その日私は、帷様が長局改め、掘っ立て小屋からこっそり抜け出す気配に気付いていた。
帷様はコソコソとやたら手慣れた感じで立ち回っていたが、生憎私は伊賀者、くノ一連い組の忍びである。
(気付かないわけないじゃない)
帷様が部屋の戸を閉め、それからきっちり二十秒。布団の中でわざとらしい寝息を立ててから、むくりと起き上がった。そして半纏を手に取ると、外に出た帷様の後を追う。
闇夜に紛れ尾行するのは得意だ。案の定、警戒しつつ先を急ぐ帷様が、私に気付く事はなかった。
そんなおっちょこちょいな帷様が足をとめる。辿り着いたのは、大奥内にいくつもある井戸の一つだった。それは普段からあまり人が寄り付かないと言われる井戸。その井戸を眺めながら、私の脳裏に共同台所での一幕が蘇る。
毎日共同台所に向かい、いそいそと調理する私。その周りでは私と同じように、自分たちの食事を用意する為に訪れた奥女中達がいた。彼女たちは馴染みある者同士で固まり、愚痴に噂話などなど。盛んに情報を交換し合っている。しかも休憩時間を利用して台所を訪れているせいか、みな、心を開いた様子で幾分口が軽くなっているという状況だ。
(これはまさに、情報収集に最適な場所なのでは?)
悟った私は即座に行動に移す。毎回少しだけ多めに材料を購入し、帷様と私で食べきれない分を、料理下手な子、それから、食に興味がありそうな子などに目星をつけ、日々無償で「余ったので、良かったら」と分け与えた。
すると、その甲斐あって私にも、数人ほどではあるが、顔馴染みと呼べる子ができた。
そしてある日、常々気になっていた事を友人となった奥女中達にさりげなくたずねたのである。それは長局の南端に捨て置かれたように存在する、からくりの錠前がついた明らかに怪しい井戸のこと。
そう、帷様が消えた怪しい井戸である。
『あー、四之側の南端にある井戸なら、長局から出火した大火事で多くの奥女中が助けを求め、飛び込んだと言われる、悲劇の井戸だね』
『今でも時折、助けてと言う悲痛な叫びが井戸の底から聞こえるんだって』
『悪い事は言わないから、お琴ちゃんも近づかないほうがいいよ』
その情報を元に、後日私は井戸を確認しに行った。すると、みんなの話を裏付けるように、大火の死者を供養する「奥女中弔いの碑」と書かれた石碑が井戸の脇にひっそりと立てられていたのである。
「なるほど、上手い事隠したもんね」
一通り、回想を終えた私は思わず感心した。
(でもまぁ、ありがちではあるか)
人が怯えるような噂を流し、その場所に秘密を隠す。それは昔から良くある手だ。とは言え、まさか大奥にそのような物が隠されているとは思わなかった。
(でも大奥だからこそか)
それこそ火事などがあった時、将軍光晴様を真っ先に救うため、地下に隠し通路が張り巡らされていてもおかしくはない。
(なるほどね)
私は帷様が消え去った井戸の蓋を見つめる。既にそこにあったはずの、からくりの錠前は跡形もなく外されている。
(確か正しい順番で、鍵を差し込む錠前だったはず)
つまり井戸の中に消えた帷様は鍵を持っていて、しかも解除にかかった時間的に、錠前の正しい鍵の差し込み方を知っていたと思われる。
(一体どうして?)
不思議に思いながら、井戸の蓋に耳をつける。すると、微かに人の足音が反響するような音が聞こえてきた。
「秘密の抜け道か」
私は無駄だと思いながら、井戸の蓋を持ち上げようと試みる。しかし予想通りと言った感じ。蓋は開かない。
(今日はここまでか)
私は腕組みし、しばし開かずの間となった蓋を見つめる。
「問題はこの事を、正輝が知っているかどうかだけど」
知っていて放置しているのであれば、私は見てみぬフリをするだけ。
何も問題はないだろう。
(でももし、帷様の単独行動だった場合)
帷様が敵である可能性が出てきてしまう。
「一体何処に続いているんだろう」
後を付ける事が叶わぬもどかしさを感じつつ、井戸の位置から抜け道が向かう方角を導きだそうと辺りを見回す。
(意味ないか)
何故ならここは江戸城本丸大奥だ。東西南北、どこに抜けるにしろ、どこもかしこも重要な場所である事は間違いない。
「さてと、今日はこのまま寝ますかね」
私は潔く諦め、その日は部屋に帰宅した。
そして翌日。
帷様より早く起きた私は、屏風の脇から帷様の様子をうかがう。すると、帷様は埃っぽい掻巻をしっかり肩まであげ、気持ちよさそうにスースーと寝息を立てていた。
(失礼します)
心で断り、帷様に近づく。
相変わらず玉のようなツヤツヤの肌で憎らしい。
(あっ、髭の剃り残し発見!!)
完璧で女性顔負けの美しい帷様に髭がある事を発見し、謎に優位に立った気分になる。
(ではなくて)
息を殺しさらに帷様に近づくと、匂いを嗅いだ。
(やっぱり少し埃っぽい。それにこれは……)
顔に熱が籠ったのを感じ、慌てて離れる。何故ならいつも帷様から仄かに香る、白檀の良い香りがしたからだ。
「ん……」
帷様が声を漏らす。
私は脱兎のごとく屏風の向こうに避難し、起床したばかりを装う。
「ふぁー、朝だわ」
「ん、何時だ?お前は起きているのか?」
「おはようございます。明け六つですよ、帷様」
「そうか、今日は昼番だったな。そろそろ起きねば」
モゾモゾと帷様が寝返りを打つ音がする。
「着替えたら、朝餉の用意をしてまいりますので、帷様はもう少しお休み下さい」
「すまぬ。今日は甘えさせてもらう」
寝ぼけ声で告げると、帷様の動きは止まった。
こうして私の、帷様の匂いをうっかり吸い込み動揺するという変態地味た、しかし立派な偵察行為は本人に知られる事がなかったのだが。
(さて、この件をどうするか)
私は大きな悩みを一つ抱える事となったのであった。
***
胸を張るほどの成果も出さず、大奥の御火乃番として帷様と働き初め、はや十日ほどが経ってしまった。
因みに数日前、帷様が井戸に消えた件については進展なし。というのも、私は悩んだ末、危険を冒し御広敷の詰め所にいる、伊賀者の御庭番経由で正輝に書状を渡してもらった。
そして何と返事が帰ってくるか。気が気でない私の元に届いたのは薄っぺらい一枚の書状。
慌てて確認するも、私はがっかりする事となった。なぜなら。
『お前は余計な事をするな、任務だけを考えろ候』
たったそれだけ。
(何このふざけた返事は!!)
しばし憤慨した私であったが、流石に帷様が謀反を企むような悪人であれば、正輝も放置しておくわけがない。よって「余計な事をするな」という文言は、「帷様を探るな」という意味であると理解し、私もその件については、自分の中で一旦保留とする事にした。
「けど、なんだかもやもやするんだよねぇ」
私は共同台所の端で、壺に入った糠に手を突っ込みながら思わず愚痴る。
「もやもやって、例のあのこと?」
隣で自分のぬか床をかき混ぜていた、お寿美ちゃんがしっかりと私の愚痴を拾う。
普段は御末として働く彼女は、実家が町方で有名な蕎麦屋をやっているらしい。そのせいもあるのか、お寿美ちゃんは気配り上手で、快活で、とても付き合いやすい娘だ。よって、共同台所で顔を合わせる度、気付けば自然と一緒にいる事が増えた。
「あ、ええと」
私がもやもやするのは、帷様が井戸に消えた件と、それに対する正輝の対応だ。けれどその事はお寿美ちゃんには告げていないし、そもそも言えない。
「美麗様が伊桜里様の幽霊を見たって話でしょ?」
(え、そうなの?)
ぬか床を混ぜる手をとめ、お寿美ちゃんの整ったうりざね顔を見る。すらっとした切れ長の目は至って真剣。嘘をついている顔ではなさそうだ。
「もやもやする。その気持ちわかるよ」
私に向かって頷くお寿美ちゃん。
「公方様を大奥にお呼びしたいからって、伊桜里様の名を出すだなんて、全く信じられないよね」
(そういうことか)
どうやら美麗様はしびれを切らし、強行手段に出たようだ。
そもそも美麗様という人物が、御湯殿で光晴様のお手付きになったというのが、私にはにわかに信じがたかった。けれど、ご老中の一人、岡島様の部屋方……つまり、私的に岡島様に雇われた美麗様が、一気に公儀公認である御中臈になったというのだから、お手付きの事実があった事は認めざるを得ない。
勿論、光晴様は悪い事をした訳ではない。当たり前の権利を行使しただけだ。それにその話はよくよく聞けば伊桜里様が亡くなる前の話で、しかもお手つきはその一度きり。むしろ光晴様は後悔なさっているご様子だったとも噂されている。
だから私がとやかくいうつもりはない。
けれど。
(それを知った伊桜里様は、どんな気持ちだったのかな)
頭にそんな疑問が浮かび、ついモヤモヤした気持ちになってしまう。
「美麗様を慕っている子達も、流石にやり過ぎだって、あまりいい顔をしてなかったし」
「確かに」
私はお寿美ちゃんが更なる情報をもたらしてくれる事を望み、ひとまず話を合わせる。
「ここだけの話、あたしはあの子が浅草の小谷園で看板娘をやっていた時のことを知ってるんだ」
「え、そうなの?」
それは初耳だった。
(知り合いってこと?)
浮かんだ疑問の答えはすぐに自己解決する。何故なら、お寿美ちゃんは浅草寺の近くにある、お蕎麦屋の娘だという事を思い出したから。
しかも美麗様は「浅草小町」として町方で有名だっだとくノ一連い組の誰かが言っていた事を思い出した。
以上の二点から、お寿美ちゃんが美麗様を知っていても、何らおかしな事はないということだ。
「昔から綺麗だと評判だったからか、ツンとして人を見下すような所があったし、それにあたしの親友だった子の好きな人を横取りしたんだよ」
その時の事を思い出したのか、お寿美ちゃんの鼻息が荒くなる。
「しかも大して好いてなかったくせに。昔からあの子にはそういう所があるの。男のお客さんに媚を売る愛想の良さは、天下一品なんだから」
「そうなんだ」
「しかもね」
キョロキョロと辺りを見回し、お寿美ちゃんは私の耳に口を寄せる。
「美麗様は、本当は遊女が産んだ子なんじゃないかって、そんな噂もあるんだよ」
小声で告げられたのは、予想だにしなかった噂話だ。
(確かにあの辺には遊郭があるけど)
私は浅草寺付近に広がる光景を思い出す。
身売りされた女が逃げないよう、高い木の塀で囲まれているのが、浅草寺の裏手にある吉原遊郭と呼ばれる区画だ。そこは全国から多くの人が集まる歓楽街で、いつも人で賑わっている。
「でも、大奥に入る時に身辺調査をされるよね?流石に遊郭の子は入れないんじゃないかなぁ」
私はさりげなく「それはないのでは?」と匂わせる。
「まぁね。美麗様は確かに馬道通りの裏手に住んでる留吉さんとこの子だし。でも天性の男ったらしだって、みんな言ってたし」
お寿美ちゃんは素気なく返す。言葉尻には私が疑っている事を不服に思う気持ちが込められている。
「確かに御湯殿で公方様に色目を使ったって話だし、そういう事に手慣れていたら、誰だってそう思うよね」
慌ててお寿美ちゃんの肩を持つ。貴重な情報源でもある彼女の機嫌を損ねる訳にはいかないからだ。
(でもまぁ、遊女の子である可能性は低いと思うけど)
そういう噂が出るのは、吉原遊郭に近いという、土地柄なのだろう。
そして、美麗様の日々の行いが、町方でその噂を呼んだに違いない。男に媚を売るのが上手い「遊女みたいな子」という話が、人の口を渡り歩き、「遊女の子」に変化して広まった。この流れは容易に想像できる。
(実際はどんな人なんだろう)
私は俄然、美麗様に興味が湧いてきた。
「ちょっと、あんた達なんでここで糠なんて混ぜてるのよ。臭いから外でやって」
かまどの前から、声が飛んでくる。
「えー、だって外は寒いし」
お寿美ちゃんが口を尖らせる。
「着物に匂いがつくから。ほら、早く行った、行った」
追い立てられるように、手を振られる。
「わかったわよ。行こう、お琴ちゃん」
「うん」
お寿美ちゃんと私は、揃って小さな糠壺を抱え、寒空の下に渋々足を進めたのであった。
帷様はコソコソとやたら手慣れた感じで立ち回っていたが、生憎私は伊賀者、くノ一連い組の忍びである。
(気付かないわけないじゃない)
帷様が部屋の戸を閉め、それからきっちり二十秒。布団の中でわざとらしい寝息を立ててから、むくりと起き上がった。そして半纏を手に取ると、外に出た帷様の後を追う。
闇夜に紛れ尾行するのは得意だ。案の定、警戒しつつ先を急ぐ帷様が、私に気付く事はなかった。
そんなおっちょこちょいな帷様が足をとめる。辿り着いたのは、大奥内にいくつもある井戸の一つだった。それは普段からあまり人が寄り付かないと言われる井戸。その井戸を眺めながら、私の脳裏に共同台所での一幕が蘇る。
毎日共同台所に向かい、いそいそと調理する私。その周りでは私と同じように、自分たちの食事を用意する為に訪れた奥女中達がいた。彼女たちは馴染みある者同士で固まり、愚痴に噂話などなど。盛んに情報を交換し合っている。しかも休憩時間を利用して台所を訪れているせいか、みな、心を開いた様子で幾分口が軽くなっているという状況だ。
(これはまさに、情報収集に最適な場所なのでは?)
悟った私は即座に行動に移す。毎回少しだけ多めに材料を購入し、帷様と私で食べきれない分を、料理下手な子、それから、食に興味がありそうな子などに目星をつけ、日々無償で「余ったので、良かったら」と分け与えた。
すると、その甲斐あって私にも、数人ほどではあるが、顔馴染みと呼べる子ができた。
そしてある日、常々気になっていた事を友人となった奥女中達にさりげなくたずねたのである。それは長局の南端に捨て置かれたように存在する、からくりの錠前がついた明らかに怪しい井戸のこと。
そう、帷様が消えた怪しい井戸である。
『あー、四之側の南端にある井戸なら、長局から出火した大火事で多くの奥女中が助けを求め、飛び込んだと言われる、悲劇の井戸だね』
『今でも時折、助けてと言う悲痛な叫びが井戸の底から聞こえるんだって』
『悪い事は言わないから、お琴ちゃんも近づかないほうがいいよ』
その情報を元に、後日私は井戸を確認しに行った。すると、みんなの話を裏付けるように、大火の死者を供養する「奥女中弔いの碑」と書かれた石碑が井戸の脇にひっそりと立てられていたのである。
「なるほど、上手い事隠したもんね」
一通り、回想を終えた私は思わず感心した。
(でもまぁ、ありがちではあるか)
人が怯えるような噂を流し、その場所に秘密を隠す。それは昔から良くある手だ。とは言え、まさか大奥にそのような物が隠されているとは思わなかった。
(でも大奥だからこそか)
それこそ火事などがあった時、将軍光晴様を真っ先に救うため、地下に隠し通路が張り巡らされていてもおかしくはない。
(なるほどね)
私は帷様が消え去った井戸の蓋を見つめる。既にそこにあったはずの、からくりの錠前は跡形もなく外されている。
(確か正しい順番で、鍵を差し込む錠前だったはず)
つまり井戸の中に消えた帷様は鍵を持っていて、しかも解除にかかった時間的に、錠前の正しい鍵の差し込み方を知っていたと思われる。
(一体どうして?)
不思議に思いながら、井戸の蓋に耳をつける。すると、微かに人の足音が反響するような音が聞こえてきた。
「秘密の抜け道か」
私は無駄だと思いながら、井戸の蓋を持ち上げようと試みる。しかし予想通りと言った感じ。蓋は開かない。
(今日はここまでか)
私は腕組みし、しばし開かずの間となった蓋を見つめる。
「問題はこの事を、正輝が知っているかどうかだけど」
知っていて放置しているのであれば、私は見てみぬフリをするだけ。
何も問題はないだろう。
(でももし、帷様の単独行動だった場合)
帷様が敵である可能性が出てきてしまう。
「一体何処に続いているんだろう」
後を付ける事が叶わぬもどかしさを感じつつ、井戸の位置から抜け道が向かう方角を導きだそうと辺りを見回す。
(意味ないか)
何故ならここは江戸城本丸大奥だ。東西南北、どこに抜けるにしろ、どこもかしこも重要な場所である事は間違いない。
「さてと、今日はこのまま寝ますかね」
私は潔く諦め、その日は部屋に帰宅した。
そして翌日。
帷様より早く起きた私は、屏風の脇から帷様の様子をうかがう。すると、帷様は埃っぽい掻巻をしっかり肩まであげ、気持ちよさそうにスースーと寝息を立てていた。
(失礼します)
心で断り、帷様に近づく。
相変わらず玉のようなツヤツヤの肌で憎らしい。
(あっ、髭の剃り残し発見!!)
完璧で女性顔負けの美しい帷様に髭がある事を発見し、謎に優位に立った気分になる。
(ではなくて)
息を殺しさらに帷様に近づくと、匂いを嗅いだ。
(やっぱり少し埃っぽい。それにこれは……)
顔に熱が籠ったのを感じ、慌てて離れる。何故ならいつも帷様から仄かに香る、白檀の良い香りがしたからだ。
「ん……」
帷様が声を漏らす。
私は脱兎のごとく屏風の向こうに避難し、起床したばかりを装う。
「ふぁー、朝だわ」
「ん、何時だ?お前は起きているのか?」
「おはようございます。明け六つですよ、帷様」
「そうか、今日は昼番だったな。そろそろ起きねば」
モゾモゾと帷様が寝返りを打つ音がする。
「着替えたら、朝餉の用意をしてまいりますので、帷様はもう少しお休み下さい」
「すまぬ。今日は甘えさせてもらう」
寝ぼけ声で告げると、帷様の動きは止まった。
こうして私の、帷様の匂いをうっかり吸い込み動揺するという変態地味た、しかし立派な偵察行為は本人に知られる事がなかったのだが。
(さて、この件をどうするか)
私は大きな悩みを一つ抱える事となったのであった。
***
胸を張るほどの成果も出さず、大奥の御火乃番として帷様と働き初め、はや十日ほどが経ってしまった。
因みに数日前、帷様が井戸に消えた件については進展なし。というのも、私は悩んだ末、危険を冒し御広敷の詰め所にいる、伊賀者の御庭番経由で正輝に書状を渡してもらった。
そして何と返事が帰ってくるか。気が気でない私の元に届いたのは薄っぺらい一枚の書状。
慌てて確認するも、私はがっかりする事となった。なぜなら。
『お前は余計な事をするな、任務だけを考えろ候』
たったそれだけ。
(何このふざけた返事は!!)
しばし憤慨した私であったが、流石に帷様が謀反を企むような悪人であれば、正輝も放置しておくわけがない。よって「余計な事をするな」という文言は、「帷様を探るな」という意味であると理解し、私もその件については、自分の中で一旦保留とする事にした。
「けど、なんだかもやもやするんだよねぇ」
私は共同台所の端で、壺に入った糠に手を突っ込みながら思わず愚痴る。
「もやもやって、例のあのこと?」
隣で自分のぬか床をかき混ぜていた、お寿美ちゃんがしっかりと私の愚痴を拾う。
普段は御末として働く彼女は、実家が町方で有名な蕎麦屋をやっているらしい。そのせいもあるのか、お寿美ちゃんは気配り上手で、快活で、とても付き合いやすい娘だ。よって、共同台所で顔を合わせる度、気付けば自然と一緒にいる事が増えた。
「あ、ええと」
私がもやもやするのは、帷様が井戸に消えた件と、それに対する正輝の対応だ。けれどその事はお寿美ちゃんには告げていないし、そもそも言えない。
「美麗様が伊桜里様の幽霊を見たって話でしょ?」
(え、そうなの?)
ぬか床を混ぜる手をとめ、お寿美ちゃんの整ったうりざね顔を見る。すらっとした切れ長の目は至って真剣。嘘をついている顔ではなさそうだ。
「もやもやする。その気持ちわかるよ」
私に向かって頷くお寿美ちゃん。
「公方様を大奥にお呼びしたいからって、伊桜里様の名を出すだなんて、全く信じられないよね」
(そういうことか)
どうやら美麗様はしびれを切らし、強行手段に出たようだ。
そもそも美麗様という人物が、御湯殿で光晴様のお手付きになったというのが、私にはにわかに信じがたかった。けれど、ご老中の一人、岡島様の部屋方……つまり、私的に岡島様に雇われた美麗様が、一気に公儀公認である御中臈になったというのだから、お手付きの事実があった事は認めざるを得ない。
勿論、光晴様は悪い事をした訳ではない。当たり前の権利を行使しただけだ。それにその話はよくよく聞けば伊桜里様が亡くなる前の話で、しかもお手つきはその一度きり。むしろ光晴様は後悔なさっているご様子だったとも噂されている。
だから私がとやかくいうつもりはない。
けれど。
(それを知った伊桜里様は、どんな気持ちだったのかな)
頭にそんな疑問が浮かび、ついモヤモヤした気持ちになってしまう。
「美麗様を慕っている子達も、流石にやり過ぎだって、あまりいい顔をしてなかったし」
「確かに」
私はお寿美ちゃんが更なる情報をもたらしてくれる事を望み、ひとまず話を合わせる。
「ここだけの話、あたしはあの子が浅草の小谷園で看板娘をやっていた時のことを知ってるんだ」
「え、そうなの?」
それは初耳だった。
(知り合いってこと?)
浮かんだ疑問の答えはすぐに自己解決する。何故なら、お寿美ちゃんは浅草寺の近くにある、お蕎麦屋の娘だという事を思い出したから。
しかも美麗様は「浅草小町」として町方で有名だっだとくノ一連い組の誰かが言っていた事を思い出した。
以上の二点から、お寿美ちゃんが美麗様を知っていても、何らおかしな事はないということだ。
「昔から綺麗だと評判だったからか、ツンとして人を見下すような所があったし、それにあたしの親友だった子の好きな人を横取りしたんだよ」
その時の事を思い出したのか、お寿美ちゃんの鼻息が荒くなる。
「しかも大して好いてなかったくせに。昔からあの子にはそういう所があるの。男のお客さんに媚を売る愛想の良さは、天下一品なんだから」
「そうなんだ」
「しかもね」
キョロキョロと辺りを見回し、お寿美ちゃんは私の耳に口を寄せる。
「美麗様は、本当は遊女が産んだ子なんじゃないかって、そんな噂もあるんだよ」
小声で告げられたのは、予想だにしなかった噂話だ。
(確かにあの辺には遊郭があるけど)
私は浅草寺付近に広がる光景を思い出す。
身売りされた女が逃げないよう、高い木の塀で囲まれているのが、浅草寺の裏手にある吉原遊郭と呼ばれる区画だ。そこは全国から多くの人が集まる歓楽街で、いつも人で賑わっている。
「でも、大奥に入る時に身辺調査をされるよね?流石に遊郭の子は入れないんじゃないかなぁ」
私はさりげなく「それはないのでは?」と匂わせる。
「まぁね。美麗様は確かに馬道通りの裏手に住んでる留吉さんとこの子だし。でも天性の男ったらしだって、みんな言ってたし」
お寿美ちゃんは素気なく返す。言葉尻には私が疑っている事を不服に思う気持ちが込められている。
「確かに御湯殿で公方様に色目を使ったって話だし、そういう事に手慣れていたら、誰だってそう思うよね」
慌ててお寿美ちゃんの肩を持つ。貴重な情報源でもある彼女の機嫌を損ねる訳にはいかないからだ。
(でもまぁ、遊女の子である可能性は低いと思うけど)
そういう噂が出るのは、吉原遊郭に近いという、土地柄なのだろう。
そして、美麗様の日々の行いが、町方でその噂を呼んだに違いない。男に媚を売るのが上手い「遊女みたいな子」という話が、人の口を渡り歩き、「遊女の子」に変化して広まった。この流れは容易に想像できる。
(実際はどんな人なんだろう)
私は俄然、美麗様に興味が湧いてきた。
「ちょっと、あんた達なんでここで糠なんて混ぜてるのよ。臭いから外でやって」
かまどの前から、声が飛んでくる。
「えー、だって外は寒いし」
お寿美ちゃんが口を尖らせる。
「着物に匂いがつくから。ほら、早く行った、行った」
追い立てられるように、手を振られる。
「わかったわよ。行こう、お琴ちゃん」
「うん」
お寿美ちゃんと私は、揃って小さな糠壺を抱え、寒空の下に渋々足を進めたのであった。