前回のあらすじ
どう見ても茹で卵ですありがとうございました。
それから一年が経った。
ということはなくて、本当は夜も更けて月も傾きかけた頃。
両博士が交代で眠りにつき、見張りについていた二人も、退屈な茹で卵の絵面にうつらうつらとし始めたころのことだった。
ぴしり、と小さな音に気が付いたのは未来だった。
(うん?)
最初は気のせいかと思ったが、ぴしぴしぴしりと、小さいながらも音は続く。
(おや?)
ちらと横を見れば、紙月は半分寝入ってしまっているようで、ちょうど船を漕いで月まで飛んで行ってしまっているところだった。未来はピクリピクリと獣の耳を動かして、注意深く音を探った。
するとやっぱり、ぴしりぴしりと音が聞こえる。
「紙月」
「んっ……おう」
声をかければ頼りの相棒も、がくりと顎を落として目を覚ましてくれる。
「音がする」
「音?」
「ひび割れるみたいな」
「……わからん」
「僕が獣人だから聞こえるのかな」
「……だな。ハイエルフの俺には、目で見えたぜ」
そう言う紙月の目には、卵の上で踊る魔力の流れが見えていた。先ほどまでのまどろむ様子ではない、活発に踊り狂う様が。
「博士たち起こしてくる」
「うん、僕は見てるよ」
紙月が両博士を起こしに行く間、未来は金属桶のそばまで歩み寄って、のそりと屈みこんでその鎧の巨体で卵を見下ろした。目に見えるひびはまだ、見当たらない。しかし確かに卵は内側からつつかれて、こつりこつり、ぴしりぴしりと音を立てているのだった。
「どうです?」
「もうひびが?」
「いや、もう少しのようですけど……」
両博士がのぞき込み、危ないからと紙月が遠ざけたそのときだった。
「紙月!」
「おう!」
卵を覆う魔力が一段と高まり、びしりと大きな亀裂が卵に入った。亀裂はすぐにも広がっていき、びしりびしりとかけらを散らし、まず爪が覗いた。丸っこく、しかしそれでも紙月の指などよりもずっと太く大きな爪だ。それがもう片方飛び出す。そしてびしりびしりとひびは広がり、ついにごとりと殻を落として、とげとげしく凶悪な顔が飛び出した。
ぎょろり、と黄色くまあるい目が覗き、はっきりと二人の姿を捉えたようだった。
「うっ」
「むっ」
息をのむ二人を前に、地竜の雛はのっそりと殻を引きはがし、四つの脚でしっかりと湯舟を踏みしめた。
頭の先から尾の先まで二メートルばかり。体高は未来の腰ほどもある、ずんぐりむっくりとした巨体である。雛のうちから牙が生えそろい、らんらんと輝く目で見据えながら、これがのしりのしりと歩み寄ってくるのだから恐ろしいというのは言葉ばかりではない。
「は、博士、どうします!?」
「ど、どうしますって、どうしましょうか」
「孵化させた後の手順は!?」
「考えてなかった……」
「このバーカバーカ!」
狼狽える四人を気にした風もなく、地竜の雛はいよいよ未来の鎧にごつんと鼻先をぶつけ、そして。
「みゃあ」
しわがれた声でそう鳴くや、ぐりぐりと鼻先を押し付けるではないか。
「……おい、大丈夫か、未来」
「えーと……大丈夫、みたい?」
「……もしかすると、刷り込みかもしれません」
「刷り込みって、つまり、親と思われてるんですか?」
「かもしれない、というほかには……」
刷り込みというのはつまり、鳥の雛などが、卵から孵って最初に見たものを親と思い込む本能だそうである。これは姿かたちが全く異なる生き物相手でも起こる現象であり、人間相手の刷り込みも珍しくはないという。
試しに未来が撫でてやると地竜はごろごろと喉の奥から音を鳴らしたし、試しに金属桶から離れてみると、のしのしと湯から上がって追いかけるではないか。
「俺も触って大丈夫かね」
紙月がおっかなびっくり近寄ってみると、雛の反応は敏感であった。未来にしたのと同様に、鼻先をこすりつけてしわがれた声でみゃあと鳴くのである。これはどうやら二人一緒に見たから、二人とも親と思い込んでいるようだった。
一方で、これなら安全かもしれないと挑戦してみた両博士への反応は芳しくなかった。別に暴れたりかみつくという訳ではないのだが、近寄っても無反応、撫でても渋い対応と、露骨な反応の違いがみられたのであった。
「ふーむ。地竜にも刷り込みがあるというのは面白いですね。幼体や雛がなかなか発見されないのは、親と思い込んだ動物を追って、一定範囲内から離れないからなのでしょうか」
「そんな冷静に話してないで、どうするんです、これ」
「どうしましょうかねえ」
幸いにもこの雛は割合に賢いらしく、未来に対する時と紙月に対する時で力加減を変えてくれるので今のところのしかかられたり押しつぶされたりということはないが、それでも凶悪な形相の巨大な亀に付きまとわれるというのははっきり言って恐怖でしかなかった。
「とりあえず」
「とりあえず?」
「餌付けでもしてみましょう」
食糧庫の備蓄は豊富だった。
用語解説
・特に何もないいい実験だった。
どう見ても茹で卵ですありがとうございました。
それから一年が経った。
ということはなくて、本当は夜も更けて月も傾きかけた頃。
両博士が交代で眠りにつき、見張りについていた二人も、退屈な茹で卵の絵面にうつらうつらとし始めたころのことだった。
ぴしり、と小さな音に気が付いたのは未来だった。
(うん?)
最初は気のせいかと思ったが、ぴしぴしぴしりと、小さいながらも音は続く。
(おや?)
ちらと横を見れば、紙月は半分寝入ってしまっているようで、ちょうど船を漕いで月まで飛んで行ってしまっているところだった。未来はピクリピクリと獣の耳を動かして、注意深く音を探った。
するとやっぱり、ぴしりぴしりと音が聞こえる。
「紙月」
「んっ……おう」
声をかければ頼りの相棒も、がくりと顎を落として目を覚ましてくれる。
「音がする」
「音?」
「ひび割れるみたいな」
「……わからん」
「僕が獣人だから聞こえるのかな」
「……だな。ハイエルフの俺には、目で見えたぜ」
そう言う紙月の目には、卵の上で踊る魔力の流れが見えていた。先ほどまでのまどろむ様子ではない、活発に踊り狂う様が。
「博士たち起こしてくる」
「うん、僕は見てるよ」
紙月が両博士を起こしに行く間、未来は金属桶のそばまで歩み寄って、のそりと屈みこんでその鎧の巨体で卵を見下ろした。目に見えるひびはまだ、見当たらない。しかし確かに卵は内側からつつかれて、こつりこつり、ぴしりぴしりと音を立てているのだった。
「どうです?」
「もうひびが?」
「いや、もう少しのようですけど……」
両博士がのぞき込み、危ないからと紙月が遠ざけたそのときだった。
「紙月!」
「おう!」
卵を覆う魔力が一段と高まり、びしりと大きな亀裂が卵に入った。亀裂はすぐにも広がっていき、びしりびしりとかけらを散らし、まず爪が覗いた。丸っこく、しかしそれでも紙月の指などよりもずっと太く大きな爪だ。それがもう片方飛び出す。そしてびしりびしりとひびは広がり、ついにごとりと殻を落として、とげとげしく凶悪な顔が飛び出した。
ぎょろり、と黄色くまあるい目が覗き、はっきりと二人の姿を捉えたようだった。
「うっ」
「むっ」
息をのむ二人を前に、地竜の雛はのっそりと殻を引きはがし、四つの脚でしっかりと湯舟を踏みしめた。
頭の先から尾の先まで二メートルばかり。体高は未来の腰ほどもある、ずんぐりむっくりとした巨体である。雛のうちから牙が生えそろい、らんらんと輝く目で見据えながら、これがのしりのしりと歩み寄ってくるのだから恐ろしいというのは言葉ばかりではない。
「は、博士、どうします!?」
「ど、どうしますって、どうしましょうか」
「孵化させた後の手順は!?」
「考えてなかった……」
「このバーカバーカ!」
狼狽える四人を気にした風もなく、地竜の雛はいよいよ未来の鎧にごつんと鼻先をぶつけ、そして。
「みゃあ」
しわがれた声でそう鳴くや、ぐりぐりと鼻先を押し付けるではないか。
「……おい、大丈夫か、未来」
「えーと……大丈夫、みたい?」
「……もしかすると、刷り込みかもしれません」
「刷り込みって、つまり、親と思われてるんですか?」
「かもしれない、というほかには……」
刷り込みというのはつまり、鳥の雛などが、卵から孵って最初に見たものを親と思い込む本能だそうである。これは姿かたちが全く異なる生き物相手でも起こる現象であり、人間相手の刷り込みも珍しくはないという。
試しに未来が撫でてやると地竜はごろごろと喉の奥から音を鳴らしたし、試しに金属桶から離れてみると、のしのしと湯から上がって追いかけるではないか。
「俺も触って大丈夫かね」
紙月がおっかなびっくり近寄ってみると、雛の反応は敏感であった。未来にしたのと同様に、鼻先をこすりつけてしわがれた声でみゃあと鳴くのである。これはどうやら二人一緒に見たから、二人とも親と思い込んでいるようだった。
一方で、これなら安全かもしれないと挑戦してみた両博士への反応は芳しくなかった。別に暴れたりかみつくという訳ではないのだが、近寄っても無反応、撫でても渋い対応と、露骨な反応の違いがみられたのであった。
「ふーむ。地竜にも刷り込みがあるというのは面白いですね。幼体や雛がなかなか発見されないのは、親と思い込んだ動物を追って、一定範囲内から離れないからなのでしょうか」
「そんな冷静に話してないで、どうするんです、これ」
「どうしましょうかねえ」
幸いにもこの雛は割合に賢いらしく、未来に対する時と紙月に対する時で力加減を変えてくれるので今のところのしかかられたり押しつぶされたりということはないが、それでも凶悪な形相の巨大な亀に付きまとわれるというのははっきり言って恐怖でしかなかった。
「とりあえず」
「とりあえず?」
「餌付けでもしてみましょう」
食糧庫の備蓄は豊富だった。
用語解説
・特に何もないいい実験だった。