次の日、わたしは小笠原先輩に連絡をせず、お見舞いに行くことにしました。

 今までは必ず連絡を入れていました。家に行く前に連絡を入れるようなものですから当然です。連絡しない方がおかしい。そのおかしなことをあえてやるのは、自分で思っていたよりもドキドキしました。思えば昔から、サプライズを受けるのは平気だったけれど仕掛けるのは苦手でした。

 ブラウンのニットワンピースにミドル丈のコートを合わせ、病院に向かいます。進むにつれて心拍数はどんどん上がっていき、病室のドアの前に立った時には心臓が破裂しそうな勢いでした。大きく深呼吸をしてからドアをノックします。

 コンコン。

 しばらく待ってみても、反応はありませんでした。もう一度ノックしますがやはり同じ。思い切って横開きのドアをスライドさせてみると、あっさり開いてしまいました。しかしベッドはもぬけの空で、小笠原先輩はどこにもいません。

 ベッドに歩み寄り、シーツがめくれている箇所のマットに触ります。温もりはあまり感じないので、買い物のために売店に行ったとか、ほんの少しだけどこかに出向いているパターンではないかもしれません。だとしたら、どうすればいいでしょう。わたしはベッド傍の丸椅子に座り、腕を組んで悩み始めました。

 無人のベッドを改めて観察します。よく見るとシーツが足元の方までぐちゃぐちゃになっていて、普段どういう使い方をしているのかが透けて見えます。鍵をかけないで個室を出るのも不用心です。ちゃらんぽらんで、テキトーで、入院する前と何も変わっていない。それにわたしは嬉しくなってしまいます。

 わたしは上半身をベッドに預け、小笠原先輩がいつも横になっているマットに顔をうずめました。そして存在しない小笠原先輩の気配を抱くように、両腕をマットの上に広げて伸ばします。

「うわあ!」

 甲高い叫び声が、わたしの耳に届きました。

 慌てて跳ね起きると、部屋の入口に病院服を着た小さな男の子が立っていました。くりくりしたかわいらしい目を見開き、分かりやすく怯えています。わたしは内心パニックになりながら、何が起こったのかもどうすればいいのかも全く分からず、男の子と同じような表情で固まりました。

「どしたの?」

 男の子の背後から、小笠原先輩がひょっこりと姿を現しました。そして硬直しているわたしを見やり、大して驚いた様子もなく声をかけてきます。

「来てたんだ」
「あ、はい」
「大学は?」
「冬休みですけど……」
「そっか」

 小笠原先輩がベッド脇のラックに歩み寄り、中から漫画を数冊取り出しました。そしてまだ硬直の解けていない男の子に本を渡します。

「とりあえずこれだけね。続きは読み終わったら借りに来なよ」
「……ありがとう」
「またなー」

 部屋を出て行く男の子に向かって、小笠原先輩が元気よく手を振りました。そしてドアを閉め、何事もなかったかのようにベッドに横になります。わたしは会ったら言おうと思っていた言葉を一旦全て心の奥にしまい、代わりに今一番気になることを小笠原先輩に尋ねました。

「あの子、誰ですか?」
「病院で知り合った友達。漫画の話で盛り上がって、俺が持ってる本を読みたがってたから、貸すよって言って連れて来たの」
「年齢は?」
「十歳」
「よく自分の年齢の半分以下の子とそんな仲良くなれますね」
「まー、俺も精神年齢はそんなもんだから」

 確かに、と思いました。小笠原先輩が話を続けます。

「子どもと仲良くするのは得意なんじゃないの? 先生になるんでしょ」
「教育学部の生徒がみんな先生になるわけじゃないですよ」
「じゃあ、ならないんだ」
「そういうわけじゃないですけど……」

 わたしは口ごもりました。0か1か。やるかやらないか。そういう小笠原先輩を前にして、ふにゃふにゃのわたしが顔を出します。

「不安なんですよね。わたし、先生になるのもいいかなーぐらいの気持ちで教育学部に入っちゃったので、ちゃんとした先生になれる自信がなくて」
「大丈夫でしょ。昔は頼りないところもあったけど、いい具合に神経太くなってきてるもん。俺ぐらい太くなれば小学生と漫画の貸し借りもできるようになるよ」

 小笠原先輩がわたしから顔を逸らし、さっき男の子が立っていた部屋の出入り口を見やりました。

「まあさっきの子は、本当にただ話してたらウマがあっただけじゃなくて、共通点があったから狙って仲良くなりにいったんだけど」
「共通点?」
「うん。あの子も余命短いみたい」

 部屋の空気が、急にずしりと重たくなりました。小笠原先輩が右手で首の後ろをかきます。

「あの子っていうか、あの子の親から聞いた話なんだけどさ。だから仲良くしてくれって言われた。俺、そういう理由で仲良くするのあまり好きじゃないんだけど、さすがに言えなかったわ」

 小笠原先輩はわたしの方を向いていません。だからどんな顔をしているのか分かりません。だけどたぶん、笑ってはいないと思います。

「あの子を見て、みんなが俺をどういう気持ちで見てるのか、ちょっと分かった気がした」

 何と言えば良いのでしょう。

 小笠原先輩と仲良くしている人たちが、小笠原先輩の命が残り少ないから仲良くしているのかというと、そんなことはありません。そもそもわたしや船井先輩たちのように、そうなる前から仲良くしていた人の方がずっと多いのです。それは小笠原先輩だって分かっているはずです。

 だけど、小笠原先輩の命が残り少ないことに何の意味も感じていないかというと、そんなこともありません。どうしたって意識してしまうし、意識すれば関わり方にも影響は出てしまう。少なくともわたしはそうでした。

「小笠原先輩」

 だから、今日。

 そんなわたしを変えるために、わざわざここに来たのです。

「マンション引き払うの、止めませんか」

 小笠原先輩が振り向きました。わたしはニットのワンピース越しに腿を掴み、顎を上げて声を張ります。

「わたしがこんなことを言える立場じゃないのは分かっています。でも引き払いたくないんです。また一緒に住むためにあのままにしておきたい」

 胸に手を乗せます。深く息を吸って、勢いよく吐き出します。

「わたしは、覚悟しない覚悟をします」

 覚悟するのは、簡単です。

 目の前の現実を見れば、結果として覚悟がついてくる。その程度のものでしかありません。そして現実が強大であればあるほど目を逸らすことは難しい。どうしたって視界に入って来てしまいます。

 それでも小笠原先輩はわたしのために、わたしと生きることを考えてくれました。ならば次はわたしの番です。今また現実から逃げられなくなっている小笠原先輩のために、今度はわたしが小笠原先輩と生きることを考える。

 覚悟なんて、絶対にしてやりません。

「小笠原先輩はすぐに退院します。そしてあのマンションでわたしと同棲を再開します。退院したらお鍋を作りましょう。実家に余っている鍋があるので、マンションに移しておきます」

 現実を見据えるのは難しくて偉い。現実から目を逸らすのは簡単で良くない。ずっとそう思っていました。でも、違う。少なくとも今この場において、わたしの中では違います。

「楽しみですね」

 にっこりと笑います。小笠原先輩は何を言われたのか分からなかったように、しばらくぽかんと呆けました。やがて下を向き、痩せた肩を小刻みに震わせます。

「っく、くく……あはははは!」

 小笠原先輩が、声を上げて笑い出しました。

 今度はわたしが呆ける番です。火がついたように笑う小笠原先輩を、何もできず呆然と眺めます。やがて小笠原先輩が笑いすぎて激しく咳き込んだ後、顔を上げて気持ちよさそうに呟きました。

「あー、最高」
「何かおかしかったですか?」
「何もかもおかしいでしょ」

 小笠原先輩の唇が、にやりと不敵に歪みました。

「さっきの、訂正するわ」
「さっきの?」
「もう俺より神経太いよ。先生でも何でもなれる。さすが俺の嫁さん」

 頬が熱くなりました。小笠原先輩がわたしに身体を寄せ、背中に手を回して抱きしめてきます。

「俺さ」吐息が肌に当たります。「キムチ鍋好きだから、作り方調べといて」

 小笠原先輩がわたしから離れました。そしてベッドの上でへらへら笑います。わたしも同じように、へらへらと笑い返しました。

「はい」