ある時、自分が何も持っていないことに気付いた。
 積み上げてきたはずの人生は、実は空っぽで。ただゆらゆらと、流されるままに生きていた――

 そんな書き出しで読書感想文を書いたのは、高校二年の夏休みの頃だった。
 無難に生きてきた自分の人生を赤裸々に綴ったあと、課題図書が人生をテーマにしたものだったから、その内容を簡単にさらいつつ、空っぽの瓶に大切なものを詰めていくような人生を送りたいと書いて、締めくくった。
 何が先生たちの琴線に触れたのかはわからないけど。その読書感想文はそれなりの評価をされ、しばらくの間図書室に掲示された。

「おーちゃんと掲示されてんじゃん!」

 九月二十五日。幼い頃からの親友である明智将人は、その掲示された感想文を見て、俺以上に喜んでいたのを覚えている。校内は携帯の使用が禁止されているというのに、直前に見ていた女学生が写真を撮っていたのを見て、将人も俺の感想文を写真に収めていた。

「そんなの保存しといても、あとから見返したりなんてしないだろ」
「なに言ってんだ。保存しとくことに意味があるんじゃねーか」
「ああ、そう」

 だけど俺、横井修一という人間は、その内容を裏切るかのようにそれからも生き方を変えたりはせず、ただゆらゆらと、流されるままに生きていた。
 そんな俺が彼女と出会ったのは、高校三年に上がったばかりの、まだ桜が咲いていた頃のことだった。
 当時素行だけは良かった俺は、成り行きで先生から生徒会に推薦され、全校生徒過半数の投票により呆気なく会長の地位を任命された。新しい組織の顔合わせのために生徒会室で集まったとき、真っ先に彼女、道心莉奈は人懐っこい笑みを浮かべ「半年間、よろしくお願いしますね、会長」と挨拶した。
 彼女は一つ年下の後輩だった。選挙の時、自分のすぐ後に演説していたのを鮮明に覚えている。おそらくクラスの中で一番背の低いであろう彼女は、カンペを持たず、その小さな体で「私は、この学校をいじめのない学校にしていきたいです!」と声高らかに、そして自信満々に宣言していた。
 その直前に、大した信念もなく台本を見ながらマイクに声を吹き込んでいた俺は、彼女のあまりにも堂々とした後ろ姿に圧倒された。実際に俺が会長に任命されてしまった時、きっと会長になるべきなのはこの子だったと思ってしまうほどに。
 だから厳密には、後輩である道心とは学校の廊下で何度かすれ違っていたのかもしれない。だけど俺の記憶に残ってはいなくて。直接話をしたのは、この時が間違いなく初めてだった。
 生徒会と言っても名ばかりで、基本的には行事ごとに決まっているマニュアルを例年通りに遂行するだけの簡単な組織だ。何かを変えるようなことは滅多になく、言うなればただのお飾りで、大学受験のための内申点稼ぎに所属する人も大勢いると聞いていた。実際のところ、おそらく何かを為したいと思っているのは道心だけで、その姿を間近で見ていた俺は、ただ自分のことが恥ずかしいと思った。
 だから五月に開催される球技大会の打ち合わせの際に「例年通りじゃなく、やりたい種目を出来るだけ多く、そして公平に選べるようにしたいです」という彼女の意見に真っ先に賛同した。おそらく生徒会としての仕事が増えてしまうから、他のメンバーも、先生でさえも渋い顔をしていたが、会長である俺が乗っかったことによって道心の発言は検討されることとなった。

「運動が苦手な人や体の弱い人も楽しめるように、スポーツ種目以外も取り入れるべきだと思います」
「一応球技大会って名目だけど、先生から承認もらえるかな?」
「名前で却下されるなら、いっそのことスポーツ大会っていう名称に変えちゃえばいいんですよ。競技かるたとかってスポーツですよね?そういうのも、選択肢に入った方が面白いかなって思います!」
「わかった。さっそく放課後に体育科の先生に掛け合ってみるよ」
「それ、私も行きます!」

 放課後の部活が始まる前に、バスケ部顧問兼体育科の先生を呼び止めて、打ち合わせで決めた内容を二人で伝えに行った。最初は難色を示していたが、彼女の熱意が伝わったのか「道心がそうしたいって言うなら仕方がないか」と、競技種目と名前の変更を許可してくれた。
 その日、俺らは成り行きで途中まで一緒に下校することになった。彼女は道端に自販機を見つけると「祝杯です!」と言うや否や吸い寄せられるように近付いていき、小銭を何枚か投入した。

「会長は何がいいですか?」
「後輩に驕らせるわけにはいかないって」
「いいんですよ。会長のおかげで今日は上手くいったんですから。綾鷹でいいですか?」
「苦いのはちょっと。桃水でいい?」
「はーい」

 舌がお子様だったのがおかしかったのか、にこにこしながらボタンを押した。不思議と悪い気はしなかった。
 今日はこちらが言葉を挟む余地がないほど、彼女が理路整然と要件を説明していた。俺は、ただ隣で見ていただけ。完全に蚊帳の外だった。俺は、ほとんど何もしなかった。
 桃水のほのかな甘さが、湧き上がってきた劣等感をほんの少しだけ緩和してくれた気がした。

「正直、誰も賛成はしてくれないと思ってました」
「自信がないのに言ってたんだ」
「もし出来るなら、一人でもやろうって決めてましたから。だから今こうして、会長と肩を並べられているのがとっても嬉しいです」

 夕日に照らされた彼女の笑顔は、まるで絵画のように美しかった。俺はこのとき、しばらくの間彼女のことを見つめてしまっていた。
 ベンチに座り、オレンジジュースを飲む道心を横目に見ながら、ずっと聞いておきたかったことを訊ねた。

「いじめのない学校にしていきたいの?」
「覚えてたんですね」
「舞台袖で聞いてたから」
「私も覚えてますよ、先輩の演説。今より明るい学校にしていきたいですって」

 思い出すと、あまりにも抽象的すぎて顔が熱くなる。

「たぶん私も先輩と同じですよ。みんなが明るく過ごせる学校にしていきたいんです。そのために、まずはいじめがなくなったほうがいいかなって」
「そっか」

 なくなるといいな。
 言いかけて、あまりにもそれは無責任な言葉だと気付き、桃水と一緒に飲み込んだ。空っぽだった俺は、これから一つずつでも何かを詰めていきたいと思って「一緒に明るい学校にしていこう」と言い直した。
 青くて、くさいかなと思ったけど、道心は愛嬌よく「ふふっ」と笑ってくれた。

「私も、実は同じこと考えてました」

 ペットボトルの中身の空になる瞬間が、こんなにも名残惜しいと思ったのは、たぶん生まれて初めての経験だった。