一度だけお手つきになった美麗様。そんな彼女が「伊桜里様の幽霊を見た」と騒いでいる。
その事実を奥女中仲間のお寿美ちゃんから聞いた時、私はてっきり光晴様のお渡りを願う美麗様の狂言だと思った。
寵愛を受けていた伊桜里様の名を出して騒げば、それなりに話題にあがる。そしてその話が光晴様の耳に届けば、「何事か?」と大奥へ足をお運びになるかも知れない。
(単純だけど、効果的ではあるよねぇ)
正直、亡くなった人を幽霊に仕立てるという、そのやり方には賛同出来ない。しかしただ何もせず、首を長くしてお渡りを待ち続ける事。それに我慢ならない気持ちは理解できなくもない。
(だってここは大奥。お世継ぎを残す事をみんなから期待される場所だもん)
だから、自ら仕掛けようとする気持ちが湧くのは当たり前だと思うし、実際行動した部分に関しては、ある意味尊敬にあたるとも思う。
(自分の人生がかかっているしねぇ)
自ら運命を切り開こうと行動すること。それは当たり前であって、その事自体を誰かが咎めるのは、違うような気がした。
結局のところ、今回の美麗様はやり方を間違えただけ。
(しかも幽霊だなんて、誰も相手にしないに決まってるし)
そんな感想を抱き、私はこの件を楽観視していた。そして、私がお寿美ちゃんから美麗様の件を聞いた二日後のこと。
帷様と昼番を終えた私は、割り当てられた長局もどきに戻り、「今日の夕餉(ゆうげ)は何にしようかな」とあれこれ考えながら、共同台所へ向かう準備をしていた。しかしそこへ、慌てた様子の御火乃番仲間が現れる。
「お琴ちゃんと、帷ちゃん。まだいてよかった。お清様が今すぐ部屋に集まるようにだって」
「部屋?どこの?」
「三之側にあるお清様の部屋。だからそこに集合だって。その辺の人に聞けばわかると思う。じゃ、後で」
旋風が巻き起こったように、去っていく同僚。
「ええと、帷様。私達はまた出かけないと行けないようです」
「ふむ、頑張れよ」
私は何事もなかったかのように、お風呂に向かおうと、横を通り過ぎる帷様の小袖を掴む。
「帷様、どちらに?」
「……」
極まり悪い顔をして立ち止まる帷様。それから盛大にため息をついた。
「面倒極まりないな。しかもこっちは今の今まで働いていたんだぞ」
「お気持ちはわかりますが、呼ばれたからにはひとまず行かないと」
「お前が行けば良い」
「しっかり「帷ちゃん」もあたま数に入ってましたよ?」
「チッ」
「舌打ちしない!」
私は不機嫌全開の帷様を無理矢理連れ出し、指定された場所に向かった。
「こっち、こっち」
見知った顔に手招きされ向かうと、既に招集場所と思われるお清様の部屋の中は満杯だった。仕方がないので帷様と私は部屋からはみ出た、廊下部分に正座する。
「中にすら入れぬのであれば、帰っても気づかれないのでは?」
「ダメです、点呼があったらどうするんですか」
「お前が」
「お断りします」
帰りたくて仕方がないらしい帷様を宥めつつ、私は集められた面々を確認する。そしてすぐに気付く。
「どうやらここにいるのは、御火乃番に就く者だけのようです」
「みたいだな」
「何かあったのでしょうか?」
「知らん、だがすぐにわかるだろう」
そう言って、帷様は顎を少し動かした。私は顎で示されたほうに顔を向ける。すると|御火乃番頭、つまり私達の長であるお清様が、部屋の上座に現れた。
「急に招集をかけてすまないね。先程岡島様より、御達しがありました。しばらくの間、美麗様の御部屋の前。特に渡り廊下の夜廻|《よまわ》りを強化されたし、とのことです」
お清様は淡々とした口調で告げる。
「よって、それぞれの暇を削り、見廻りに出てもらう事になると思います」
お清様は申し訳なさそうな表情を私達に向けた。
「皆様、色々と思う事はおありでしょう。しかし私達は公方様のお膝元で安全を守る大事な職についております。その事をしかと心に刻み、励みましょう。追って夜廻りの割り振りは知らせます。それまでは、通常通りで火の番につくこと」
「美麗様の件に当たるのは、今日の夜からですか?」
前方に座っていたお滝様が、鋭い質問をぶつける。
(うわ、勇気あるなぁ)
流石饅頭で帷様と私を売っただけある。しっかり者だなと、思わず感心してしまう。
「岡島様から「早急に手配するように」と承りました」
「つまり今日の夜からって事か……」
お滝様の意気消沈といった声が響き、一斉に肩を落とす私達。勿論私も例外ではない。
(たかがでっちあげの幽霊騒ぎにみんなが駆り出されるなんて)
御火乃番は、朝昼晩を問わず、常に大奥内の火の用心と警護のため、決められた場所を二人一組で巡回している。そして御火乃番につく女中は総勢十八名。つまり実質九組で全体を見廻る事となる。それだけいれば充分だと思われがちだが、ここは大奥。恐ろしく広い場所だ。よって常にカツカツの人員配置で当番を回しているのである。
(美麗様の部屋を夜廻りかぁ……帷様のお食事を作る時間は、果たして取れるのだろうか)
この時はまだ、私にもそんな余裕があった。
しかしそれから数日後、事態は急変する。
急遽組み直された当番表にそって、美麗様の居住区になる二之側の夜廻りをしていた御火乃番二名。その二名が「伊桜里様の幽霊を見た」と口を揃えて言い出したからだ。
その件を受け、お清様がみんなに通達する。
『皆を不要に怖がらせてはなりません。この件はくれぐれも他言せぬように』
しかしお清様の言葉を他所に「御火乃番も伊桜里様の幽霊を見たらしい」と、あっと言う間に大奥中に知れ渡る事となる。
そして。
『やっぱり美麗様が見たというのは、本当だったのよ』
『そうね。御火乃番が見たんだもの。間違いないわ』
『本当に伊桜里様が化けて出るんだわ』
今まで信じていなかった者達までもが、手のひらを返したように、美麗様の話を信じるようになった。そして幽霊話はどんどん大きくなっていく。
大奥では「白い影を見た」だとか、「井戸の近くで「熱いよ」と泣いてる声が聞こえた」だとか、「家に帰りたいと啜り泣いている子どもを見た」だとか。
三歩歩けば幽霊話に当たる、と言った感じ。あちらこちらで幽霊の目撃情報が囁かれるようになってしまった。
そしてついには。
『開かずの部屋となる、宇治の間の前で伊桜里様を見た』
というとんでも話が、大奥内を早馬のごとく駆け巡る事となってしまったのである。
そして大奥は恐怖の波にのみこまれる事となる。
何故なら――。
『宇治の間の前に幽霊が出た時。それは不幸が起こる前兆』
古くからそう言い伝えられていたからだ。
***
ガサガサと揺れる葉の音。
ホウホウと鳴く鳥の声。
それから私の肌を突き刺すような、冷たい風。
辺りに人影はなく、静まり返る大奥。
昼間明るく活気ある場所ほど、夜になり闇が濃くなると、途端に不気味さが増すものだ。
「みなさま、火の用心なさりましょう」
片手に手燭を持ち、長廊下をゆっくりと進みながら私は声をあげる。
「火の用心、火の用心」
私はさらに声を張り上げる。
現在帷様と私は御火乃番の仕事中。ゆっくりと進む長廊下は美麗様のお住まいである二之側のもの。つまり、大奥内を恐怖に陥れている、幽霊騒ぎの発端となった場所ということだ。
「あいつらは寒いから、怖がっているフリをしているに違いない」
「それはないかと。皆様本当に怯えていらっしゃいましたから」
答えながら、身を撫でる夜風の冷たさから身を守ろうと、藍色に染めた綿入りの小袖の襟元をしっかりと握りしめる。
(まぁ、帷様が文句を言いたくなる気持ちはわかるけど)
幽霊騒ぎが加熱の一途を辿った結果、美麗様が幽霊を見たと証言した場所の夜廻りを、皆が揃って辞退した。そのため帷様と私は「お主達しか残っておらぬ」と、御火乃番頭のお清様から泣きつかれてしまったのである。
その結果、帷様と私は、毎日この場所を夜廻りする羽目になった、というわけだ。
「全く夜廻りは好かん」
「私も好かんです」
答えてから、私はすぅと息を吸う。
「火の用心、さっしゃりましょう」
喋るとバレる。だから声をあげられないという帷様の分も私が、という意気込みで声を張り上げた。
「帷様は一連の騒動をどうお考えですか?」
「実にくだらん。それに尽きる」
帷様はいかにも面倒くさいといった顔で答えた。どうやら夜回りに納得していないようだ。
「そもそも、幽霊なんぞ、いるわけがない」
「確かに」
「しかしそう思うからこそ、このような面倒事を押し付けられる羽目になったとも言える」
「仰るとおりです。これからは多少なりとも怯えてみせたほうがいいかも知れません」
「そうだな」
私達は顔を見合わせ苦笑する。
幽霊がいるかどうか。実際のところはわからない。けれど、少なくとも私は幽霊なんて見た事がない。
(だからいないと思うけど)
「火の用心、火の用心、火の用心」
三回分ほどまとめて連呼してから、常々疑問に思っていた事を帷様にたずねる。
「そもそも幽霊を見たという人は、何を見て、幽霊を見たと言っているんでしょうか」
私の問いかけに帷様はしばし考える素振りを見せた。
「俺は幽霊など信じていない。その観点から想像するに、ここの者達は、同調行動をしているのではないだろうか」
「同調行動。それって、みんなに合わせてしまうことですよね?」
大勢の人間が同じ言動をしていると、それが正しいと思い込み、自分の判断力が鈍くなる事がある。その結果、意識的にも無意識的にも、その場の雰囲気に合わせた行動をとってしまう。それが同調行動だ。
「つまり、みんなが幽霊を見た。そう言っているから、私も見た。そのように嘘をついているという事でしょうか?」
「全ての人間が嘘をついている訳ではないだろう。幽霊がいると思い込んだ結果、誰かの影を幽霊だと勘違いしている場合もあるだろうからな」
「それはあるかも知れませんね」
「大奥は閉鎖的な場所だ。この場所で平和に暮らすには、うまく人付き合いをしていくしかない。それも皆に合わせてしまう要因だろうな」
「事を荒立てない為にも同調しておく。その結果、ここまで大騒ぎになってしまったと。火の用心!!」
私は投げやりな掛け声をかけておく。
「でも怖いですね。何か良くない事が起こらなければいいのですが」
呟くように言うと、帷様が呆れたような声を出す。
「まさかお前は宇治の間の噂を信じているのか?」
「信じてはいないですよ。ただ、もし何か偶然的に良くない事が起こった場合、今ならもれなく伊桜里様のせいにされちゃいます。それが嫌なだけです」
伊桜里様は無実の罪を着せられても釈明することができない。だから罪を着せてもいい。そうはならないし、なってはいけない。
勿論時として、幽霊のせい。そう言って誤魔化した方が楽な場合もある。しかし今回ばかりは、心が痛いし、見過ごせない。
「自分亡き後でも、己の名誉を守ろうとする者がいる。伊桜里もきっと喜んで」
帷様は突然口を閉じ、足を止めた。
「みなさま、火の用心なさりましょう。って帷様、どうかされました?」
不審な動きをした帷様を怪訝な顔で見つめる。
「おい、あれを見ろ」
真面目な顔をした帷様が、手燭を掲げ前方を指す。一体なんだろうと、私もその先を見る。するとそこには、ぼんやりと白い影が見えた。
(あれ?)
違和感を覚えた私は集中し、目を凝らす。
「誰だ! そこで何をしている!?」
帷様が大声で問いかける。すると白い影は私達に背を向けると、突然走り始めた。
「あっ!」
思わず声をあげる。
「逃げるな、待て」
帷様が女性を追おうと、大きく足を踏み出す。とその時。
「出たのですね!!」
「きゃー!!」
突然部屋から小袖姿の奥女中達が飛び出してきた。
「伊桜里様の幽霊だわ」
「皆様、塩を、早く」
「除霊しないとですわ」
「あぁ、なんまいだー、なんまいだー」
「どうぞ、安らかにお帰り下さい」
一心不乱に塩を振り巻く者。何故か手に竹箒を持ち振り回す者。それから、数珠を手に南無阿弥陀仏を唱えはじめる者。
その姿に圧倒され、帷様と私はその場に固まる。
「一体これは」
「なんでしょう……」
帷様も私も、ひたすら唖然とするしかなかったのであった。
その事実を奥女中仲間のお寿美ちゃんから聞いた時、私はてっきり光晴様のお渡りを願う美麗様の狂言だと思った。
寵愛を受けていた伊桜里様の名を出して騒げば、それなりに話題にあがる。そしてその話が光晴様の耳に届けば、「何事か?」と大奥へ足をお運びになるかも知れない。
(単純だけど、効果的ではあるよねぇ)
正直、亡くなった人を幽霊に仕立てるという、そのやり方には賛同出来ない。しかしただ何もせず、首を長くしてお渡りを待ち続ける事。それに我慢ならない気持ちは理解できなくもない。
(だってここは大奥。お世継ぎを残す事をみんなから期待される場所だもん)
だから、自ら仕掛けようとする気持ちが湧くのは当たり前だと思うし、実際行動した部分に関しては、ある意味尊敬にあたるとも思う。
(自分の人生がかかっているしねぇ)
自ら運命を切り開こうと行動すること。それは当たり前であって、その事自体を誰かが咎めるのは、違うような気がした。
結局のところ、今回の美麗様はやり方を間違えただけ。
(しかも幽霊だなんて、誰も相手にしないに決まってるし)
そんな感想を抱き、私はこの件を楽観視していた。そして、私がお寿美ちゃんから美麗様の件を聞いた二日後のこと。
帷様と昼番を終えた私は、割り当てられた長局もどきに戻り、「今日の夕餉(ゆうげ)は何にしようかな」とあれこれ考えながら、共同台所へ向かう準備をしていた。しかしそこへ、慌てた様子の御火乃番仲間が現れる。
「お琴ちゃんと、帷ちゃん。まだいてよかった。お清様が今すぐ部屋に集まるようにだって」
「部屋?どこの?」
「三之側にあるお清様の部屋。だからそこに集合だって。その辺の人に聞けばわかると思う。じゃ、後で」
旋風が巻き起こったように、去っていく同僚。
「ええと、帷様。私達はまた出かけないと行けないようです」
「ふむ、頑張れよ」
私は何事もなかったかのように、お風呂に向かおうと、横を通り過ぎる帷様の小袖を掴む。
「帷様、どちらに?」
「……」
極まり悪い顔をして立ち止まる帷様。それから盛大にため息をついた。
「面倒極まりないな。しかもこっちは今の今まで働いていたんだぞ」
「お気持ちはわかりますが、呼ばれたからにはひとまず行かないと」
「お前が行けば良い」
「しっかり「帷ちゃん」もあたま数に入ってましたよ?」
「チッ」
「舌打ちしない!」
私は不機嫌全開の帷様を無理矢理連れ出し、指定された場所に向かった。
「こっち、こっち」
見知った顔に手招きされ向かうと、既に招集場所と思われるお清様の部屋の中は満杯だった。仕方がないので帷様と私は部屋からはみ出た、廊下部分に正座する。
「中にすら入れぬのであれば、帰っても気づかれないのでは?」
「ダメです、点呼があったらどうするんですか」
「お前が」
「お断りします」
帰りたくて仕方がないらしい帷様を宥めつつ、私は集められた面々を確認する。そしてすぐに気付く。
「どうやらここにいるのは、御火乃番に就く者だけのようです」
「みたいだな」
「何かあったのでしょうか?」
「知らん、だがすぐにわかるだろう」
そう言って、帷様は顎を少し動かした。私は顎で示されたほうに顔を向ける。すると|御火乃番頭、つまり私達の長であるお清様が、部屋の上座に現れた。
「急に招集をかけてすまないね。先程岡島様より、御達しがありました。しばらくの間、美麗様の御部屋の前。特に渡り廊下の夜廻|《よまわ》りを強化されたし、とのことです」
お清様は淡々とした口調で告げる。
「よって、それぞれの暇を削り、見廻りに出てもらう事になると思います」
お清様は申し訳なさそうな表情を私達に向けた。
「皆様、色々と思う事はおありでしょう。しかし私達は公方様のお膝元で安全を守る大事な職についております。その事をしかと心に刻み、励みましょう。追って夜廻りの割り振りは知らせます。それまでは、通常通りで火の番につくこと」
「美麗様の件に当たるのは、今日の夜からですか?」
前方に座っていたお滝様が、鋭い質問をぶつける。
(うわ、勇気あるなぁ)
流石饅頭で帷様と私を売っただけある。しっかり者だなと、思わず感心してしまう。
「岡島様から「早急に手配するように」と承りました」
「つまり今日の夜からって事か……」
お滝様の意気消沈といった声が響き、一斉に肩を落とす私達。勿論私も例外ではない。
(たかがでっちあげの幽霊騒ぎにみんなが駆り出されるなんて)
御火乃番は、朝昼晩を問わず、常に大奥内の火の用心と警護のため、決められた場所を二人一組で巡回している。そして御火乃番につく女中は総勢十八名。つまり実質九組で全体を見廻る事となる。それだけいれば充分だと思われがちだが、ここは大奥。恐ろしく広い場所だ。よって常にカツカツの人員配置で当番を回しているのである。
(美麗様の部屋を夜廻りかぁ……帷様のお食事を作る時間は、果たして取れるのだろうか)
この時はまだ、私にもそんな余裕があった。
しかしそれから数日後、事態は急変する。
急遽組み直された当番表にそって、美麗様の居住区になる二之側の夜廻りをしていた御火乃番二名。その二名が「伊桜里様の幽霊を見た」と口を揃えて言い出したからだ。
その件を受け、お清様がみんなに通達する。
『皆を不要に怖がらせてはなりません。この件はくれぐれも他言せぬように』
しかしお清様の言葉を他所に「御火乃番も伊桜里様の幽霊を見たらしい」と、あっと言う間に大奥中に知れ渡る事となる。
そして。
『やっぱり美麗様が見たというのは、本当だったのよ』
『そうね。御火乃番が見たんだもの。間違いないわ』
『本当に伊桜里様が化けて出るんだわ』
今まで信じていなかった者達までもが、手のひらを返したように、美麗様の話を信じるようになった。そして幽霊話はどんどん大きくなっていく。
大奥では「白い影を見た」だとか、「井戸の近くで「熱いよ」と泣いてる声が聞こえた」だとか、「家に帰りたいと啜り泣いている子どもを見た」だとか。
三歩歩けば幽霊話に当たる、と言った感じ。あちらこちらで幽霊の目撃情報が囁かれるようになってしまった。
そしてついには。
『開かずの部屋となる、宇治の間の前で伊桜里様を見た』
というとんでも話が、大奥内を早馬のごとく駆け巡る事となってしまったのである。
そして大奥は恐怖の波にのみこまれる事となる。
何故なら――。
『宇治の間の前に幽霊が出た時。それは不幸が起こる前兆』
古くからそう言い伝えられていたからだ。
***
ガサガサと揺れる葉の音。
ホウホウと鳴く鳥の声。
それから私の肌を突き刺すような、冷たい風。
辺りに人影はなく、静まり返る大奥。
昼間明るく活気ある場所ほど、夜になり闇が濃くなると、途端に不気味さが増すものだ。
「みなさま、火の用心なさりましょう」
片手に手燭を持ち、長廊下をゆっくりと進みながら私は声をあげる。
「火の用心、火の用心」
私はさらに声を張り上げる。
現在帷様と私は御火乃番の仕事中。ゆっくりと進む長廊下は美麗様のお住まいである二之側のもの。つまり、大奥内を恐怖に陥れている、幽霊騒ぎの発端となった場所ということだ。
「あいつらは寒いから、怖がっているフリをしているに違いない」
「それはないかと。皆様本当に怯えていらっしゃいましたから」
答えながら、身を撫でる夜風の冷たさから身を守ろうと、藍色に染めた綿入りの小袖の襟元をしっかりと握りしめる。
(まぁ、帷様が文句を言いたくなる気持ちはわかるけど)
幽霊騒ぎが加熱の一途を辿った結果、美麗様が幽霊を見たと証言した場所の夜廻りを、皆が揃って辞退した。そのため帷様と私は「お主達しか残っておらぬ」と、御火乃番頭のお清様から泣きつかれてしまったのである。
その結果、帷様と私は、毎日この場所を夜廻りする羽目になった、というわけだ。
「全く夜廻りは好かん」
「私も好かんです」
答えてから、私はすぅと息を吸う。
「火の用心、さっしゃりましょう」
喋るとバレる。だから声をあげられないという帷様の分も私が、という意気込みで声を張り上げた。
「帷様は一連の騒動をどうお考えですか?」
「実にくだらん。それに尽きる」
帷様はいかにも面倒くさいといった顔で答えた。どうやら夜回りに納得していないようだ。
「そもそも、幽霊なんぞ、いるわけがない」
「確かに」
「しかしそう思うからこそ、このような面倒事を押し付けられる羽目になったとも言える」
「仰るとおりです。これからは多少なりとも怯えてみせたほうがいいかも知れません」
「そうだな」
私達は顔を見合わせ苦笑する。
幽霊がいるかどうか。実際のところはわからない。けれど、少なくとも私は幽霊なんて見た事がない。
(だからいないと思うけど)
「火の用心、火の用心、火の用心」
三回分ほどまとめて連呼してから、常々疑問に思っていた事を帷様にたずねる。
「そもそも幽霊を見たという人は、何を見て、幽霊を見たと言っているんでしょうか」
私の問いかけに帷様はしばし考える素振りを見せた。
「俺は幽霊など信じていない。その観点から想像するに、ここの者達は、同調行動をしているのではないだろうか」
「同調行動。それって、みんなに合わせてしまうことですよね?」
大勢の人間が同じ言動をしていると、それが正しいと思い込み、自分の判断力が鈍くなる事がある。その結果、意識的にも無意識的にも、その場の雰囲気に合わせた行動をとってしまう。それが同調行動だ。
「つまり、みんなが幽霊を見た。そう言っているから、私も見た。そのように嘘をついているという事でしょうか?」
「全ての人間が嘘をついている訳ではないだろう。幽霊がいると思い込んだ結果、誰かの影を幽霊だと勘違いしている場合もあるだろうからな」
「それはあるかも知れませんね」
「大奥は閉鎖的な場所だ。この場所で平和に暮らすには、うまく人付き合いをしていくしかない。それも皆に合わせてしまう要因だろうな」
「事を荒立てない為にも同調しておく。その結果、ここまで大騒ぎになってしまったと。火の用心!!」
私は投げやりな掛け声をかけておく。
「でも怖いですね。何か良くない事が起こらなければいいのですが」
呟くように言うと、帷様が呆れたような声を出す。
「まさかお前は宇治の間の噂を信じているのか?」
「信じてはいないですよ。ただ、もし何か偶然的に良くない事が起こった場合、今ならもれなく伊桜里様のせいにされちゃいます。それが嫌なだけです」
伊桜里様は無実の罪を着せられても釈明することができない。だから罪を着せてもいい。そうはならないし、なってはいけない。
勿論時として、幽霊のせい。そう言って誤魔化した方が楽な場合もある。しかし今回ばかりは、心が痛いし、見過ごせない。
「自分亡き後でも、己の名誉を守ろうとする者がいる。伊桜里もきっと喜んで」
帷様は突然口を閉じ、足を止めた。
「みなさま、火の用心なさりましょう。って帷様、どうかされました?」
不審な動きをした帷様を怪訝な顔で見つめる。
「おい、あれを見ろ」
真面目な顔をした帷様が、手燭を掲げ前方を指す。一体なんだろうと、私もその先を見る。するとそこには、ぼんやりと白い影が見えた。
(あれ?)
違和感を覚えた私は集中し、目を凝らす。
「誰だ! そこで何をしている!?」
帷様が大声で問いかける。すると白い影は私達に背を向けると、突然走り始めた。
「あっ!」
思わず声をあげる。
「逃げるな、待て」
帷様が女性を追おうと、大きく足を踏み出す。とその時。
「出たのですね!!」
「きゃー!!」
突然部屋から小袖姿の奥女中達が飛び出してきた。
「伊桜里様の幽霊だわ」
「皆様、塩を、早く」
「除霊しないとですわ」
「あぁ、なんまいだー、なんまいだー」
「どうぞ、安らかにお帰り下さい」
一心不乱に塩を振り巻く者。何故か手に竹箒を持ち振り回す者。それから、数珠を手に南無阿弥陀仏を唱えはじめる者。
その姿に圧倒され、帷様と私はその場に固まる。
「一体これは」
「なんでしょう……」
帷様も私も、ひたすら唖然とするしかなかったのであった。