船井先輩が買ってきたコーヒーを飲み終えた後、自然とみんなでマンションを後にする流れになりました。

 帰る時、わたしはサボ太郎を家に持って帰ることにしました。小笠原先輩はもういない。マンションは引き払うから自分の物を運び出さなくてはならない。その運び出す物の一つ目に、サボ太郎を選びました。サボ太郎に「いい?」と声をかけ、返事はありませんでしたが良さそうだと勝手に思ったので、船井先輩がサボ太郎を運んできた時から捨てずに取っておいた紙袋に入れてやりました。

 みんなで駅に向かって歩きます。駅に着き、改札を抜けてすぐ、安木先輩だけが逆方向なので別れることになりました。わたしたちから身体を背け、安木先輩が淡々と言い放ちます。

「それじゃ」

 船井先輩、長野先輩とホームに下りて電車に乗ります。今日は平日ですが、朝のラッシュの時間帯をとっくに過ぎた電車は空いていて、三人並んで座ることができました。しばらく他愛のない話をしているうちに長野先輩の降車駅に到着し、席から立ち上がった長野先輩がわたしに向かって軽く手を振ります。

「またね」

 電車が出発します。長野先輩が座っていた席には、スーツを着た若い男性が座りました。しばらく進んでわたしと船井先輩は同じ駅で降り、乗り換える路線が違うのでホームで別れます。船井先輩が小さく片手を挙げ、別れの言葉を告げました。

「そんじゃ」

 一人で駅を歩きます。目的の路線の電車に乗り、席に座って全身の力を抜いてぐったりします。途中、電車が鉄橋を渡り、光を反射してキラキラと輝く河川が電車の窓から見えました。何度も何度も見てきたはずの川なのに、嘘みたいに眩しくて、なぜだか泣きそうになってしまいます。

 家の最寄り駅で電車を降ります。相変わらず格好は防寒対策の薄い喪服とパンプスだから、家に向かって歩いているうちにあちこちが凍えていきます。サボ太郎を入れた紙袋を持つ手がかじかみ、本当に寒いなあと思いながら、寒さを嫌がる余裕があることにほっとしたりもします。

 家に着きました。「……ただいまー」と小声で呟いて中に入ると、すりガラスの嵌まったリビングのドアの向こうからテレビの音が聞こえます。誰かいる。お父さんは仕事でいないだろうから、お母さんか大学が冬休みのお兄ちゃん。わたしは少し悩んでから意を決し、リビングのドアを開きました。

 椅子に座り、食卓に頬杖をついてテレビを観ていたお母さんが、眼球だけを動かしてわたしの方を見やりました。よく見ると目の下に隈が出来ており、どうやら寝不足になるほど心配させてしまったようです。

「おかえり。レモンティー飲む?」

 お母さんが自分のカップを指さしました。わたしは「いい」と断り、ハンドバックと紙袋を床に置きます。そして紙袋から取り出したサボ太郎を出窓の傍に置き、お母さんに尋ねました。

「ねえ、この子ここに置いていい?」
「いいけど、ベランダの方が目立つんじゃない?」
「風水的に、サボテンは悪い気を寄せ付けない効果があるんだけど、良い気を追い払っちゃうこともあるんだって。それで玄関は幸福を運んでくる役目もあるから飾らない方がいいらしいよ」
「出窓から幸福は入ってこないの?」
「……分かんない」
「ふうん。なんか、適当だね」

 お母さんがレモンティーを一口飲みました。そしてカップをソーサーに戻し――ません。カップを浮かせたまま、その中身をじっと見つめて口を開きます。

「あんたが余命宣告されたらどうするかって、前に聞かれたじゃない」

 お母さんの眉が下がりました。声のトーンも少し低くなります。

「その時、想像もしたくないって答えたでしょう。でも昨日、あんたがお葬式から帰って来なくて、想像しないわけにはいかなくなった。そうなって初めて辛さが分かったの。あんたが今までどういう想いに耐えて来たのか、よく分かった」

 カツン。カップがソーサーに置かれました。お母さんがわたしの方を向いて優しく笑います。

「お疲れ様」

 また、泣きそうになってしまいました。でも泣きません。床のハンドバッグを手に取って、お母さんに笑い返します。

「お母さん」明るく、元気に。「心配かけて、ごめんね」

 お母さんが「本当にね」と呆れたように呟きました。わたしはバツの悪さを誤魔化すようにはにかみ、リビングを出て二階の自分の部屋に向かいます。階段を一段上るたび、一つずつ強くなっている。そんな感覚がありました。