——あれは、四月のはじめ。散り始めた桜の花びらがいくつか川に浮かんでいた。

 高校の入学式から四日経ち、学校案内や自己紹介を終えて、まだ着慣れない制服を必死で着こなそうとする時期だった。

 僕は友達を作ることなく、その日も終礼が終わると自転車と共に学校を立ち去り緑地公園に寄っていた。

 入学二日目から学校の帰りに寄る公園のベンチの上、赤い屋根の下で気の済むまで読書をすることが高校入学後の日課になっていた。

 緑地公園はかなり大きい公園のため、数分歩かなければ目的の屋根付きベンチにはたどり着けない。

 僕は公園に入り口のすぐ近くにそびえる癖のある石のオブジェたちを横目に、所々芝生の剥げた道を自転車と一緒に歩いていた。

 その道のすぐ隣には桜の花びらが浮かぶ川が流れ、橋を使って反対側に行くと遊具も何もない開けた場所がある。

 他にもしっかりと整備された道があるのだが、僕はこの道が好きだ。

 風がよく吹くし、夕焼け空と遠くに連なる山影がなぜだかいつも、僕をワクワクさせてくれる。

 まだ肌寒さを感じさせる空気が心地いい。だからって寒さに強いわけではなくむしろ弱いため、ブレザーの下にはしっかりとセーターを着ている。

 チリチリチリ

 リズム良く、車輪の回転に合わせて鳴り響くその音を聞きながら歩みを進めていると、赤い屋根が見えてきた。
 
 屋根の下のベンチにはどうやら先客はいないようだ。
 ほう、と少しだけ安心しつつ木製ベンチの背後から近づいていく。

「えっ…………!?」
 
 冷たい空気を切り裂くように響いた声は、もちろん僕の声だった。
 
 目に映るのは向かい合う形で佇むもう一つのベンチにはまるで死んでしまったかのように胸の前で手を組む人。

 畳まれた服に頭をのせて、柔らかそうな黒髪は肩口で切りそろえられている。

 目を閉じている代わりによく見える長いまつ毛とスッと通った鼻筋、新雪のように真っ白な肌を暖かい日の光が照らしていた。

 目元にはここにしかないというほどの完璧さでぽつんと泣きぼくろがのっている。

 まだ今の季節は冷たい風が吹く。シャツ一枚だけしかきていない目の前の人か風邪を引いてしまうといけないだろう。僕はポンポンとできるだけ優しく肩を叩いた。

 パリッとしたシャツに触るとほのかに洗剤の匂いが漂う。

 微かだがはっきりとすう、すうと子気味のいい寝息が聞こえる。

 もう一度ポンポンとできるだけ優しく叩くと、それに答えるように風が吹き、目の前の黒い髪を揺らした。どこか甘い匂いがする。

「風邪ひいちゃいますよ〜」
 
 その匂いに意識を向けながら、小さく声をかけ制服を被せようとすると

 パチリ 

「ん……やあ、おはよう少年」

 目の前の人は見たことのないほど深みがかった琥珀色の瞳をのぞかせ、まるで瞬く間に過ぎゆく春風のように凛とした音を響かせた。

「あっ……お、はようございます」

 突然の目覚めと、その声の響きに驚きながらも、僕はできるだけ冷静に返事をしたつもりだ。

 やっぱり女性だったと内心で他人事のように思った。というか、僕は少年と呼ばれるほど幼くはない。青年、むしろ好青年だろう。

「私を起こしてくれて本当にありがとう。君みたいな同年代の子でよかったよ。おじいちゃんなんかに起こされるとなんとも言えない空気が流れそう」

 体を起こしながら柔らかく微笑む彼女は、今思い出せばはっとするほど美しく、やけにクールで、なにかを諦めているような、儚げな雰囲気が漂っていた。

「あはは、そう、ですね……」

 しかし、このとき僕は彼女のことを、公園のベンチに寝転がり胸の前で手を組んで目を瞑る変な人、という印象を浮かべるしかなかった。

 きっと誰であってもこんな反応をしてしまうだろう。

「あれ君、その制服……私たち同じ学校みたいだね」
「あっ、ほんとですね……」

 彼女が頭をのせていた服は紺色の、なんの変哲もない僕の通う学校の制服だった。
 
 今更気づいたが彼女はきっちり締められたネクタイに、長くも短くもないスカートを履いている。

「君、一年生でしょ」
「そうですけど、なんでわかったんですか?」
「へえ、やっぱりそうなんだ」

 どうやら僕は鎌をかけられたようだ。

「そういうあなたは?」
「二年生、君の先輩ということになるね」

 やっぱり先輩か。

 もしこんなに容姿の美しい人が同級生にいたら、きっと入学後四日でも話題に上がるようになるだろう。

 それにしても、なにか重要なことを忘れている気がする……。
 
「あ、そういえばなんであんな格好で寝てたんですか?」

 違和感の正体はこれだった。一番重要で不思議で不可解なことを聞けていなかった。

「いつになったら、どんな人が私を眠りから覚ましてくれるか気になってね」

 先輩はイタズラをするような顔でシシシと笑った。

「……もし、目の前が何もない砂漠だったとしてその砂漠の中にただ一輪だけ花が咲いていたとします。それを見たら君はどうする?」

 僕が少しの間黙りこくっていると先輩は不思議な質問をしてきた。

「……多分、見守る、と思います」

 突然の質問の意図を掴めずにいたが、僕は自分の考えを述べた。

「どうして?」
「……きっと、引っこ抜いて家で育てればもっと綺麗に花を咲かせると思います。だけどその花を咲かせるまでずっと砂漠で育ってきたのなら変な手助けはせず、見守ると思います」

 この人と話していると、なぜだか不思議といつもより口が回る。口は回るのに、言いたいことがうまく言えない。

「君は優しいんだね」

 先輩がクスリと笑う。

「僕は、優しさしか持ってないんですよ」

 つい昔のことを思い出してしまい、苦虫を噛み潰したような顔をしてしまうと、先輩は表情に、どこか寂しい色を滲ませた。

「優しさにはきっと色々あって、偽りの優しさとか言われるものもあるし、時には叱ることも一つの優しさって言う。だけど君の持つその優しさは間違えなく本当の、人を幸せにできる優しさだと思う」

 真っ直ぐな瞳で、語りかけるように、なだめるように先輩はその声を響かせた。

 昔からなにもない自分の唯一の取り柄が優しさだった。

 この不思議な先輩はその優しさが人を幸せにできるものだと言った。

 ずっと僕の心に影を落としていたなにかが、ふわりと無くなったようなそんな浮き立つような救われたような気持ちが湧き上がってきた。

「そう、なんですかね…」

 変に緊張しているのか、なぜだか僕はうまく話せず、変な苦笑いをしてしまった。

「じゃあ私は溜まった宿題をしないといけないから、そろそろ帰るよ」

 ニコッと今日見た中で一番子どもらしい笑顔を見せて先輩は制服を羽織って立ち上がった。

 蝶のように歩き出したその背中に向かって僕はいつのまにか声をかけていた。

「あのっ、また会えますか?」

 同じ学校ということはわかっている。僕が聞いているのは、またこの場所で会えるかということだ。

「……君がまた、私を起こしてくれたらね」

 その意味を汲み取ってくれたのか、ゆっくりと振り返った先輩は真剣さと優しさを混ぜ込んだ笑みを浮かべた。

 そう言ってまた、サクサクと何度も何人も歩いて道になった道を先輩は歩き出した。

 ぼーっと吸い込まれるようにその小さな背中を見つめていると、なんだか違和感がした。

 ————先輩の名前、聞くの忘れてたな。

 その日は、あまり小説の内容が頭に入らず、その後すぐ、自転車と一緒に帰路に着いた。