火葬が終わりました。
骨はカラカラに乾いていて、生前の小笠原先輩にあったエネルギーの欠片も感じませんでした。わたしは肩甲骨だと言われた骨を箸でつまんで骨壺に収めました。小笠原先輩の背中に手を回した時の感触を思い返しましたが、あの時に触れていた骨が今つまんだそれだとは、どうしても思えませんでした。
骨が全て骨壺に収まり、今日の儀式は終了しました。船井先輩たちと火葬場を出て帰路に着きます。駅に到着して、まず逆方向に帰る安木先輩と別れました。それから電車に乗って少し進み、乗り換え駅でわたしだけが降りて、船井先輩、長野先輩と別れました。
改札を出て、違う路線の改札に向かいます。歩いている最中、駅の構内にある韓国料理店の看板が目に入りました。お肉と野菜をたっぷり入れた赤い汁が鍋の中でグツグツと煮えている写真を見て、ふっと小笠原先輩の言葉を思い出します。
――キムチ鍋好きだから、作り方調べといて。
わたしは、くるりと踵を返しました。
歩いてきた道を戻り、元の路線の電車に乗り直します。そして別の駅で別の路線に乗り換えます。わたしは何をしているんだろう。馬鹿なんじゃないか。わたしの中の冷静なわたしはそう諭してきますが、目指していた駅に到着して綺麗さっぱりいなくなります。
駅前のスーパーに入ります。豚バラと、白菜と、長ネギと、ニラと、えのきと、お豆腐と、キムチ鍋の素を買います。喪服を着て、左腕に黒いハンドバックを、右腕に長ネギのはみ出たスーパーの袋を提げた自分の姿がスーパーのガラスに映り、ひどくアンバランスで滑稽に見えました。だけどその滑稽さが、今の自分に合っているような気もしました。
スーパーを出て、住宅街に入ります。空からちらちらと雪が降って来て、「ちょうどいいな」と思います。雪が降るぐらい寒い日に食べるお鍋は美味しいものです。
マンションに着きました。
ポストを覗かずに、部屋まで行きます。玄関のドアを開けて「ただいま」と呟き、パンプスを脱いで廊下に上がると、タイツ越しに床を踏む感触で足がこちこちに固まっていることに気づきました。喪服ではブーツを履けなかった影響が出ています。アウターも黒いものがなくて合わせられなかったから、身体もきっと凍っているのでしょう。どうでもいいです。
リビングに入って電気を点け、スーパーの袋をキッチンスペースに置きます。それからハンドバックをカーペットの上に置き、暖房をオンにしてからキッチンスペースに戻ります。包丁とまな板と大きなお皿を用意して、買ってきた鍋の具材を切ってお皿に入れていきます。
具材を切り終えたら、去年のうちに家から移しておいたお鍋を取り出し、水とキムチ鍋の素を入れます。そして最初からマンスリーマンション用の家具として用意されていた電気コンロをリビングに運び、食卓にしているローテーブルの上に置いて電源を入れ、さらにその上に赤い水の入ったお鍋を乗せます。
取り皿と箸と具材をローテーブルに乗せ、おたまをお鍋の中に入れます。水がグツグツと煮えて来たところでニラ以外の具材を加えます。具材の煮え具合を確かめながらおたまでお鍋をかき混ぜ、いい具合になったところでニラを入れ、少し待ってから取り皿にキムチ鍋の汁と具材を取り分けます。
「いただきます」
正座して、両手を合わせます。お鍋から立ち上る煙の向こうに、口をもぐもぐと動かして豚肉をほおばる小笠原先輩が見えました。
「うまーい。やっぱ冬は鍋だね」
「ですよね」
「今度、船井くんたちも呼んで闇鍋やろうよ」
「闇鍋……」
「イヤ?」
「変なもの持って来そうだなあって思って」
「大丈夫。ちゃんと食べられるもの持ってくるから」
「例えば、蛙は食べられるものですか?」
「食べられるものでしょ。俺、食べたことあるよ」
「分かりました。闇鍋は止めましょう」
「えー」
ゴポッ。
お鍋から汁が吹きこぼれました。わたしは電気コンロに視線を落とし、ヒーターの火力を最低に下げてから前を向きます。小笠原先輩はいません。電源の入っていないテレビのモニターと、テレビの台の端に置かれたサボ太郎を眺めてから、取り皿によそった白菜を口に運びます。
「……おいしー」
よく噛みます。顎が上下する動きに押し出されるように、涙が目からあふれ出します。白菜を飲みこみ、箸を取り皿の上に置いて、両腕をだらりと下げます。
「……引いたじゃん」
テレビ台の上のサボ太郎を見つめ、わたしは、泣きながら叫びました。
「大吉、二回、引いたじゃん!」
分かっていました。
小笠原先輩がいなくなることも、わたしの誕生日を祝えないことも、本当はずっと分かっていました。小笠原先輩が倒れたのは、お正月に連続で凶を引いたからではない。わたしがお正月に連続で大吉を引けば、小笠原先輩の病気が良くなるわけでもない。それが分からないほど、わたしは子どもではありません。
覚悟しない覚悟なんて、嘘です。日に日にやせ細っていく小笠原先輩を目の当たりにしながら、小笠原先輩のいない未来を少しも想像しないなんてできません。わたしはわたしを騙していました。いなくなってしまった後も自分を騙し続けて、現実を受け入れられないほどに。
立ち上がり、キッチンに向かいます。冷蔵庫の扉を開け、中を覗いて、小笠原先輩の誕生日パーティからずっと残っている缶ビールを取り出します。十月から三ヶ月放置された飲み物。わたしは十八歳の未成年。そういう懸念事項を全て放り投げ、缶を開けて中身を勢いよく喉に流し込みます。
苦味の詰まった炭酸水が、食道を通って胃に落ちます。本当に、全く、びっくりするぐらい美味しくありません。こんなものをありがたがって飲んでいる先輩たちは全員バカなんじゃないか。そう思いながら、休むことなくビールを煽り続けます。
「……あー」
頭がぼうっとしてきました。わたしはビールの缶を持ったままテーブルに戻り、今度はお鍋の具を食べながらビールを飲みます。ビールの苦みが辛い汁の染みた具材の味を引き立て、いい具合に食事が進みます。なるほど。こういうものなのね。なるほど。なるほど――
――俺たち、両想いでしょ?
アルコールに酩酊する頭の中で、思い出が細切れになって再生されます。サークル潰しの後、レンタカーの中でかけられた言葉。あれから小笠原先輩の運転で海に行って、海鮮丼を食べて、夕焼けの海を見て、戻って、船井先輩にとんでもなく怒られました。いい思い出です。
――俺たちがお似合いの二人だってこと、みんなに見せつけてやろう。
結婚式の日、控え室でかけられた言葉。あの式に出た人たちは、わたしたちをお似合いの二人だと思ってくれたでしょうか。とりあえず来賓客の方は小笠原先輩の関係者だらけで、会う人会う人から「まだ間に合うから全力で逃げろ」みたいなことを口々に言われました。いい思い出です。
――好きだから、抱かせて欲しい。
小笠原先輩の誕生日パーティの後、この部屋でかけられた言葉。後になって聞いたところ、小笠原先輩もベッドに入って毎回即座に寝つくのはさすがに無理があると思っていたそうです。それでもわたしが何も言ってこないから、人を信じすぎてはいけないと教えるかどうか本気で悩んだとのこと。いい思い出です。
記憶の再生が止まりません。あれも、これも、全て、何もかもいい思い出です。一つぐらい、本当にどうしようもない思い出があってもいいのに。いいことばかりではなかった。それでも亡くなった人を悪く言いたくはない。だから飲み込んで、水に流そう。そう思えるものが一つでも、たった一つでもあれば、わたしはこんなにもめちゃくちゃにはならないのに。
「……なんで」
箸をお鍋の中に入れます。ごっそり取れた白菜とネギの塊を口に突っ込み、ビールで食道に流し込みます。
「なんで! なんで! なんで!」
ボロボロ泣きながら声を上げます。理由なんてない。分かっています。分かっていて、叫び続けます。
「なんでよお……」
お豆腐、ネギ、えのき、豚肉、またネギ。次から次へとお鍋を食べ進めます。涙と湯気とアルコールで視界がぼやける中、小笠原先輩の幻が「落ち着きなよ」と楽しそうに笑いました。
骨はカラカラに乾いていて、生前の小笠原先輩にあったエネルギーの欠片も感じませんでした。わたしは肩甲骨だと言われた骨を箸でつまんで骨壺に収めました。小笠原先輩の背中に手を回した時の感触を思い返しましたが、あの時に触れていた骨が今つまんだそれだとは、どうしても思えませんでした。
骨が全て骨壺に収まり、今日の儀式は終了しました。船井先輩たちと火葬場を出て帰路に着きます。駅に到着して、まず逆方向に帰る安木先輩と別れました。それから電車に乗って少し進み、乗り換え駅でわたしだけが降りて、船井先輩、長野先輩と別れました。
改札を出て、違う路線の改札に向かいます。歩いている最中、駅の構内にある韓国料理店の看板が目に入りました。お肉と野菜をたっぷり入れた赤い汁が鍋の中でグツグツと煮えている写真を見て、ふっと小笠原先輩の言葉を思い出します。
――キムチ鍋好きだから、作り方調べといて。
わたしは、くるりと踵を返しました。
歩いてきた道を戻り、元の路線の電車に乗り直します。そして別の駅で別の路線に乗り換えます。わたしは何をしているんだろう。馬鹿なんじゃないか。わたしの中の冷静なわたしはそう諭してきますが、目指していた駅に到着して綺麗さっぱりいなくなります。
駅前のスーパーに入ります。豚バラと、白菜と、長ネギと、ニラと、えのきと、お豆腐と、キムチ鍋の素を買います。喪服を着て、左腕に黒いハンドバックを、右腕に長ネギのはみ出たスーパーの袋を提げた自分の姿がスーパーのガラスに映り、ひどくアンバランスで滑稽に見えました。だけどその滑稽さが、今の自分に合っているような気もしました。
スーパーを出て、住宅街に入ります。空からちらちらと雪が降って来て、「ちょうどいいな」と思います。雪が降るぐらい寒い日に食べるお鍋は美味しいものです。
マンションに着きました。
ポストを覗かずに、部屋まで行きます。玄関のドアを開けて「ただいま」と呟き、パンプスを脱いで廊下に上がると、タイツ越しに床を踏む感触で足がこちこちに固まっていることに気づきました。喪服ではブーツを履けなかった影響が出ています。アウターも黒いものがなくて合わせられなかったから、身体もきっと凍っているのでしょう。どうでもいいです。
リビングに入って電気を点け、スーパーの袋をキッチンスペースに置きます。それからハンドバックをカーペットの上に置き、暖房をオンにしてからキッチンスペースに戻ります。包丁とまな板と大きなお皿を用意して、買ってきた鍋の具材を切ってお皿に入れていきます。
具材を切り終えたら、去年のうちに家から移しておいたお鍋を取り出し、水とキムチ鍋の素を入れます。そして最初からマンスリーマンション用の家具として用意されていた電気コンロをリビングに運び、食卓にしているローテーブルの上に置いて電源を入れ、さらにその上に赤い水の入ったお鍋を乗せます。
取り皿と箸と具材をローテーブルに乗せ、おたまをお鍋の中に入れます。水がグツグツと煮えて来たところでニラ以外の具材を加えます。具材の煮え具合を確かめながらおたまでお鍋をかき混ぜ、いい具合になったところでニラを入れ、少し待ってから取り皿にキムチ鍋の汁と具材を取り分けます。
「いただきます」
正座して、両手を合わせます。お鍋から立ち上る煙の向こうに、口をもぐもぐと動かして豚肉をほおばる小笠原先輩が見えました。
「うまーい。やっぱ冬は鍋だね」
「ですよね」
「今度、船井くんたちも呼んで闇鍋やろうよ」
「闇鍋……」
「イヤ?」
「変なもの持って来そうだなあって思って」
「大丈夫。ちゃんと食べられるもの持ってくるから」
「例えば、蛙は食べられるものですか?」
「食べられるものでしょ。俺、食べたことあるよ」
「分かりました。闇鍋は止めましょう」
「えー」
ゴポッ。
お鍋から汁が吹きこぼれました。わたしは電気コンロに視線を落とし、ヒーターの火力を最低に下げてから前を向きます。小笠原先輩はいません。電源の入っていないテレビのモニターと、テレビの台の端に置かれたサボ太郎を眺めてから、取り皿によそった白菜を口に運びます。
「……おいしー」
よく噛みます。顎が上下する動きに押し出されるように、涙が目からあふれ出します。白菜を飲みこみ、箸を取り皿の上に置いて、両腕をだらりと下げます。
「……引いたじゃん」
テレビ台の上のサボ太郎を見つめ、わたしは、泣きながら叫びました。
「大吉、二回、引いたじゃん!」
分かっていました。
小笠原先輩がいなくなることも、わたしの誕生日を祝えないことも、本当はずっと分かっていました。小笠原先輩が倒れたのは、お正月に連続で凶を引いたからではない。わたしがお正月に連続で大吉を引けば、小笠原先輩の病気が良くなるわけでもない。それが分からないほど、わたしは子どもではありません。
覚悟しない覚悟なんて、嘘です。日に日にやせ細っていく小笠原先輩を目の当たりにしながら、小笠原先輩のいない未来を少しも想像しないなんてできません。わたしはわたしを騙していました。いなくなってしまった後も自分を騙し続けて、現実を受け入れられないほどに。
立ち上がり、キッチンに向かいます。冷蔵庫の扉を開け、中を覗いて、小笠原先輩の誕生日パーティからずっと残っている缶ビールを取り出します。十月から三ヶ月放置された飲み物。わたしは十八歳の未成年。そういう懸念事項を全て放り投げ、缶を開けて中身を勢いよく喉に流し込みます。
苦味の詰まった炭酸水が、食道を通って胃に落ちます。本当に、全く、びっくりするぐらい美味しくありません。こんなものをありがたがって飲んでいる先輩たちは全員バカなんじゃないか。そう思いながら、休むことなくビールを煽り続けます。
「……あー」
頭がぼうっとしてきました。わたしはビールの缶を持ったままテーブルに戻り、今度はお鍋の具を食べながらビールを飲みます。ビールの苦みが辛い汁の染みた具材の味を引き立て、いい具合に食事が進みます。なるほど。こういうものなのね。なるほど。なるほど――
――俺たち、両想いでしょ?
アルコールに酩酊する頭の中で、思い出が細切れになって再生されます。サークル潰しの後、レンタカーの中でかけられた言葉。あれから小笠原先輩の運転で海に行って、海鮮丼を食べて、夕焼けの海を見て、戻って、船井先輩にとんでもなく怒られました。いい思い出です。
――俺たちがお似合いの二人だってこと、みんなに見せつけてやろう。
結婚式の日、控え室でかけられた言葉。あの式に出た人たちは、わたしたちをお似合いの二人だと思ってくれたでしょうか。とりあえず来賓客の方は小笠原先輩の関係者だらけで、会う人会う人から「まだ間に合うから全力で逃げろ」みたいなことを口々に言われました。いい思い出です。
――好きだから、抱かせて欲しい。
小笠原先輩の誕生日パーティの後、この部屋でかけられた言葉。後になって聞いたところ、小笠原先輩もベッドに入って毎回即座に寝つくのはさすがに無理があると思っていたそうです。それでもわたしが何も言ってこないから、人を信じすぎてはいけないと教えるかどうか本気で悩んだとのこと。いい思い出です。
記憶の再生が止まりません。あれも、これも、全て、何もかもいい思い出です。一つぐらい、本当にどうしようもない思い出があってもいいのに。いいことばかりではなかった。それでも亡くなった人を悪く言いたくはない。だから飲み込んで、水に流そう。そう思えるものが一つでも、たった一つでもあれば、わたしはこんなにもめちゃくちゃにはならないのに。
「……なんで」
箸をお鍋の中に入れます。ごっそり取れた白菜とネギの塊を口に突っ込み、ビールで食道に流し込みます。
「なんで! なんで! なんで!」
ボロボロ泣きながら声を上げます。理由なんてない。分かっています。分かっていて、叫び続けます。
「なんでよお……」
お豆腐、ネギ、えのき、豚肉、またネギ。次から次へとお鍋を食べ進めます。涙と湯気とアルコールで視界がぼやける中、小笠原先輩の幻が「落ち着きなよ」と楽しそうに笑いました。