と岡島の部屋子にしようと画策しているようだ」
帷様は下ろした手を強く握る。
「本人が願うのであれば問題はない。しかし、騙すような事をして大奥に連れてきているのだとしたら、それは許されない。もし行き過ぎた行為を発見したら、俺はどうにかして天花院様や岡島を止めねばならぬ」
帷様は厳しい顔で抱えた思いを吐き出した。
それを目の当たりにした私は、自分でも気づかぬうちにとんでもない事に巻き込まれつつあるのではないか。
(何かが起こりそうな気がする)
私の第六感が働き、背筋がヒヤリとしたのであった。