わたしは、将棋のルールはよく分かりません。

 それでも音ゲーよりはずっと分かります。駒を取り合うゲームであることや、取った駒は自分で使えるという基本的なルールだけではなく、それぞれの駒の名称やどの駒が強いのかも何となく知っています。だから何もかも分からなかった長野先輩の音ゲーと違い、どっちが勝っていてどっちが負けそうなのか、ぼんやりとですが判断することが出来ます。

 だから今、安木先輩が劣勢なのも、盤面を見れば何となく分かります。

「時に」

 パチン。長久保さんが金将を盤面に打ちました。しっかりとした高さのある直方体の将棋盤に、気品のある木材の駒。今わたしたちがいる和室には額縁に入った将棋の大会の賞状があちこちに飾ってあり、これはあまり関係ないかもしれませんが、長久保さんの服装は和服です。間違いなくこのおじいさん、小笠原先輩と楽しく将棋をするレベルの人ではありません。

「君は亡くなった子から、私のことをどのように聞いていたのかな」
「何も聞いていません。今日初めて存在を知りました」
「ほう」

 長久保さんが顎をさすりました。安木先輩が自分の王将を逃がすと、すさかず長久保さんがそれに対応して駒を動かします。

「なら、私が彼と八枚落ちでやっていたことも知らなかったというわけだ」
「そうですね」
「『話が違う』と思ったかな?」
「思いました。でもあいつはそういうやつですから」

 パチン。パチン。駒が盤面を叩く音が短いスパンで続きます。だいぶ前からずっとそうです。安木先輩が打ってすぐ長久保さんが自分の手を進める。勝ちへの道筋が見えているのでしょう。

「そういうやつ、というのは?」
「人を振り回すのが好きなやつということです」
「そんな子と一緒にいて、イヤになることはなかったのかな」
「ありましたよ。でもそれ以上に、楽しかった」

 パチン。久しぶりに駒を打つ音が一つで止まりました。盤面を覗き込む長久保さんに向かって、安木先輩は淡々と語ります。

「あいつは人を振り回すのが好きだけど、人を振り落とすのが好きだったわけではありません。どこまでついてくるか試されているとは思わなかった。だから僕は安心して振り回されていました。ここにいる全員、そうだと思います」

 安木先輩の言葉を聞き、わたしは姿勢を正します。長久保さんがじろりと横で観戦しているわたしたちを見やりました。そして右腕をゆっくりと上げ、手を盤面に伸ばします。

 パチン。

 安木先輩が眉をぴくりと上げました。そして手を顎に当てて考え込みます。水を打ったような静寂がしばらく続いた後、安木先輩が頭を大きく起こし、そして――大きく下げました。

「まいりました」

 船井先輩が細く息を吸いました。長久保さんが和服の左袖に右の手を、右袖に左の手を入れる形で腕を組みます。

「もう一戦やるかい?」
「いいえ。何戦やっても同じです」
「そうだな。まあ、筋は悪くなかったよ」

 長久保さんの右手が袖から出てきました。親指の腹とひとさし指の横腹でつまんでいる、袖に手を入れる前は持っていなかったものを目にして、わたしは「あ」と声を上げます。

「受け取りなさい」
「ありがとうございます」
「ちょっと待って!」

 長久保さんから封筒を受け取った安木先輩に向かって、船井先輩が意義を唱えました。安木先輩は顔色一つ変えず船井先輩に尋ねます。

「どうしたの」
「お前、負けただろ! なにしれっと手紙受け取ってるんだよ!」
「勝つまで貰えない方が良かった?」
「いや、そうなるとずっと貰えねえから困るけど……」
「それ」
「それ?」
「小笠原にクリアできるかできないか、ギリギリを狙ったバランス調整なんてできるわけがない。ラーメンも、音ゲーも、クリアを必須にしたら詰む可能性がある。だから次の試練に進む条件はクリアじゃないんだよ。小笠原がどう説明しているかは分からないけど、たぶん『真剣に挑む』とか、そんなものだと思う」

 船井先輩が目と口を開いて呆けます。わたしも表情は違いますが、気持ちはおそらくほぼ同じです。だけど長野先輩は違いました。

「まあ、そうだよねえ」
「お前も気づいてたのかよ!」
「だって私の音ゲーはともかく、船井のジャンボラーメンは努力でどうにかなるものじゃないから。食べ切れなくても『よく頑張った』とか言って手紙はくれるんだろうなって思ってたよ」

 ラーメン屋でひたすら漫画を読み、船井先輩をあまり応援していなかった長野先輩を思い返します。船井先輩が納得いかないとばかりに声を荒げました。

「だからそういうのは先に言えよ! 死ぬ気で食っちまっただろ!」
「クリアしてくれるならその方が間違いないもん。それにクリアしなくていいやって気持ちで手を抜いたのがバレたら、それは再チャレンジだったんじゃない?」
「……いや、だから、そうかもしれねえけどさあ」

 がっくりとうな垂れる船井先輩を見て、長久保さんが声を上げて笑い出しました。そしてひとしきり笑った後、安木先輩に話しかけます。

「私は『渡してもいいと思ったら渡して下さい』と言われた。君が格上相手に一縷の望みをかけるような戦い方をしていなかったら、きっと渡さずに再試合を要求しただろうな」
「全く通じませんでしたけどね」
「大事なのは過程だよ。亡くなった子もそれが言いたかったんじゃないか。生き死によりも、どう生きたかが自分にとっては大事だと」

 長久保さんが目を細めました。あちこちにしわを浮かべて優しく笑います。

「彼のことはほとんど何も知らないが、いい人生を歩んだのだろう。君たちを見ているとそう思うよ」

 安木先輩が長久保さんに笑い返しました。そして「ありがとうございます」とお礼を言い、わたしのところに来て封筒を差し出します。やっぱり、わたしが開けるようです。もうこれはそういうものだと諦めて封筒の糊を慎重に剥がし、中から出てきた紙を畳の上に広げます。

 その場の全員が、息を呑んだのが分かりました。

『最後の試練』

 いよいよ、次でラストのようです。そして船井先輩、長野先輩、安木先輩は試練を越えているから、最後はわたしでしょう。緊張に震える手でスマホを取り出し、畳の上に置きます。

 電話番号を押します。通話を飛ばしつつ、家の中だからいいだろうとスピーカーモードをオンにします。コール音が響く中、わたしはすうはあと呼吸を整え、自分が言うべき言葉を頭の中でまとめます。

 もしもし。初めまして。小笠原さんがあなたに頼んだことについてお聞きしたく、連絡させて頂きました。わたしは――
 
 コール音が止まりました。機械を通してざらついた声が和室に広がります。

「Hola!」