(11)

「え?」

 大きな瞳をぱちくりさせ、手洗いを済ませたらしい甥が姿を見せた。

 第三者の登場を確認した男子生徒は、言葉を続けることなくきびすを返す。
 そうだろうな。でなければわざわざこのタイミングを狙いはしないだろう。

「えーと。今のって、アキちゃんの知り合い?」
「ううん。初めて顔を見た」

 直接は、とは言わなかった。
 誤魔化したようだが仕方がない。

 身内といえど、依頼内容は伏せるのが基本だ。田中先生の先ほどのやりとりは……まあ例外ということで良いだろう。

「ふーん。告白でもされてたの?」
「はっはっは。それじゃあ、帰ろうか」
「え、マジで?」

 んなわけないでしょうが。
 否定するのも面倒なやりとりを放置し玄関を出る。

 千晶の転入は、新学期開始と合わせて迎える。
 明日から再び生徒で賑わうであろう間黒高等学校には、桜の木が塀に沿うように植わっていた。

 すでに葉桜もちらほら見られる春の風物詩を、暁はぼんやりと見上げる。

 甥っ子の生活の、大部分を過ごすことになる場所。
 願わくばここでの生活が、明るく笑顔の日々でありますように。

 心に宿した願いをそっと捧げ、ようやく暁は校内をあとにした。



 翌日。

「……あれ?」

 千晶の初登校を見送ってから数時間。
 事務所内で一人事務作業に打ち込んでいた暁は、先ほどから幾度となくこの言葉をくり返していた。

 それは、とても些細なことだった。

 例えば、郵便受けにあるはずの今朝の朝刊が机の上に置かれていたり、トイレットペーパーが逆さにセットされていたり、誰もいないはずの二階の自宅から物音が聞こえたり。

 物音を一応確かめようと二階の自宅まで上がると、テーブルのど真ん中にハチミツが放置されていた。
 ご丁寧に蓋が開いたまま。

「うーむ」

 おかしい。何かがおかしい。

 でも、ひとまず仕事を切りよく終えてから考えよう。
 そう思い直すと、暁は再び事務所に降りていった。勿論、ハチミツはちゃんと元の場所に戻して。

 一度作業に集中すると、暁は相当にのめりこむ。
 辺りの音が聞こえなくなるとまではいかないが、甥が不在の日中の時間に、さばけるだけの量の仕事をさばくつもりでいた。

 自分のことだけ考えればいい生活はもう終わった。
 今後急に甥が熱を出して看病する展開だってゼロではない。昔の甥はよく熱を出して、保江がつきっきりで看病していたのだ。

 自営業は、業務が滞ると途端に食いっぱぐれる。出来るときに出来るだけ進めておくに限るのだ。

「……む?」

 今度はなんだ、と関係書籍を片手に持ったまま、暁は事務所の扉に視線を向けた。
 今、ノックに似た音を聞いたような。

 まあこの調子なら、どうせ誰も立ってやしないだろう。
 とはいえ無視するわけにも行かず、暁は重い腰をよいしょと持ち上げた。

「遅い」

 予想は見事に外れた。

「ここの運営は亀がしてるのか? 早く中へ招いて客をもてなせ」
「……失礼しました。どうぞこちらへ」

 告げる言葉に少しの空白を残した理由は、客の高圧的な物言いによるものではなかった。

 まずは、ここを訪れる依頼主にしては珍しく年齢が幼い。

 歳は小学校二、三年といったところか。
 真っ黒で艶やかな髪は、その口調と同様にどこかツンツンと芯が硬そうだ。
 なぜか耳の前にだけ長く残した髪が肩より下で揺れている。今はこういうヘアスタイルが流行っているのだろうか。あいにく暁は流行りものに疎い。

「素敵な着物ですね」
「お前ごときの収入では、一生かかっても買えないくらいの一級品だな」
「はは、確かにそのようです」

 社交辞令ではない。
 確かにその着物は、町内の祭で見かける浴衣の類いとは明らかに値の桁が違うものだった。

 九割の黒と一割の白でデザインされている着物は、金銀の糸を使った繊細な刺繍が随所に施されている。
 お茶を引っかけて弁償沙汰にならないよう、くれぐれも注意しよう。

 来客用のソファーに案内した暁は、目の前でふんぞり返る新規客を改めて観察する。

 真正面から見つめるに、一番印象が強いのは瞳だ。
 ギザギザ前髪の隙間からこちらに向けられるそれは、日の光のせいか金色にも黄色にも見える。
 態度に違わず生意気そうな口元は反抗的に閉ざされ、眉間にはご丁寧にしわが寄っていた。

 ──が、しかし。だ。

 大人には遠く及ばない、成長途中の小さな手足。
 その手は隠れないように袖をややたくし上げられ、その足には着物に合わせた下駄がはめられていた。
 歩くたびにカランコロンと奏でていた音に、思わず暁の口角が上がってしまう。

「なんだ」
「いえ、なんでもありません」

 可愛い。──そう言えば逆鱗に触れてしまうのは、暁じゃなくても容易に理解できた。

「当事務所所長の七々扇暁です。今日はどういったご用件でしょうか、お客さん」
「名刺などいらん。社交辞令のやりとりは時間の無駄だ」
「そうですか。では」

 差し出していた名刺をひとまずテーブルに置き、改めて少年を見つめ直す。

「今日はどういったご用件ですか。──あやかし君?」