わたしはオールをしたことがありません。
理由は、ビリヤードが下手くそだからです。もう少し言うと、わたしと一緒に撞いて楽しい人がいないからです。オールをする熱意のある人はみんな上手なので、わたしと撞いてもまともなゲームになりません。
結果、初めてのオールに挑んだわたしは、延々と一人でセンターショットをする羽目になりました。センターショットとは、ビリヤード台の真ん中――センタースポットに的玉を置いて、少し離れた場所から手玉を撞いて的玉に当てて、コーナーポケットと呼ばれる隅の穴に入れる練習のことです。ビリヤードの最も基礎的な練習方法で、上手い人は九割ぐらい普通に成功させます。わたしの成功率は三割程度です。
的玉と手玉をセットします。手玉を撞きます。手玉が的玉に当たります。的玉が動きます。的玉がコーナーポケットに入る――ことはなく台の上を駆けまわります。わたしは、深い溜息をつきました。
「頑張ってるー?」
小笠原先輩。わたしは振り返り、暗い顔で答えます。
「全然ダメです」
「そうなの? ちょっと構えて振ってみて」
言われた通り、左手でキュー先を固定して、右手で柄を握って素振りをします。小笠原先輩はふむふむと頷くと、わたしの右肩と右肘に手を当てました。
「ここが動いてる。次は意識して、肘から先だけで振ってみて」
小笠原先輩が的玉と手玉をセットしました。そしてわたしは言われた通り、肘から先だけを動かすことを意識してキューを撞き出します。手玉が的玉にぶつかってカツンと硬質な音を立てて、的玉は綺麗にコーナーポケットに吸い込まれていきました。
「そうそう。そんな感じ。身体がブレたらダメだからね」
ブレたらダメ。痛いところを突かれました。
「やっぱり、ふにゃふにゃしてたらダメですか」
「そうだねー。どっしり構えて撞けば、片手でも入るから」
小笠原先輩が球をセットして、左手の支え無し、右手だけでキューを構えます。置き物みたいに動かない身体の中、右肘から先だけが振り子みたいに動きます。やがてスコンと軽快な音を立てて、的玉がポケットに吸い込まれます。すごい。
「そういえばさー、話ってなに?」
近くの椅子に座りながら、小笠原先輩が問い尋ねてきました。わたしの頭に用意していた質問が浮かびます。
――作戦、どんなやつがいいですか?
わたしは小笠原先輩の隣に座り、質問を投げました。
「小笠原先輩と吉永さんって、どういう関係なんですか?」
あれ、違う。なに聞いてるんだろ、わたし。
「バイトの同僚」
「それは分かりますけど、あんな話が出るなら特別な何かがあるのかなって」
「別にないよー。俺が入った時の教育係だったぐらい」
そうなんだ。良かった。――良かった?
「あのサークルはさー、話聞いたら潰したいって思うでしょ」
「それは、そうかもしれませんけど……」
「それにほら、俺、ちょっとぐらいイイことしないと天国に行けそうにないし」
小笠原先輩のネガティブな発言。とても珍しいです。わたしは目を丸くしました。
「どうしてですか?」
「ぶらぶら生きて来たからねー。オヤジもそんな適当な生き方をしてるからこんなことになるんだって怒鳴ってたし」
「そんな……酷いです」
「でも泣きながらだよ。泣きながら『馬鹿が! 馬鹿が!』ってずっと言ってた。それ見た時、やっちゃったなーって思ったんだよね」
小笠原先輩は眠そうな目でぼんやり中空を見上げていました。カコン。どこかの台で玉がポケットに入る音が、やけに大きく響きました。
「俺の癌さー、遺伝性みたいなんだ。母ちゃんも俺が小さい時、癌で死んでるの。おかげで弟がめっちゃビビっててさー。あ、弟は高校生なんだけど、俺と違って真面目なのね。応援部入っててさ。凄くない? 応援部だよ? 俺、高校の時、応援部に入るやつってどんだけ心がピュアなんだろうと思ってたんだけど、まさかの弟だからね。まあ、あいつ確かにスーパーピュアなんだけど。この前もー」
小笠原先輩はぺらぺらと弟さんのことを話し続けます。やがて話は、お父さんのこと、お母さんのこと、小笠原先輩自身のこと、あっちこっちフラフラして、どこにも到着しないまま終わります。そして分かったことは、小笠原先輩は自分の家族のことが大好きだということだけでした。
わたしは、相槌をうつだけでほとんど何も言えませんでした。きっと何を言ってもいいのに、何を言えばいいか分かりませんでした。ようやく口に出来たのは「素敵なご家族ですね」というありきたりな台詞。小笠原先輩はへらへら笑いながら「そうだねー」と答えて、そしてまた、眠そうな目でぼんやり中空を見上げます。
カツン。カコン。球がポケットに飛び込む音が響く中、小笠原先輩が呟きました。
「死にたくないなあ」
驚きました。
当たり前のことなのに、驚きました。そしてわたしは、自分が驚いていることにも驚きました。小笠原先輩は「人間、いつかは死ぬんだしさー」とへらへら笑いながら、小笠原先輩らしくいなくなってくれる。そんなことを期待していた自分に気がつきました。
何を考えていたのでしょう。
余命半年の人を、迫りくる死に怯える人を前にして、わたしは、わたしのことを考えていました。わたしを認めて欲しい。そんなことを考えていました。なんて自分勝手なのでしょう。これだからわたしはふにゃふにゃなのです。
小笠原先輩は笑いながら死んでくれる。
違います。
わたしが、笑わせなくてはいけないのです。
「――ごめんなさい」
気がついたら、謝っていました。小笠原先輩はいつも眠たそうな目を珍しく大きく見開いて、きょとんした顔をしていました。
「どしたの?」
上手く説明できませんでした。だから、一番頭に強く浮かんでいることを口にします。
「サークル潰し、頑張りましょうね」
話がびっくりするぐらいに繋がっていません。だけど小笠原先輩は、そんなのどーでもいいとばかりにゆるく笑いました。
「そーだね」
それから、わたしは一晩中センターショットを続けました。成功率は二割ぐらい上がりました。ふにゃふにゃの身体に、少しは中身が出来たのだと思います。
理由は、ビリヤードが下手くそだからです。もう少し言うと、わたしと一緒に撞いて楽しい人がいないからです。オールをする熱意のある人はみんな上手なので、わたしと撞いてもまともなゲームになりません。
結果、初めてのオールに挑んだわたしは、延々と一人でセンターショットをする羽目になりました。センターショットとは、ビリヤード台の真ん中――センタースポットに的玉を置いて、少し離れた場所から手玉を撞いて的玉に当てて、コーナーポケットと呼ばれる隅の穴に入れる練習のことです。ビリヤードの最も基礎的な練習方法で、上手い人は九割ぐらい普通に成功させます。わたしの成功率は三割程度です。
的玉と手玉をセットします。手玉を撞きます。手玉が的玉に当たります。的玉が動きます。的玉がコーナーポケットに入る――ことはなく台の上を駆けまわります。わたしは、深い溜息をつきました。
「頑張ってるー?」
小笠原先輩。わたしは振り返り、暗い顔で答えます。
「全然ダメです」
「そうなの? ちょっと構えて振ってみて」
言われた通り、左手でキュー先を固定して、右手で柄を握って素振りをします。小笠原先輩はふむふむと頷くと、わたしの右肩と右肘に手を当てました。
「ここが動いてる。次は意識して、肘から先だけで振ってみて」
小笠原先輩が的玉と手玉をセットしました。そしてわたしは言われた通り、肘から先だけを動かすことを意識してキューを撞き出します。手玉が的玉にぶつかってカツンと硬質な音を立てて、的玉は綺麗にコーナーポケットに吸い込まれていきました。
「そうそう。そんな感じ。身体がブレたらダメだからね」
ブレたらダメ。痛いところを突かれました。
「やっぱり、ふにゃふにゃしてたらダメですか」
「そうだねー。どっしり構えて撞けば、片手でも入るから」
小笠原先輩が球をセットして、左手の支え無し、右手だけでキューを構えます。置き物みたいに動かない身体の中、右肘から先だけが振り子みたいに動きます。やがてスコンと軽快な音を立てて、的玉がポケットに吸い込まれます。すごい。
「そういえばさー、話ってなに?」
近くの椅子に座りながら、小笠原先輩が問い尋ねてきました。わたしの頭に用意していた質問が浮かびます。
――作戦、どんなやつがいいですか?
わたしは小笠原先輩の隣に座り、質問を投げました。
「小笠原先輩と吉永さんって、どういう関係なんですか?」
あれ、違う。なに聞いてるんだろ、わたし。
「バイトの同僚」
「それは分かりますけど、あんな話が出るなら特別な何かがあるのかなって」
「別にないよー。俺が入った時の教育係だったぐらい」
そうなんだ。良かった。――良かった?
「あのサークルはさー、話聞いたら潰したいって思うでしょ」
「それは、そうかもしれませんけど……」
「それにほら、俺、ちょっとぐらいイイことしないと天国に行けそうにないし」
小笠原先輩のネガティブな発言。とても珍しいです。わたしは目を丸くしました。
「どうしてですか?」
「ぶらぶら生きて来たからねー。オヤジもそんな適当な生き方をしてるからこんなことになるんだって怒鳴ってたし」
「そんな……酷いです」
「でも泣きながらだよ。泣きながら『馬鹿が! 馬鹿が!』ってずっと言ってた。それ見た時、やっちゃったなーって思ったんだよね」
小笠原先輩は眠そうな目でぼんやり中空を見上げていました。カコン。どこかの台で玉がポケットに入る音が、やけに大きく響きました。
「俺の癌さー、遺伝性みたいなんだ。母ちゃんも俺が小さい時、癌で死んでるの。おかげで弟がめっちゃビビっててさー。あ、弟は高校生なんだけど、俺と違って真面目なのね。応援部入っててさ。凄くない? 応援部だよ? 俺、高校の時、応援部に入るやつってどんだけ心がピュアなんだろうと思ってたんだけど、まさかの弟だからね。まあ、あいつ確かにスーパーピュアなんだけど。この前もー」
小笠原先輩はぺらぺらと弟さんのことを話し続けます。やがて話は、お父さんのこと、お母さんのこと、小笠原先輩自身のこと、あっちこっちフラフラして、どこにも到着しないまま終わります。そして分かったことは、小笠原先輩は自分の家族のことが大好きだということだけでした。
わたしは、相槌をうつだけでほとんど何も言えませんでした。きっと何を言ってもいいのに、何を言えばいいか分かりませんでした。ようやく口に出来たのは「素敵なご家族ですね」というありきたりな台詞。小笠原先輩はへらへら笑いながら「そうだねー」と答えて、そしてまた、眠そうな目でぼんやり中空を見上げます。
カツン。カコン。球がポケットに飛び込む音が響く中、小笠原先輩が呟きました。
「死にたくないなあ」
驚きました。
当たり前のことなのに、驚きました。そしてわたしは、自分が驚いていることにも驚きました。小笠原先輩は「人間、いつかは死ぬんだしさー」とへらへら笑いながら、小笠原先輩らしくいなくなってくれる。そんなことを期待していた自分に気がつきました。
何を考えていたのでしょう。
余命半年の人を、迫りくる死に怯える人を前にして、わたしは、わたしのことを考えていました。わたしを認めて欲しい。そんなことを考えていました。なんて自分勝手なのでしょう。これだからわたしはふにゃふにゃなのです。
小笠原先輩は笑いながら死んでくれる。
違います。
わたしが、笑わせなくてはいけないのです。
「――ごめんなさい」
気がついたら、謝っていました。小笠原先輩はいつも眠たそうな目を珍しく大きく見開いて、きょとんした顔をしていました。
「どしたの?」
上手く説明できませんでした。だから、一番頭に強く浮かんでいることを口にします。
「サークル潰し、頑張りましょうね」
話がびっくりするぐらいに繋がっていません。だけど小笠原先輩は、そんなのどーでもいいとばかりにゆるく笑いました。
「そーだね」
それから、わたしは一晩中センターショットを続けました。成功率は二割ぐらい上がりました。ふにゃふにゃの身体に、少しは中身が出来たのだと思います。