(7)
あるはずのない返答に、暁は思考が停止した。
「昨日は我の縄張り内で、同種が人間に粗相をしたと聞いた。まさかその相手が、よくよく顔見知ったお主とは思わなんだが」
「……」
「どうやら、人ならざるものとの接触は慣れておらぬようだな」
「あ、はい」
人ならざるもの。
人ならざるもの?
それは一体どういう意味だろう。
いやそれ以前に、この猫はなぜこんな流暢に人語を話しているのだろう。
昨日、同種が粗相をした? それってもしかして、足蹴にしてきたあの猫のことだろうか──。
なんにせよ、目の前のクルミから放たれる妙に荘厳な空気に、暁はすっかり圧倒されていた。
口に出た言葉も、自然と敬語になっている。
「まあいい。昨日、同種がお主の購入した食料に手を出したらしいな。近々詫びに向かわせる。迷惑をかけたな」
「え? いえ、食料を盗んでいったのは、人間の女の子で……」
「その童子は、幼い猫又が化けた仮の姿だ」
「……猫又」
その言葉に、暁の脳裏に昨日目にした出来事が映し出される。
おもむろに掴んだ少女のツインテール。それは確かに、白く長い二本の尻尾に変化していた。
やっぱり、あれは夢じゃなかった?
「あれも幼い。この地域に訪れた好機に、我慢できなかったのだろう。堪忍してくれ」
「はあ、まあ」
クルミが頭を下げたので、暁もつられて頭を下げた。
駄目だ。聞きたいことがありすぎる。
ひとまず、暁は目の前の問題を口にした。
「えっと。クルミ……さんは、猫又の総長みたいなもの、という認識でよろしいでしょうか?」
「少し違うな。人が分別したあやかし名では、我は化け猫。この辺り一帯の猫に擬態したあやかしを統括している」
「……なるほど。化け猫ですか」
まずい。化け猫と猫又の区別がまったくわからない。
帰ったらすぐに調べておかなければ。
「それにしても、意外だな」
ふっと息を吐いたように伸びをしたあと、クルミは部屋の端に用意されたクッションにゆったり腰掛けた。
枕代わりの藍色のブランケットは、クルミのお気に入りだとおばあちゃんから聞いたことがある。
「あの者と行動を共にしているのなら、お主も我らのような存在に慣れていると思うていた。交流は浅いということか」
「あの者、というと」
「お主の連れだ」
「連れ? 私に連れは」
いない、と言いかけて息をのんだ。
「……千晶が?」
「だが、お主も遅かれ早かれ知ることだったろう。あの者の惹きの強さは、他の半端な術者をしのぐ」
「惹きの、強さ? どういうことですか。あの子が一体何を」
「自覚なくとも、何もせずとも、他に影響を与えてしまう存在もいるのさ。難儀な運命だな」
暁の脳裏に、無邪気に笑いながら褒め言葉を乞うてきた甥の姿が過る。
この猫の告げることが何を示すのかはわからない。わからないけれど。
あの子の身元引受人は──この私だ。
「私は……何をすればいいんでしょう」
「どうやらお主、あの者のことを何も知らぬ様子だな」
「恥ずかしながら、その通りです」
村に背を向けて以降、本家に帰省なんて考えたこともない。
一度だけ、特別な出来事のときには村に舞い戻ったときも、とりつくしまもなく門前払いだった。
甥っ子である千晶の成長も噂も遮断されたまま、この十数年を生きてきた。
「まあ、お主ら人間の寿命は、あやかしならぬ猫と比べ存分に長い。互いをじっくり知ってゆけばいい。ここの家主とお主が、最初に顔通ししたときのようにな」
クルミがどこか愉しそうに目を細め、クッションにゆったりと身を預ける。
暁がなおも言葉を募ろうとした時、部屋の扉が開いた。
「ごめんなさいね暁ちゃん。ラッピングをしていたら遅くなっちゃったわ」
「っ、おばあちゃん」
「あらあら、クルミもここにいたのね」
ぱたぱたと部屋に戻ってきた谷中のおばあちゃんに、心臓が飛び跳ねる。
対してクルミは、にゃあう、と気のない声を上げるだけだった。
手土産の手作りクッキーが、いつものとおり可愛らしいリボンをまとって渡された。
受け取ったあとは、今日の作業代──今回は家庭菜園の種まきと苗植えの手伝いだった──の請求書を切り終わると、玄関まで丁寧に見送られる。
「いつもありがとうございます。また何かありましたら、遠慮なくお声がけください」
「こちらこそ、いつもありがとう。またよろしくね」
朗らかに手を振る谷中のおばあちゃん。その後ろには、少しの距離をとってクルミの姿もある。
おばあちゃんが姿を見せた途端、クルミは忽然と言葉を発さなくなった。
それどころか溢れ出ていた不思議なオーラのようなものまで、ぱったり消え失せていた。どこからどう見ても、ただの三毛猫だ。
まさか、今のやりとりも全部夢か。
「……いやいや。こんな白昼夢、あるわけないって」
鮮やかな花壇に囲まれた道を進む暁が、そっと後ろを振り返る。
毛艶のいい尻尾を二度ほど左右に振ったあと、クルミはそのまま部屋の奥へと消えていった。
あるはずのない返答に、暁は思考が停止した。
「昨日は我の縄張り内で、同種が人間に粗相をしたと聞いた。まさかその相手が、よくよく顔見知ったお主とは思わなんだが」
「……」
「どうやら、人ならざるものとの接触は慣れておらぬようだな」
「あ、はい」
人ならざるもの。
人ならざるもの?
それは一体どういう意味だろう。
いやそれ以前に、この猫はなぜこんな流暢に人語を話しているのだろう。
昨日、同種が粗相をした? それってもしかして、足蹴にしてきたあの猫のことだろうか──。
なんにせよ、目の前のクルミから放たれる妙に荘厳な空気に、暁はすっかり圧倒されていた。
口に出た言葉も、自然と敬語になっている。
「まあいい。昨日、同種がお主の購入した食料に手を出したらしいな。近々詫びに向かわせる。迷惑をかけたな」
「え? いえ、食料を盗んでいったのは、人間の女の子で……」
「その童子は、幼い猫又が化けた仮の姿だ」
「……猫又」
その言葉に、暁の脳裏に昨日目にした出来事が映し出される。
おもむろに掴んだ少女のツインテール。それは確かに、白く長い二本の尻尾に変化していた。
やっぱり、あれは夢じゃなかった?
「あれも幼い。この地域に訪れた好機に、我慢できなかったのだろう。堪忍してくれ」
「はあ、まあ」
クルミが頭を下げたので、暁もつられて頭を下げた。
駄目だ。聞きたいことがありすぎる。
ひとまず、暁は目の前の問題を口にした。
「えっと。クルミ……さんは、猫又の総長みたいなもの、という認識でよろしいでしょうか?」
「少し違うな。人が分別したあやかし名では、我は化け猫。この辺り一帯の猫に擬態したあやかしを統括している」
「……なるほど。化け猫ですか」
まずい。化け猫と猫又の区別がまったくわからない。
帰ったらすぐに調べておかなければ。
「それにしても、意外だな」
ふっと息を吐いたように伸びをしたあと、クルミは部屋の端に用意されたクッションにゆったり腰掛けた。
枕代わりの藍色のブランケットは、クルミのお気に入りだとおばあちゃんから聞いたことがある。
「あの者と行動を共にしているのなら、お主も我らのような存在に慣れていると思うていた。交流は浅いということか」
「あの者、というと」
「お主の連れだ」
「連れ? 私に連れは」
いない、と言いかけて息をのんだ。
「……千晶が?」
「だが、お主も遅かれ早かれ知ることだったろう。あの者の惹きの強さは、他の半端な術者をしのぐ」
「惹きの、強さ? どういうことですか。あの子が一体何を」
「自覚なくとも、何もせずとも、他に影響を与えてしまう存在もいるのさ。難儀な運命だな」
暁の脳裏に、無邪気に笑いながら褒め言葉を乞うてきた甥の姿が過る。
この猫の告げることが何を示すのかはわからない。わからないけれど。
あの子の身元引受人は──この私だ。
「私は……何をすればいいんでしょう」
「どうやらお主、あの者のことを何も知らぬ様子だな」
「恥ずかしながら、その通りです」
村に背を向けて以降、本家に帰省なんて考えたこともない。
一度だけ、特別な出来事のときには村に舞い戻ったときも、とりつくしまもなく門前払いだった。
甥っ子である千晶の成長も噂も遮断されたまま、この十数年を生きてきた。
「まあ、お主ら人間の寿命は、あやかしならぬ猫と比べ存分に長い。互いをじっくり知ってゆけばいい。ここの家主とお主が、最初に顔通ししたときのようにな」
クルミがどこか愉しそうに目を細め、クッションにゆったりと身を預ける。
暁がなおも言葉を募ろうとした時、部屋の扉が開いた。
「ごめんなさいね暁ちゃん。ラッピングをしていたら遅くなっちゃったわ」
「っ、おばあちゃん」
「あらあら、クルミもここにいたのね」
ぱたぱたと部屋に戻ってきた谷中のおばあちゃんに、心臓が飛び跳ねる。
対してクルミは、にゃあう、と気のない声を上げるだけだった。
手土産の手作りクッキーが、いつものとおり可愛らしいリボンをまとって渡された。
受け取ったあとは、今日の作業代──今回は家庭菜園の種まきと苗植えの手伝いだった──の請求書を切り終わると、玄関まで丁寧に見送られる。
「いつもありがとうございます。また何かありましたら、遠慮なくお声がけください」
「こちらこそ、いつもありがとう。またよろしくね」
朗らかに手を振る谷中のおばあちゃん。その後ろには、少しの距離をとってクルミの姿もある。
おばあちゃんが姿を見せた途端、クルミは忽然と言葉を発さなくなった。
それどころか溢れ出ていた不思議なオーラのようなものまで、ぱったり消え失せていた。どこからどう見ても、ただの三毛猫だ。
まさか、今のやりとりも全部夢か。
「……いやいや。こんな白昼夢、あるわけないって」
鮮やかな花壇に囲まれた道を進む暁が、そっと後ろを振り返る。
毛艶のいい尻尾を二度ほど左右に振ったあと、クルミはそのまま部屋の奥へと消えていった。