お見舞いの後、わたしはマンションに向かいました。

 部屋に入り、まずは軽く掃除をします。それから引き払う時に運ぶ私物をチェックして、スマホのメモに記録して行きます。ほとんどが洋服だったので一日あれば問題なくまとめられそうなことが分かりました。その気になれば明日にでも引き払えそうです。

 あっと言う間に、やることがなくなりました。無意味にテレビをつけて、リビングのソファに寝転がります。ストーリーも登場人物も何一つ分からない、観たことのないドラマの再放送らしきものを眺めながら、ふと小笠原先輩も似たようなことをやっていたのを思い出します。

「それ、面白いですか?」

 ある日の夜、お風呂から上がったら小笠原先輩がテレビドラマを観ていたので、わたしは何気なくそう尋ねました。小笠原先輩はテレビから目を逸らさず、わたしの質問に答えます。

「面白いよ」
「どんな話なんですか?」
「サスペンスの連続ドラマみたい。今日初めて観たからよく分かんないけど」
「え?」

 わたしは素直に戸惑いました。そして思ったことをそのまま口にします。

「そんなことってあります?」
「どういうこと?」
「えっと……小笠原先輩はどうして今そのドラマを観てるんですか?」
「テレビつけたらやってたから」
「つけたらやってただけのよく分からないドラマが面白いんですか?」
「うん」
「もう一回聞きますけど、そんなことってあります?」
「あるでしょ。現に俺が今そうなってるじゃん」

 それが信じられないから聞いているのに、振り出しに戻ってしまいました。わたしがどう聞き直そうか考えている間に、小笠原先輩が話しかけてきます。

「今まで周りにそういう人いなかったんだ」
「そうですね。一話完結ならともかく、サスペンスの連ドラはさすがに」
「良かった」
「良かった?」

 小笠原先輩がニッと笑いました。そして楽しそうに声を弾ませます。

「俺がいなくなった後も、変なやつがいたなあって覚えてそうじゃん」

 ドラマが終わりました。

 過去を思い返しているうちに、終わってしまいました。面白かった面白くなかった以前に、どんな話だったかもロクに覚えていません。やはりわたしは小笠原先輩みたいにはなれないようです。

 わたしはテレビの電源を切り、ソファを離れてテレビ台に近寄りました。そしてしゃがんで腰を落とし、台の上のサボ太郎に目線の高さを合わせます。

「どうすればいいと思う?」

 返事はありません。わたしは一方的に話し続けます。

「小笠原先輩はずっと覚悟していた。わたしも覚悟はできている。じゃあもうやれることってないよね。その時を待つしかない」

 ひとさし指を伸ばします。サボ太郎の頭を撫でるイメージで、薄い楕円形の幹の先端に指を乗せます。

「でも……それでいいのかな」

 目をつむり、ひとさし指に意識を集中します。サボ太郎が棘を通してメッセージを伝えようとしている。そういうイメージを頭の中に広げ、指先の痛みから何か読み取れないか試みます。――もちろん、何も読み取れません。わたしは床に尻をつき、身体を後ろに倒してサボ太郎を見上げました。

 サボ太郎は微動だにしていません。生まれた時からここにいますとでも言いたげな堂々とした佇まいを前に、わたしの口元に苦笑いが浮かびました。

「あなたがうちに来てから、まだ二か月も経ってないんだよね」

 サボ太郎がやってきた日のことを思い返します。思えばあの時から、小笠原先輩は自分がいなくなった後のことを考えていました。いえ、あの時からどころではありません。余命宣告のことを明かし、わたしたちを巻き込んで好き勝手やりはじめた頃から、近いうちに自分がいなくなることは確定事項として動いていました。

 わたしもいずれは死にますが、そのことを考えて日々を過ごしてはいません。でも小笠原先輩は違う。安木先輩が「そういう未来を現実的なものとして捉えたら、意識しなくても勝手にそういう風に動く」と言ったように、自分の死をはっきりとした手触りで捉えていたから、急いで結婚式をしたり、同棲をしたり、逆に敢えて抱くことは避けたり、それから――

 ――誕生日には、指輪を買うよ。

 違和感が、頭の片隅に芽生えました。

 そうです。あの時は喜びが強すぎて気づきませんでしたが、冷静に考えるとおかしいです。わたしの誕生日は三月。宣告された命のリミットからはだいぶ遠い。プレゼントに理由づけが欲しいにしても、クリスマスの方が現実的なはずです。

 心臓の鼓動が早まります。わたしはふらりと立ち上がり、ベランダに続くガラス戸を開きました。十二月の外気の冷たさを感じながら、夜景を眺めるわたしの姿を無人のベランダに思い描き、それを見る小笠原先輩の気持ちになりきろうと試みます。

 残された時間は、長くない。

 その長くない時間をあの子と楽しく過ごしたくて、今まで色々とやってきた。そんな中でも、自分との思い出をあの子の人生の足かせにしないため、一線は越えないようにしていた。だけど今日、越えてしまった。あの子の人生の奥深くに潜り込んでしまった。だったら――

 あの子と一緒に生きることを、まずは考えてみようか。

 ――こういう子とずっと一緒にいられたら、人生楽しいだろうなって思った。

 いつか聞いた言葉を思い出し、わたしの目にうっすらと涙の膜が張ります。わたしだって、ずっと一緒にいたい。十年後も、二十年後も、一緒に笑いあっていたい。でも――

「――無理じゃないですか」

 両手で顔を覆います。誰に向かってでもなく、呟きをこぼします。

「そんなの、絶対に、無理じゃないですか」

 絶対に無理。そう、絶対に無理です。小笠原先輩はわたし以上にそれを分かっていたでしょう。それでもわたしの誕生日を祝うと約束した。生きたいという願いを越えて、生きようという意志を抱いた。

 わたしの存在が、小笠原先輩の覚悟を揺るがしたのです。

 強い風が吹き込んできました。わたしはガラス戸を閉め、ぼうっとリビングを見渡します。テレビ台の上にちょこんと座っているサボ太郎に近づき、さっき触れていた棘にもう一度触れ、自分を鼓舞するように小声で囁きます。

「……よし」

 わたしは棘から指を離し、自分の頬をぴしゃりと叩きました。そして涙を拭って顎を上げます。状況は何も変わっていない。だけど全てが解決したような、爽やかな気分でした。