前回のあらすじ
愛とは。
頭痛がした。
頭の中をかき回すような頭痛がした。
そしてそれとともに、紙月の脳裏に神の姿が思い出された。
神は五月の日差しに似ていた。
柔らかく、透明で、どこまでも無関心に降り注ぐ、光の雨。
お前には二つの選択肢がある。
神は言った。
一つはこのまま魂を輪廻に預け、永劫回帰に身を任せるか。
一つはお前の魂を我が手に預け、箱庭世界に身を投じるか。
二つに一つだ。
ただ死ぬか。
新たな生か。
選べ、古槍紙月。
「METOは……METOはどうなったんだ?」
お前の友は箱庭へと旅立った。
今世での憂いを嘆き、来世に希望を託し、我が箱庭を遊び場と選んだ。
神の言葉は、紙月にはよくわからなかった。
ただ相方が助かったのだということだけは何となくわかった。
少なくとも生きているという意味では。
紙月は尋ねた。
死ぬとどうなるのかと。
神は答えた。
なにもない、と。
紙月は尋ねた。
生まれ変わればどうなるのかと。
神は答えた。
なにをしてもいい、と。
結論はすぐに出るようなものではなかった。
悩むことが多かったからではない。
まず何を悩めばいいのかわからないほどに、紙月は空っぽだったからだった。
古槍紙月にとって、世界とはどこか書き割りじみていた。
薄っぺらで、現実感に乏しく、どこまでも無価値で無責任だった。
そしてそれは紙月自身が薄っぺらで地に足がついていない、無価値で無責任な存在だからということもわかっていた。
昔から大抵のことはできた。
絵を描くこと。文章を書くこと。走ること。踊ること。歌うこと。
でもどれも一等賞を取ったことはなかった。
誰かの真似をすることはできた。でも誰かになることはできなかった。
誰かの模倣をすることはできた。でも自分になることはできなかった。
いつだって紙月は二番目か三番目だった。
才能がないわけではなかった。でも届かなかった。
努力はしているつもりだった。でも届かなかった。
才能があって努力もして、それでも目には見えない何かが、一番と紙月との間に横たわっていた。
資格魔と言われるくらいにいろいろな資格を取った。
役に立ちそうなものも、役に立たなさそうなものも。
きっと何かになれるだろうと、きっと誰かになれるだろうと、ひたすらにあがいた結果は、しかし届かなかった。
どんな資格も、どんな免許も、取るのに苦労なんてしなかった。
けれど、それを一番になるまで磨き上げることはできなかった。
アクセサリのようにじゃらりと連ねた資格の類が、鎖のように酷く重たかった。
誰かの代わりにはなれた。でも誰かになることはできなかった。
誰かの替わりにはなれた。でも自分になることはできなかった。
紙月は予備だった。どこまで行ってもこの世界の予備だった。
紙月でなければならないことなどこの世には一つもなくて。
紙月でなければいけないことなどこの世にはなにもなくて。
紙月がいなければならない意味なんて、この世界にはなかった。
家に帰れば、家族でさえそうだった。
病死した父の代わりは母が十全に務めた。
子の役割は三人の姉たちが十分に務めた。
紙月はあまりだった。務めなどなかった。
姉たちはみな器用だった。
みな器用に生き、器用にふるまい、器用に楽しんでさえいた。
紙月が人の真似をして、人の模倣をして、ようやくたどり着く場所に、姉たちは自然体でいた。
大学に入って、演劇をしてみるようになって、紙月は自分の致命的な欠陥に気付いた。
どんな役でも演じられた。
どんな人でも演じられた。
どんな役目でもこなした。
どんな人間でもこなした。
でも、それだけだった。
「君には芯がない」
そう言ったのは誰だっただろうか。
思い出すこともできないほど、ささやかな言葉だった。
けれどそのささやかな言葉が、紙月の胸に今も深く刺さって取り除けないでいた。
君には芯がない。
ああ、そうだ。その通りだ。
古槍紙月には自分というものがなかった。
がむしゃらに自分というものを探して、いくつもの仮面をかぶって、それで結局仮面の内側がつかめないままで彷徨う亡者だった。
この世が舞台ならば、書き割りの世界ならば、紙月はただ役者という役割を演じられた。
だがこの世界は夢ではない。夢と同じものでできているふりをしても、むくろをさらすことは避けられない。
からっぽで中身のない、寒々しいむくろをさらすことは。
ゲームの世界では紙月は一息吐けた。
なぜならばゲームの世界ではだれもが役者だったからだ。
誰もがそれぞれのキャラクターという仮面をかぶり、誰もがそれぞれのキャラクターを演じていた。
そこにひとり、中身のない仮面が紛れ込んだところで、誰も気づかず、誰も触れたりなんかしない。
《エンズビル・オンライン》は紙月にとって救いだった。
METOはその救いの象徴だった。
他の誰でもない、ペイパームーンを求めてついてきてくれるたった一人の相棒。
しかし今やその夢さえ終わる。終わる。終わる。
死がもはや目前まで迫っていた。
避けようのない死が迫っていた。
だが死ぬことと生きていないことと何が違うだろうか。
いままでのいつわりしかない人生と何が違うだろうか。
そう思い至った時、紙月は決めていた。
「俺は……そうだった……俺が、選んだんだ」
夢と始まり夢と終わるのならば、せめて実のある夢を見ていたいと。
「選んだのは、俺だ」
それが、古槍紙月の異界転生譚だった。
用語解説
・異界転生譚
それは彼の物語である。
愛とは。
頭痛がした。
頭の中をかき回すような頭痛がした。
そしてそれとともに、紙月の脳裏に神の姿が思い出された。
神は五月の日差しに似ていた。
柔らかく、透明で、どこまでも無関心に降り注ぐ、光の雨。
お前には二つの選択肢がある。
神は言った。
一つはこのまま魂を輪廻に預け、永劫回帰に身を任せるか。
一つはお前の魂を我が手に預け、箱庭世界に身を投じるか。
二つに一つだ。
ただ死ぬか。
新たな生か。
選べ、古槍紙月。
「METOは……METOはどうなったんだ?」
お前の友は箱庭へと旅立った。
今世での憂いを嘆き、来世に希望を託し、我が箱庭を遊び場と選んだ。
神の言葉は、紙月にはよくわからなかった。
ただ相方が助かったのだということだけは何となくわかった。
少なくとも生きているという意味では。
紙月は尋ねた。
死ぬとどうなるのかと。
神は答えた。
なにもない、と。
紙月は尋ねた。
生まれ変わればどうなるのかと。
神は答えた。
なにをしてもいい、と。
結論はすぐに出るようなものではなかった。
悩むことが多かったからではない。
まず何を悩めばいいのかわからないほどに、紙月は空っぽだったからだった。
古槍紙月にとって、世界とはどこか書き割りじみていた。
薄っぺらで、現実感に乏しく、どこまでも無価値で無責任だった。
そしてそれは紙月自身が薄っぺらで地に足がついていない、無価値で無責任な存在だからということもわかっていた。
昔から大抵のことはできた。
絵を描くこと。文章を書くこと。走ること。踊ること。歌うこと。
でもどれも一等賞を取ったことはなかった。
誰かの真似をすることはできた。でも誰かになることはできなかった。
誰かの模倣をすることはできた。でも自分になることはできなかった。
いつだって紙月は二番目か三番目だった。
才能がないわけではなかった。でも届かなかった。
努力はしているつもりだった。でも届かなかった。
才能があって努力もして、それでも目には見えない何かが、一番と紙月との間に横たわっていた。
資格魔と言われるくらいにいろいろな資格を取った。
役に立ちそうなものも、役に立たなさそうなものも。
きっと何かになれるだろうと、きっと誰かになれるだろうと、ひたすらにあがいた結果は、しかし届かなかった。
どんな資格も、どんな免許も、取るのに苦労なんてしなかった。
けれど、それを一番になるまで磨き上げることはできなかった。
アクセサリのようにじゃらりと連ねた資格の類が、鎖のように酷く重たかった。
誰かの代わりにはなれた。でも誰かになることはできなかった。
誰かの替わりにはなれた。でも自分になることはできなかった。
紙月は予備だった。どこまで行ってもこの世界の予備だった。
紙月でなければならないことなどこの世には一つもなくて。
紙月でなければいけないことなどこの世にはなにもなくて。
紙月がいなければならない意味なんて、この世界にはなかった。
家に帰れば、家族でさえそうだった。
病死した父の代わりは母が十全に務めた。
子の役割は三人の姉たちが十分に務めた。
紙月はあまりだった。務めなどなかった。
姉たちはみな器用だった。
みな器用に生き、器用にふるまい、器用に楽しんでさえいた。
紙月が人の真似をして、人の模倣をして、ようやくたどり着く場所に、姉たちは自然体でいた。
大学に入って、演劇をしてみるようになって、紙月は自分の致命的な欠陥に気付いた。
どんな役でも演じられた。
どんな人でも演じられた。
どんな役目でもこなした。
どんな人間でもこなした。
でも、それだけだった。
「君には芯がない」
そう言ったのは誰だっただろうか。
思い出すこともできないほど、ささやかな言葉だった。
けれどそのささやかな言葉が、紙月の胸に今も深く刺さって取り除けないでいた。
君には芯がない。
ああ、そうだ。その通りだ。
古槍紙月には自分というものがなかった。
がむしゃらに自分というものを探して、いくつもの仮面をかぶって、それで結局仮面の内側がつかめないままで彷徨う亡者だった。
この世が舞台ならば、書き割りの世界ならば、紙月はただ役者という役割を演じられた。
だがこの世界は夢ではない。夢と同じものでできているふりをしても、むくろをさらすことは避けられない。
からっぽで中身のない、寒々しいむくろをさらすことは。
ゲームの世界では紙月は一息吐けた。
なぜならばゲームの世界ではだれもが役者だったからだ。
誰もがそれぞれのキャラクターという仮面をかぶり、誰もがそれぞれのキャラクターを演じていた。
そこにひとり、中身のない仮面が紛れ込んだところで、誰も気づかず、誰も触れたりなんかしない。
《エンズビル・オンライン》は紙月にとって救いだった。
METOはその救いの象徴だった。
他の誰でもない、ペイパームーンを求めてついてきてくれるたった一人の相棒。
しかし今やその夢さえ終わる。終わる。終わる。
死がもはや目前まで迫っていた。
避けようのない死が迫っていた。
だが死ぬことと生きていないことと何が違うだろうか。
いままでのいつわりしかない人生と何が違うだろうか。
そう思い至った時、紙月は決めていた。
「俺は……そうだった……俺が、選んだんだ」
夢と始まり夢と終わるのならば、せめて実のある夢を見ていたいと。
「選んだのは、俺だ」
それが、古槍紙月の異界転生譚だった。
用語解説
・異界転生譚
それは彼の物語である。