大奥という場所は、大きく三つに分けられる。
その一つは、将軍の私室とされる、正室である御台所が住む御殿。
二つ目は私が最初に通された御広敷。ここは周知の通り、三百人を超える男性役人が詰め、大奥のさまざまな事務や、用務をこなしている。
そして最後は長局と呼ばれる場所だ。ここは奥女中達の居住区となる場所で、二階建てとなる一棟の長屋を細かく仕切ったものがずらりと四棟並んでいる。
長局は手前から一之側、二之側と名付けられ、ここでも召物同様、職制身分に応じ、きちんと部屋割りされていた。
まず、御殿に近い一之側は、一棟十二部屋と仕切られ、京から貴宮様に付いてきた上臈御年寄や将軍付きの御年寄などにそれぞれ一人一部屋ずつ与えられている。
そして、二之側、三之側は二十部屋にわけた一棟を、御目見以上の奥女中達に。さらにそこからもっと細かく、三十部屋に区切られた四之側が御目見得以下の女中たちへと配分されているのである。
つまり、職制身分が低くなるにつれ、もれなく相部屋となる仕組みで、わりとぎゅうぎゅうに詰め込まれている感は否めない。
そんな中私はというと、勿論新参者の御火乃番なので、帷様と仲良く四之側。しかも御殿から一番遠い端っこだ。
しかし何の力が働いたのか、私と帷様は急遽建てられたかのような、四之側の端に不自然に増設された、どうみても掘っ立て小屋にしか見えない家を二人きりで占領している。
間口が二間、奥行きも二間。入り口から入ると土間とは別に六畳間がある。しかも梯子をかけて登る物置代わりの中二階付き。
そんな猫の額ほどの部屋を目の当たりにした時、私は思った。
(これは嫉妬を生みそうだし、怪しまれる)
更に言えば、休憩時間こそ周囲と打ち解ける機会だし、女中の口が軽くなる瞬間でもある。それなのに帷様と二人きりの居を構えるのは得策とは言えない。そう考えた私は、どうせ寝るだけなのだから、みんなと同じように大部屋に雑魚寝で我慢すべきなのではないかと、畏れ多くも帷様に進言した。
『流石に雑魚寝部屋は俺には無理だ。夜くらい、これをなんとかしたいからな』
かつらをぱかりと上にあげ、帷様は困ったような顔を見せた。
(そうか、忘れてたけど中身は落武者か)
帷様の本来の姿は誰にも明かしてはならない。よって、町人が暮らす長屋部屋のような部屋に帷様のお供として、住み込むしかないと私は潔く諦めた。
結果的に結婚前の男女が一部屋で寝食を共にする形となっているが、これもまた任務なので仕方がない。
(ま、何もないでしょ)
そもそもここは将軍である光晴様のための大奥だ。そんなやんごとなき場所で、流石に私ごときに帷様も欲情しない。というか、私は「そうであるはずだ」と帷様を信じている。
そして現在の私はというと。
昼番を滞りなく終え、既に自由時間。一日の疲れを風呂で流し自室にいる。ちなみに帷様は流石にお風呂だけはどうする事も出来ず、御広敷にこっそり戻り済ませているようだ。
そして部屋の隅に置かれた行燈に照らされた、ぼんやりとした灯りの中。今まさに、帷様と向かい合い質素な夕餉を頂こうか、というところ。
「今日のオススメはきんぴらごぼうです。帷様は甘い派ですか?それとも辛い派ですか?」
「俺は断然、甘い派だ」
帷様の揺るぎない答えを聞き、ニンマリする。
「良かった。私も甘い派なんです。どうぞお召し上がり下さい」
私は各々が使う食器を入れた木箱の蓋を裏返した、箱膳の上。大皿に盛った、大量のきんぴらごぼうを帷様の箱膳の上に乗せた。
「遠慮なく頂くとしよう」
帷様がきんぴらごぼうをガバッと大胆に箸で掴んだ。
(おおう)
帷様の箸の行方を追いながら、頬が緩む。
最初の数日間は私が作るおかずをちんまりと、先ずは味見と言った感じで箸で突いていた帷様。それが今や大胆にこんもり掴むと、迷わずきんぴらごぼうを口に入れた。
(とうとう料理の腕を信用されたのかな)
ジッと私が様子をうかがう中。帷様は味わうようにしばらく咀嚼したのち、ぶすっとした顔を私に向ける。
(おっと、味が好みじゃなかった?)
帷様の表情から、失敗したのだと悟る。
しかし。
「うまい」
帷様はツンとした顔で私のきんぴらを端的に褒めた。
「お口に合って良かったです」
帷様の表情が気になりつつも、一先ず「うまい」と漏らした事に安堵し、私も後に続けとばかりきんぴらごぼうを口に入れる。
(やば、ごぼうと人参の歯応え、そして甘さが完璧なんだけど)
味見をしたので、既にその出来栄えは自分のお墨付き。とは言え、きんぴらごぼうは歯応えを残す為の火加減が絶妙に難しいのである。
(冷ます間に案外柔らかくなっちゃうし)
かと言って早く火から降ろすと、ボリボリとした、歯ごたえ抜群のきんぴらごぼうになってしまうのだ。
(でも今日はうまくいった。おいしい、よかった)
密かに自画自賛する私に帷様から声がかかる。
「お前は旗本の娘であるのに、何故料理など出来るのだ?忍びは料理も修行するのか?」
ごぼうを飲み込み、答える。
「流石に料理の修行まではいたしません」
「ではなぜ?」
「私は以前任務で小料理屋のお台所に、見習いとして潜入した事があるんですよ」
「任務で料理を教わるのか?」
「はい。先ずは信頼を勝ち取るために、潜入した時に作り上げた人間になり切る事が大事なので」
「徹底してるんだな」
言いながら帷様は私が握った塩おにぎりの天辺にパクリと齧り付いた。
そしてやっぱり。
「うまい」
とぶすっとした顔で一言付け加えてくれる。
(顔と言葉が合ってないのは、そういう病気なのか……)
あまり触れてはいけない気がして、私はその件について深く考えるのを放棄する。そして褒められた事だけを抜きとり笑顔で口を開く。
「お褒め頂きありがとうございます。ここは食材が豊富なので料理をするのが楽しいです」
「そうなのか?」
驚いたような顔をしながら、常備食として実家から持ち込んだおしんこに箸を伸ばす帷様。
「そもそもどうやって、これらの食材を手に入れているのだ?」
「そのおしんこは実家より持ち寄ったものですが、長局にいくつかある共同台所に、御広敷御膳所から新鮮な食材が回ってくるのです。勿論タダではないですけど」
「む、買うのか。渡した金で足りているのか?」
「ええ、充分足りていますし、なくなったらきっちりせびりますのでご安心を」
袂に入れた、小銭入れの重さを感じながら答える。これはここで生活するにあたり、任務における報酬とは別に帷様から預かったお金だ。
「私は身銭を切るほどお人好しではないので、そこはご安心下さい」
「そうか。ならば良かった。遠慮するなよ」
帷様は目を細めながら、大根の味噌汁をすすった。
「甘口でこの味噌もうまい」
「これは大豆とほぼ同量の米麹を使った、我が家のお味噌です」
「なるほど。これもまた、実家からの持ち込みか」
「はい。流石にお味噌をここで呑気に熟成させる訳にはいきませんから。でも寒い時期で良かったです。これは長期保存に向かないので」
「なるほど。だから塩分が控えめで甘く感じるのだな」
「仰るとおりです」
帷様と私は任務を忘れ、呑気な時間を過ごす。その後、質素な食事を終えた私達は別行動となる。
帷様は部屋に置かれた文机に向かうと、報告書なのか、物書きに励む。
私はというと、土間に降り、亀壺に貯めておいた井戸水を使い簡単に茶碗をすすぐ。それからまた長局にある台所へ向かい、お湯をもらい掘っ立て小屋へと帰宅する。
「ただいま戻りました」
コンコンと戸を軽く叩きながら声をかけ、中に入って良いかの確認をする。というのも、私が外に出ている間に、帷様が寝間着に着替えるからだ。
「大丈夫だ」
帷様のお許しが出たので、滑り込むようにして部屋に入る。
帷様は変わらず文机に向かっているが、既に白地の木綿を藍で染め抜いた浴衣姿になっている。そしてだいぶ寒くなってきたので、綿入りの半纏を浴衣の上にしっかりと着込んでいた。
私はお茶を淹れ、働く帷様に労いの意味を込めお茶を出す。
「ありがとう、すまないな」
「お疲れ様です。では、私も着替えますので」
一言告げ、部屋に屏風を立てる。
帷様が壁に向かって置いた文机の上で、物書きに夢中になっている間に、寝巻きにさくっと着替えるためだ。
私が着替え終わってしばらくすると、大抵帷様のお仕事が終了する。
「よし、終わった。寝るとするか」
帷様の一声で、湯呑みを回収。それを土間で簡単にすすぎ、その間に帷様が文机を壁に立てかける。
「いいか、下ろすぞ」
物置として利用している中二階に続く梯子に登る帷様。
「相変わらず、重いな」
帷様が中二階から敷布団を下ろし、私は下で受け取ろうと梯子の下で待ち構える。
「畳の上にそのまま寝るよりはマシですから」
「確かに、そんな事になったら凍え死ぬな」
「囲炉裏が欲しいですよね」
「あぁ、欲しいな。しかし火事の元になると思うと、我慢だな」
帷様からずっしりと重い布団を受け取りながら、うなずく。
ここ大奥では火の管理が厳重だ。よって、各部屋に暖を取るための囲炉裏はない。火の元が多ければ、それだけ火事が起きてしまう可能性が高くなるからだ。
「帷様も御火乃番が板についてきましたね」
「あまり嬉しくないがな」
帷様は苦笑いをしながら、私に枕を手渡す。私は受け取った敷布団を、六畳間の中央に手際よく敷き詰める。
「毎日このように上げ下げするのは難儀だな」
「ですよね。屋敷では敷かれた布団に寝転ぶだけでしたから」
布団を敷きながら、屋敷での上げ膳据え膳の便利な生活を思い出す。私は自分を日陰者だと口にしながら、皆に姫様と呼ばれ、こう言った細々としたことは使用人に任せきりだった。
(案外、恵まれてたんだな)
その事に気づいて恥ずかしくなる。
「確かに、このような不便な生活をしたのは、俺も産まれて初めてだ。今まで自分の境遇を恨む事があったが、どうやら世間知らずだったようだ」
帷様は掻巻を二階から降ろしながら、私と同じ感想を口にする。私は掻巻を受け取ろうと手を伸ばしながら、思わずふいてしまう。
「なんだ、おかしな事を言ったか?」
「いいえ。私も丁度、今の帷様と同じような事を思ったので。何だか同じ事を考えてしまうなんて、長年連れ添った老夫婦みたいだなぁと思ったら、笑えてしまいました」
「なるほど、老夫婦。確かにこの状況はまさにそのような感じで笑えるな」
帷様は箱枕を脇に抱え、笑いながら梯子から降りる。
「まぁ、俺達の境遇は似ているから」
「えっ?」
「ほら、どけ」
帷様に顎で示され、布団から慌てて離れる。そして帷様が敷き詰めた二つの布団の間にしっかりと屏風を立てる。
その屏風には、質素な部屋には似つかわしくない、金箔が張られている。そしてその上に描かれているのは、根本から花弁までシュンと伸びる紫色の杜若だ。色鮮やかに描かれたそれは、ジグザグ状に横に連なっている。
帷様はその見事な屏風絵を私のほうに向けると、満足げに一つ頷いた。
「布団に入れ。火を消すぞ」
「あ、はい」
言われた通り、部屋の奥に敷かれた布団に潜り込む。
「消しても良いか?」
「はい、お願いします」
答えると、ジュッと火が消える音がして途端に部屋が真っ暗になる。それからゴソゴソと布団に入る衣擦れの音が、暗闇の中で私の耳に届く。その音に聞き耳をたてながら私は思う。
(さっき、帷様は俺達の境遇が似てるって言ってたけど)
一体何の事だろうか。
(そう言えば帷様のことをよく知らない)
家名は勿論のこと、何歳なのかも、結婚しているのかさえもわからない。それに、どうして変装しているとは言え、男なのに大奥にこんなにも大胆に立ち入る事が許されているのか。
帷様に関する謎は盛りだくさんだ。
「今日のきんぴらごぼう。あれはとても美味かった。またいつか、機会があれば食べたいものだ」
「ありがとうございます。新鮮なごぼうと人参が手に入ったら、お作りしますよ」
答えながら思う。
私は帷様について何も知らない。けれど、好きで女装している訳ではなく、きんぴらごぼうは甘めが好き。それだけは何故か知っているのだと。
布団に入り、ぬくぬくとしてくると同時に私の瞼は重くなる。男の人が隣にいるというのに、無防備にも、睡魔に襲われて完全敗北。
連なる杜若の見事な絵に見守られ、ぐっすりと眠ってしまうのであった。
その一つは、将軍の私室とされる、正室である御台所が住む御殿。
二つ目は私が最初に通された御広敷。ここは周知の通り、三百人を超える男性役人が詰め、大奥のさまざまな事務や、用務をこなしている。
そして最後は長局と呼ばれる場所だ。ここは奥女中達の居住区となる場所で、二階建てとなる一棟の長屋を細かく仕切ったものがずらりと四棟並んでいる。
長局は手前から一之側、二之側と名付けられ、ここでも召物同様、職制身分に応じ、きちんと部屋割りされていた。
まず、御殿に近い一之側は、一棟十二部屋と仕切られ、京から貴宮様に付いてきた上臈御年寄や将軍付きの御年寄などにそれぞれ一人一部屋ずつ与えられている。
そして、二之側、三之側は二十部屋にわけた一棟を、御目見以上の奥女中達に。さらにそこからもっと細かく、三十部屋に区切られた四之側が御目見得以下の女中たちへと配分されているのである。
つまり、職制身分が低くなるにつれ、もれなく相部屋となる仕組みで、わりとぎゅうぎゅうに詰め込まれている感は否めない。
そんな中私はというと、勿論新参者の御火乃番なので、帷様と仲良く四之側。しかも御殿から一番遠い端っこだ。
しかし何の力が働いたのか、私と帷様は急遽建てられたかのような、四之側の端に不自然に増設された、どうみても掘っ立て小屋にしか見えない家を二人きりで占領している。
間口が二間、奥行きも二間。入り口から入ると土間とは別に六畳間がある。しかも梯子をかけて登る物置代わりの中二階付き。
そんな猫の額ほどの部屋を目の当たりにした時、私は思った。
(これは嫉妬を生みそうだし、怪しまれる)
更に言えば、休憩時間こそ周囲と打ち解ける機会だし、女中の口が軽くなる瞬間でもある。それなのに帷様と二人きりの居を構えるのは得策とは言えない。そう考えた私は、どうせ寝るだけなのだから、みんなと同じように大部屋に雑魚寝で我慢すべきなのではないかと、畏れ多くも帷様に進言した。
『流石に雑魚寝部屋は俺には無理だ。夜くらい、これをなんとかしたいからな』
かつらをぱかりと上にあげ、帷様は困ったような顔を見せた。
(そうか、忘れてたけど中身は落武者か)
帷様の本来の姿は誰にも明かしてはならない。よって、町人が暮らす長屋部屋のような部屋に帷様のお供として、住み込むしかないと私は潔く諦めた。
結果的に結婚前の男女が一部屋で寝食を共にする形となっているが、これもまた任務なので仕方がない。
(ま、何もないでしょ)
そもそもここは将軍である光晴様のための大奥だ。そんなやんごとなき場所で、流石に私ごときに帷様も欲情しない。というか、私は「そうであるはずだ」と帷様を信じている。
そして現在の私はというと。
昼番を滞りなく終え、既に自由時間。一日の疲れを風呂で流し自室にいる。ちなみに帷様は流石にお風呂だけはどうする事も出来ず、御広敷にこっそり戻り済ませているようだ。
そして部屋の隅に置かれた行燈に照らされた、ぼんやりとした灯りの中。今まさに、帷様と向かい合い質素な夕餉を頂こうか、というところ。
「今日のオススメはきんぴらごぼうです。帷様は甘い派ですか?それとも辛い派ですか?」
「俺は断然、甘い派だ」
帷様の揺るぎない答えを聞き、ニンマリする。
「良かった。私も甘い派なんです。どうぞお召し上がり下さい」
私は各々が使う食器を入れた木箱の蓋を裏返した、箱膳の上。大皿に盛った、大量のきんぴらごぼうを帷様の箱膳の上に乗せた。
「遠慮なく頂くとしよう」
帷様がきんぴらごぼうをガバッと大胆に箸で掴んだ。
(おおう)
帷様の箸の行方を追いながら、頬が緩む。
最初の数日間は私が作るおかずをちんまりと、先ずは味見と言った感じで箸で突いていた帷様。それが今や大胆にこんもり掴むと、迷わずきんぴらごぼうを口に入れた。
(とうとう料理の腕を信用されたのかな)
ジッと私が様子をうかがう中。帷様は味わうようにしばらく咀嚼したのち、ぶすっとした顔を私に向ける。
(おっと、味が好みじゃなかった?)
帷様の表情から、失敗したのだと悟る。
しかし。
「うまい」
帷様はツンとした顔で私のきんぴらを端的に褒めた。
「お口に合って良かったです」
帷様の表情が気になりつつも、一先ず「うまい」と漏らした事に安堵し、私も後に続けとばかりきんぴらごぼうを口に入れる。
(やば、ごぼうと人参の歯応え、そして甘さが完璧なんだけど)
味見をしたので、既にその出来栄えは自分のお墨付き。とは言え、きんぴらごぼうは歯応えを残す為の火加減が絶妙に難しいのである。
(冷ます間に案外柔らかくなっちゃうし)
かと言って早く火から降ろすと、ボリボリとした、歯ごたえ抜群のきんぴらごぼうになってしまうのだ。
(でも今日はうまくいった。おいしい、よかった)
密かに自画自賛する私に帷様から声がかかる。
「お前は旗本の娘であるのに、何故料理など出来るのだ?忍びは料理も修行するのか?」
ごぼうを飲み込み、答える。
「流石に料理の修行まではいたしません」
「ではなぜ?」
「私は以前任務で小料理屋のお台所に、見習いとして潜入した事があるんですよ」
「任務で料理を教わるのか?」
「はい。先ずは信頼を勝ち取るために、潜入した時に作り上げた人間になり切る事が大事なので」
「徹底してるんだな」
言いながら帷様は私が握った塩おにぎりの天辺にパクリと齧り付いた。
そしてやっぱり。
「うまい」
とぶすっとした顔で一言付け加えてくれる。
(顔と言葉が合ってないのは、そういう病気なのか……)
あまり触れてはいけない気がして、私はその件について深く考えるのを放棄する。そして褒められた事だけを抜きとり笑顔で口を開く。
「お褒め頂きありがとうございます。ここは食材が豊富なので料理をするのが楽しいです」
「そうなのか?」
驚いたような顔をしながら、常備食として実家から持ち込んだおしんこに箸を伸ばす帷様。
「そもそもどうやって、これらの食材を手に入れているのだ?」
「そのおしんこは実家より持ち寄ったものですが、長局にいくつかある共同台所に、御広敷御膳所から新鮮な食材が回ってくるのです。勿論タダではないですけど」
「む、買うのか。渡した金で足りているのか?」
「ええ、充分足りていますし、なくなったらきっちりせびりますのでご安心を」
袂に入れた、小銭入れの重さを感じながら答える。これはここで生活するにあたり、任務における報酬とは別に帷様から預かったお金だ。
「私は身銭を切るほどお人好しではないので、そこはご安心下さい」
「そうか。ならば良かった。遠慮するなよ」
帷様は目を細めながら、大根の味噌汁をすすった。
「甘口でこの味噌もうまい」
「これは大豆とほぼ同量の米麹を使った、我が家のお味噌です」
「なるほど。これもまた、実家からの持ち込みか」
「はい。流石にお味噌をここで呑気に熟成させる訳にはいきませんから。でも寒い時期で良かったです。これは長期保存に向かないので」
「なるほど。だから塩分が控えめで甘く感じるのだな」
「仰るとおりです」
帷様と私は任務を忘れ、呑気な時間を過ごす。その後、質素な食事を終えた私達は別行動となる。
帷様は部屋に置かれた文机に向かうと、報告書なのか、物書きに励む。
私はというと、土間に降り、亀壺に貯めておいた井戸水を使い簡単に茶碗をすすぐ。それからまた長局にある台所へ向かい、お湯をもらい掘っ立て小屋へと帰宅する。
「ただいま戻りました」
コンコンと戸を軽く叩きながら声をかけ、中に入って良いかの確認をする。というのも、私が外に出ている間に、帷様が寝間着に着替えるからだ。
「大丈夫だ」
帷様のお許しが出たので、滑り込むようにして部屋に入る。
帷様は変わらず文机に向かっているが、既に白地の木綿を藍で染め抜いた浴衣姿になっている。そしてだいぶ寒くなってきたので、綿入りの半纏を浴衣の上にしっかりと着込んでいた。
私はお茶を淹れ、働く帷様に労いの意味を込めお茶を出す。
「ありがとう、すまないな」
「お疲れ様です。では、私も着替えますので」
一言告げ、部屋に屏風を立てる。
帷様が壁に向かって置いた文机の上で、物書きに夢中になっている間に、寝巻きにさくっと着替えるためだ。
私が着替え終わってしばらくすると、大抵帷様のお仕事が終了する。
「よし、終わった。寝るとするか」
帷様の一声で、湯呑みを回収。それを土間で簡単にすすぎ、その間に帷様が文机を壁に立てかける。
「いいか、下ろすぞ」
物置として利用している中二階に続く梯子に登る帷様。
「相変わらず、重いな」
帷様が中二階から敷布団を下ろし、私は下で受け取ろうと梯子の下で待ち構える。
「畳の上にそのまま寝るよりはマシですから」
「確かに、そんな事になったら凍え死ぬな」
「囲炉裏が欲しいですよね」
「あぁ、欲しいな。しかし火事の元になると思うと、我慢だな」
帷様からずっしりと重い布団を受け取りながら、うなずく。
ここ大奥では火の管理が厳重だ。よって、各部屋に暖を取るための囲炉裏はない。火の元が多ければ、それだけ火事が起きてしまう可能性が高くなるからだ。
「帷様も御火乃番が板についてきましたね」
「あまり嬉しくないがな」
帷様は苦笑いをしながら、私に枕を手渡す。私は受け取った敷布団を、六畳間の中央に手際よく敷き詰める。
「毎日このように上げ下げするのは難儀だな」
「ですよね。屋敷では敷かれた布団に寝転ぶだけでしたから」
布団を敷きながら、屋敷での上げ膳据え膳の便利な生活を思い出す。私は自分を日陰者だと口にしながら、皆に姫様と呼ばれ、こう言った細々としたことは使用人に任せきりだった。
(案外、恵まれてたんだな)
その事に気づいて恥ずかしくなる。
「確かに、このような不便な生活をしたのは、俺も産まれて初めてだ。今まで自分の境遇を恨む事があったが、どうやら世間知らずだったようだ」
帷様は掻巻を二階から降ろしながら、私と同じ感想を口にする。私は掻巻を受け取ろうと手を伸ばしながら、思わずふいてしまう。
「なんだ、おかしな事を言ったか?」
「いいえ。私も丁度、今の帷様と同じような事を思ったので。何だか同じ事を考えてしまうなんて、長年連れ添った老夫婦みたいだなぁと思ったら、笑えてしまいました」
「なるほど、老夫婦。確かにこの状況はまさにそのような感じで笑えるな」
帷様は箱枕を脇に抱え、笑いながら梯子から降りる。
「まぁ、俺達の境遇は似ているから」
「えっ?」
「ほら、どけ」
帷様に顎で示され、布団から慌てて離れる。そして帷様が敷き詰めた二つの布団の間にしっかりと屏風を立てる。
その屏風には、質素な部屋には似つかわしくない、金箔が張られている。そしてその上に描かれているのは、根本から花弁までシュンと伸びる紫色の杜若だ。色鮮やかに描かれたそれは、ジグザグ状に横に連なっている。
帷様はその見事な屏風絵を私のほうに向けると、満足げに一つ頷いた。
「布団に入れ。火を消すぞ」
「あ、はい」
言われた通り、部屋の奥に敷かれた布団に潜り込む。
「消しても良いか?」
「はい、お願いします」
答えると、ジュッと火が消える音がして途端に部屋が真っ暗になる。それからゴソゴソと布団に入る衣擦れの音が、暗闇の中で私の耳に届く。その音に聞き耳をたてながら私は思う。
(さっき、帷様は俺達の境遇が似てるって言ってたけど)
一体何の事だろうか。
(そう言えば帷様のことをよく知らない)
家名は勿論のこと、何歳なのかも、結婚しているのかさえもわからない。それに、どうして変装しているとは言え、男なのに大奥にこんなにも大胆に立ち入る事が許されているのか。
帷様に関する謎は盛りだくさんだ。
「今日のきんぴらごぼう。あれはとても美味かった。またいつか、機会があれば食べたいものだ」
「ありがとうございます。新鮮なごぼうと人参が手に入ったら、お作りしますよ」
答えながら思う。
私は帷様について何も知らない。けれど、好きで女装している訳ではなく、きんぴらごぼうは甘めが好き。それだけは何故か知っているのだと。
布団に入り、ぬくぬくとしてくると同時に私の瞼は重くなる。男の人が隣にいるというのに、無防備にも、睡魔に襲われて完全敗北。
連なる杜若の見事な絵に見守られ、ぐっすりと眠ってしまうのであった。